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2023年

朝日がかすかに紅葉を残す木々を照らしたり、

音にならないくらいのそよ風、

自分と遠くにある枝先は大きく手を振って、

耳を澄まさずとも、小鳥たちのことばが飛び交って

今はこの空間で完結している。


2年前もここへ来たのに、だけど2年も経つと老いを感じて、一歩一歩踏み出す足は重かった。
もちろん、その当時と心の荷の重さも違う。
その時何を感じていたのか、残したいと思うほど感じていたものがあったかどうかも正直わからない。

いまは、人混みでかき消されない、たしかに遠くまで見える坂を登りながら、切れる息と心のうちにあるものも吐露して足跡を残していた。

目の前に富士山と向かい合わせたとき、
過小も過大もせず、飾らない、等身大の自分を見守ってくれていた気がした。


この1年間の自分の足取りを確かめた。
どんな変化があって成長といえるのか、どんな程度の頑張ったなのか、直感的になると、自分の周りにいる他者と比べて基準を作ってしまう癖はやはりある。基準はそこではないことは、わかっていても受け容れられず枠から抜け出せない自分がもどかしい。
寄り添うとは何か、自分のエゴにならぬよう、本人の感じ方を尊重した行動を、と心がけても、感じ方の軸はまたもや自分になっている。
相手がどう感じているのかは、たとえ自分が相手の立場に立っているという自覚があったとしても、それはただ<自分の中にある相手の偶像>でしかないのだろう、それが限界なのかもしれない。だけど、それでも自分のキャパに相手を当てはめるほか相手を知ることは容易ではなくて、そこからどれだけ自分が<自分自身の枠組み>から外れて、相手に近づくことができるか。模索しながらぐるぐるしている。

どこかで荷物をもって佇んでしまったとき、
自分が持っていた重い荷物を誰かとお互いに分け合って持ってくれていた実感よりも、早く荷物を下ろせるよう違う道を早足で歩いてみる工夫をしたり、「その荷物少し置いていきなよ」と道の途中で教えてくれた人がいた。そうして、立ち止まって息を整える時間も大切だと心から思えた。
相手に荷物を持ってもらうのにも、自分から言い出さないと何もしてくれない。パワーレスの時に「ねえ」と声をかけるには、わずかばかりの力を振り絞る必要があることを痛感した。
今までは何も言わずとも「してもらう」経験というのが、こどもとして育ちおとなになるための要素だったのだと気づいた。
成人を迎え学生という身分でありつつも、今度はその役割を返していく立場に変わる。その転換の時期に迷いや葛藤が生まれても当然だと、自分に言い聞かせられるようになった。


ひと息ついた後、歩き出してみると体力は回復していることに気がつく。限界という区切りはさほど近くにはなく、意外とあっという間通り抜けていたこともあった。登り坂のときは足を持ち上げて、下り坂の時はスピードをセーブして、一歩一歩前に進み今日まで歩んできた。

富士山は変わらずずっとそこにいる。
そして、来年の年の瀬にも、大事なものを抱えて伝えに来れるだろうか。これからはじまる新しい年の自分には何が必要だろうか。

わずかな刺激に心が揺らいだり、
言葉にならないものに思考を巡らせ探ることもあれば、
唐突に突き放してしまうぶっきらぼうな自分も変わらずいるだろう。

どんな時間においても、その瞬間が自分にとって懸命であり続けられたらいい。その姿勢は、今までももこれからも、可も不可もなく「自分」であるだろう。良し悪しで図ると人間という価値の元も子もない。そんなことを思い返せる余裕を持ちながら、自分のことにも理解に努め、他者に歩み寄って多様性に還元できる力が少しでも身につけられればと、、。

自分で持ちきれるくらいの抱負にして、
新しい年へ向かいたいと思います。

12月22日 AM9:15

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