「ロード・オブ・ジムナスト ~元女子校からはじまる無名の覇道~」第1話

 体操場が、ごうごうと燃えていた。
「は……?」
 肩に提げたバッグがどさりと音を立てて地面に落ちた。僕はそれを気にも留めず、ただ目の前の光景を食い入るように見つめ続ける。
 消防車の音が近いとは思っていた。だけど、その対象が目的地だったなんて誰が思うだろうか。
「……樹! 駿河正樹!」
 突然肩を掴まれ、首だけで声の主を探す。
「ここは危険だ。お前も避難しろ!」
「え、あ、はい……」
 声の主……体操部顧問に押されるがまま、僕はその場から離れる。すれ違うように、追加の消防車がやってきた。いつもはうるさいセミの音は、火事の轟音と放水、サイレンの音でかき消されてしまっている。僕の体は冷え切ったように震えていた。
 体操以外のことにはからっきしの僕にも、この火事が尋常なものではないとわかる。

 ……体操場が全焼したと知ったのは、翌朝のことだった。

「すまん、正樹。うちの学校では体操部を再建することはできない」
 その日の放課後、顧問に呼び出された僕は、そこで詳細な説明を受けた。
 体操場が全焼し、器具が全滅したこと。とある教師が昨日体操場付近で隠れてたばこを吸い、その火の始末が十分でなかったこと。当該教師は懲戒処分となったが、失った器具の弁済は教師個人も学校も不可能であること。
「正樹は……体操の特待生だ。今後の体操界になくてはならない人物だ。お前の編入先は俺が必ず探してやる。すまないが、それまで待っていてくれないか」
 急すぎる展開に、頭がついてこない。ただ、今の僕にできることは。
「……わかりました。器具を使わないトレーニングに集中します」
「ああ。……すまない」
 心底申し訳なさそうに俯く顧問を前に、僕はどうすることもできなかった。

 ◆

 顧問が編入先を探すと言って、はやひと月が過ぎた。
 この頃になると僕の心にも少しずつ余裕ができて、先のことを考えることもできるようになってきた。とはいえ、できることといえば相変わらずウェイトトレーニングやランニングで基礎能力の向上に努めることくらいしかない。いつかまた器具にかかるとき、より高い難度の演技にすぐ挑戦できるように。
 僕の事情を知っている顧問は、学費免除の特待生待遇での編入先を探してくれている。だけど、直近の大会で目立った結果の出ていない僕をその条件で迎え入れてくれる学校はなかなか見つからないようで。
「すまん、もう少しだけ待っていてくれ」
 たびたび顔を合わせるたびにそうやって頭を下げる顧問に、僕はなにも言えなかった。
 しかし、その日呼び出された僕が見たのは、満面の笑みを浮かべる顧問の姿だった。
「喜べ正樹、お前を受け入れてくれる学校が見つかったぞ!」
「ほ、本当ですか!?」
 僕の問いに大きく頷くと、顧問は大きな体のせいでやたらと小さく見えるノートパソコンを操作すると、僕に画面を見せてきた。
「駿河正樹さんを、ぜひ当学園の特待生として迎え入れたく存じます……!」
「そうだ。向こうさんにもいろいろ事情があるようでな、いくらか条件を出されてもいるんだが……正直、これ以上の候補はないと思う」
 さっきまで喜色満面といった様子の顧問の表情が曇る。僕は首を傾げて。
「条件、ですか? というか、どこの高校なんですか?」
 僕の問いに、顧問はしばし告げるのをためらうように俯いて。
「……私立桃義女学園だ」
「……はい?」
 僕の耳がおかしくなったのだろうか。今、顧問はなんと言った?
「お前も名前は知っているだろう。山の上にある女子校だ」
「いや、まあ、知ってはいますけど……女子校ですよね?」
「そうだ。今はまだ、な」
「今は、まだ……?」
 僕の問いに、顧問はまたノートパソコンの画面を見せる。
「これは、パンフレットですか? 私立、桃義学園……?」
「そうだ。私立桃義女学園は、この秋から共学化し、学校名が変更になる」
 ノートパソコンをひったくるように受け取り、タッチパッドを操作してパンフレットに目を通す。そこには、共学化したことを知らせるメッセージ。そして、
「国内トップクラスの部活動設備……」
「そうだ。俺も先方から聞いた話でしかないが、桃義女学園は少子化で年々入学者数が減少しているらしい。そこで共学化する決断をしたが、男子学生を募集する上で学園の特色として部活動に力を入れているとアピールしたいそうだ」
 パンフレットには新規設立予定の部活動一覧が掲載されている。その中には、「男子体操競技部」の名前もあった。
「お前に求められているのは、新設される桃義学園体操部を率いて全国トップクラスの部だと示すこと……簡単に言えばインターハイの団体優勝を目指してほしいそうだ。そのための追加編入募集や特待生入試枠の確保も行う予定らしい」
「インターハイの、団体優勝……待ってください。僕の編入は共学化と同時……今年秋になるってことですか?」
「そうなるな」
「そのタイミングで他に編入する男子体操部員は……」
「今のところ見つかっていないらしい。他に部員がいればそいつもと言われたが、今はお前しかいないしな」
 ……ということは、僕は誰が来るかもわからない元女学園で男子体操部をインターハイ優勝に導かないというけないということか?
「それは……」
「まあ、先は見えないだろうな。だが、この地区も、周辺の地区も、お前を特待生として受け入れてくれる学校はなかった。こんなこと、俺が言えた義理ではないんだが……覚悟を決めて桃義学園に編入するか、体操を諦めるか、選んでほしい」
 苦悶の表情を浮かべながら、顧問が俺に問う。僕に、選択の余地はなかった。
「行きます。桃義学園に」
「わかった。学校の方で手続きを進めさせてもらう。お前にも手伝ってもらうことがあるかもしれないが、ひとまずは編入に備えてトレーニングを継続しておいてくれ」
「わかりました」
 僕は頷くと、その場を辞してトレーニング室へ向かう。
 僕が信じた体操競技の道を、こんなところで諦めるなんてことはできない。先方の要求に応えるため、僕にできることはまだまだあるはずだ。たとえ器具にかかることができなくても。
 いてもたってもいられず、トレーニング室に向かう足が早足になるのを止めることができなかった。

 ◆

 編入の手続きは想像よりもあっさり終わり、編入までの時間もあっという間に過ぎていった。
 気づけば僕はお世話になった高校を去り、桃義学園に編入する日がやってきた。体操の特待生として入学し、気づけば唯一の部員になっていた僕に友人のようなものはなく、クラスメイトからは形式的な挨拶をもらってあっさりとした別れになった。
(そう考えると、あの学校に未練はもう何もなかったんだな)
 自分でも驚くほどにすっぱりと前の高校のことは前のことと割り切って、これから始まる新しい生活に気持ちを切り替える。
(あれ?)
 そこでふと気づく。僕がこれからいく場所はどんなところだったか。
(そういえば、桃義学園って昨日まで女学園だったんだっけ?)
 少しでも早く体操器具を使用するため、僕は共学化すると同時に最初の男子生徒として桃義学園に編入する。それはまあいい。
 だけど。
(最速編入生って僕のほかにどれくらいいるんだろう?)
 補助さえいれば最悪ひとりでもなんとかなる体操部はともかく、サッカー部や野球部はせめてチームを組めるくらいは人数がいないとまともに練習できないだろう。それくらいの人数は最初から集められただろうか。
(各部のレギュラー外の有力株を拾えば……それくらいはできるはずだ、うん)
 嫌な予感を振り払うように頭を振り、学園に向かって自転車を漕いで山を登る。
「やって、やるぞ……!」
 近づいてくる校門に向かって、そう声に出して誓う。

「本日より当学園は共学校となり、学園名を桃義学園と改めて再出発することになりました」
 来客用窓口を頼って職員室を訪れた僕は、全校朝会の場で挨拶を求められた。急な依頼に驚きつつも、クラス向けにと挨拶は簡単に考えていたから軽い気持ちで了承した……んだけど。
「編入や新入生の募集は次年度から本格的に行いますが、それに先駆けて一名の男子生徒が本日から編入することになりました」
(やっぱりいいいいいいい!!)
 学園長の挨拶中、僕はその後ろでパイプ椅子にひとり座って待機していた。さっきから、目の前に広がる女性陣からの視線が痛い。
「彼は体操部で活動していましたが、先日の火事で体操場が全焼となり練習ができなくなりました。そこで新たな編入先として当学園が手を挙げ、彼を受け入れることにしたのです。彼にとっても、周囲に女子しかいない環境というのは不安に思うこともあることでしょう。お互いを尊重しあい、半年後の本格的な男子の入学・編入学に向けて心構えを作っていきましょう」
 そう言って、学園長は挨拶を締める。次は、僕の挨拶の番だ。
「駿河正樹と申します。先ほど学園長も言っていたとおり、高校の体操場が全焼したことで体操をできなくなり、引き続き体操ができる場所として桃義学園に編入することとなりました」
 カンペを読みながら、なんとか緊張を押し殺すように挨拶をはじめた。
「僕は家庭の事情で、学費免除の特待生待遇が必要で、それを認めてくれたのは桃義学園だけでした。この恩義に報いるべく、私は男子体操部を全国トップクラスにしてみせます」
 まあ、部員は僕だけなんですけど。と軽く言ってみるが、笑いが起きるわけではなかった。僕は言葉を続ける。
「私は体操が大好きです。難しい技が綺麗に決まると気持ちいいですし、他人の美しい演技を見ていると自分もこんな演技をしたいと思います。きっと、皆さんの心にもそういう想いを抱いてもらえるような演技ができるよう、これから桃義学園男子体操部で頑張っていきます。これからよろしくお願いします!」
 言い切って、深く頭を下げる。
 割れんばかり……とはいかないまでも、それなりに拍手がもらえ、僕は安堵する。こんなに緊張したのは高校はじめての公式戦以来かもしれない。

 なんにせよ、これで賽は投げられた。
 これからどんなに女子から非難されようとも、どんなに居づらくなろうとも、僕はここでやるべきことをやるだけだ。

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