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Well-beingにモヤモヤする

モヤモヤする

 最近至るところでWell-being(ウェルビーイング)という言葉を聞きます。学術的な記事ではないので言葉の説明はパーソルの記事に丸投げしますが、この広がりに私はすごくモヤモヤしています。
 誤解を恐れる人間なので少し補足すると、Well-beingという考え方にはモヤモヤしていないです。むしろとても肯定したい考え方なのですが、そういった言葉が巷にライトに広がっていることにモヤモヤしています。
 Well-beingに詳しい方からすると”わかってない”記事かもしれませんが、こういった解釈をしてしまっている人がいるサンプルとして個人のお悩みを読む気持ちで眺めていただけると幸いです。また、私の考えの至らない部分を磨くための批判は歓迎ですので、時間を割いてもいいと思っていただいた方はぜひお伝えいただけると幸いです。

共有価値軸の減少

 少し、いや大分話はズレますが、最近私が感じることの一つに、共有価値軸の縮小があります。共有価値軸は、私が勝手に作った造語ですが、自身と他者で共有している価値軸を指しています。例えば、まちづくりをやっている人たちの間での「おもろいこと」だったり、ファッション業界での「カワイイ」など、価値軸とそれらを共有する集団をセットにして考える枠組みです。
 共有価値と言うと、真っ先に浮かぶのはマイケル・ポーターが提示したCSV(Creating Share Value)でしょうか。専門ではないので、ざっくり利益追求だけではなく、一般的に共有可能な価値(社会的な価値)の創出を同時に行う。つまり、社会貢献と利益追求を分けることなく企業活動によって同時に行っていくといったものとして理解しています。
 そのような共有価値の軸が縮小している、とはどういうことでしょうか。
 一旦、ここでは価値を感性的価値とシステム的価値に分けて考えてみます。感性的価値は「”私が”感じる価値」、システム的価値は「”指標やシステムによって”判定される価値」とゆるく定義付けておきます。
 あくまで私の肌感のため調査データに基づいた主張ではありませんが、多様性が重要視され、様々な感性的価値観が受容されていく中で、集団の中で共有できる価値軸が減っているように感じます(図)。そのため、集団の中でコミュニケーションを取るために調整の必要な感性的価値観ではなく、そのままで使用可能なシステム的価値、つまり金銭などが共有価値軸として使用されるようになっているのではないでしょうか。
 数字で表すことが多くの場所で求められる時代の背景にはこういった価値観の重なりが減ることによって共通言語が失われることも影響しているのではないかと思っています。

図 感性的価値の多様化と重なりの減少

土台のギャップ

 ズレた話の中で、共有価値軸の減少とそれに伴うシステム的価値の多用を感じることをお話してきました。これが自分がWell-beingの広がりにモヤモヤする原因の一つだと私は感じています。
 どういうことかというと、パーソルの記事の中でも主観的なWell-beingを高めることを目指すと書かれていましたが、これには先程の価値の話で言うところの感性的価値が大きく関わってくるように思えます。しかし、先ほど書いたとおり、(少なくとも私の感じる範囲では)システム的価値を用いたコミュニケーションが多く発生しており、Well-beingという概念を導入する土台が整っていないように思えます。
 良い悪いの話ではなく、少なくとも主観的なWell-beingを考える上で、誰かの文脈の上に立ち上がる価値を文脈を無視して考えることは難しく、ある程度文脈を無視できることが利点のシステム的価値は相性が良くないのではないかと思います。
 そのため、システム的価値を用いたコミュニケーションが主となっている現状で、Well-beingの導入という状況がどうにもちぐはぐに感じてしまいモヤモヤしているのではないか、と自分の気持ちを考えています。

おわりに

 繰り返しになりますが、Well-beingの考え自体はとても共感できるもので、私自身こういった考えが浸透してほしいと切に思っています。
 一方で、現状の社会の土台ではそういった概念を受け入れることは難しいのではないかと感じてもいます。ビジネス中心の現代ではなかなか難しいことだとは思いつつ、Well-beingを受け止めきれる土台にするために、私たちの暮らし、働き、価値観を捉え直し動いていくのか自分にとっても大事な問いだと書いていて改めて感じました。


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