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よそ者と転化

 最近、俳句の世界観に触れようと『ことばの歳時記』(山本健吉、角川ソフィア文庫)を読んでいたら、こんな文と出会った。

大昔から日本人は、春が来るという気持を大事にした。もちろんこれは、日本人にかぎるまい。だが未だにその気持を失わず、日本人は節分の夜になると豆を撒くのだ。鬼を退散させるのだと言っている。だが、今でこそ鬼などと呼ばれてきらわれているが、昔は春になると、異郷から神が訪れてくると信じたのである。そして村々の生活が幸福であり、穀物のみのりが豊かであることを約束して、帰って行った。その約束の言葉が、冬を転じて春にするのである。

山本健吉(2016)『ことばの歳時記』角川ソフィア文庫, p.13.

 最初に読んだときは「節分の夜に豆を撒く文化にそのような背景があったのか!」と驚いて調べたが、そのような意味ではないようだ。冬/時候の季語である「節分」はもともと四季それぞれの分かれ目をいう語であったが、現在では冬と春の境目のみを示す語となっている。
 節分という日にくる異郷の神は、冬を転じさせ春にする。そして、それは村々の人たちの幸福と豊穣を約束するのである。この辺りは、折口信夫のまれびとについての言及でも同様の記述が見られる。

週期的に、この国を訪づれることによつて、この世の春を廻らし、更に天地の元に還す異人、又は其来ること珍なるが故に、まれびとと言はれたものである。

折口信夫(1995)『折口信夫全集 4』中央公論社.
(今回手元にこの書籍がなく、青空文庫を参照している)

 このような記述をみて、アニメ版「魔法使いの嫁」の「西の少年と青嵐の騎士」に出てくるワイルドハントを思い出す。wikipediaを見ると、ワイルドハントはヨーロッパに伝わる伝承であり、不吉なものや災いを運ぶとされている。メジャーではないものの、春分や秋分にも出現し、その際は翌年の豊穣を約束するとする説もあり、ほんのりと重なりを見出せる。

 これらに人間的意識があると思われてはいないと思うが、世に春を廻らせるという仕事はとても楽しそうだなと思ったりした。

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