堀井雄二はなぜユアストーリーで泣いたか(映画ネタバレあり)

このツイートについて、自分の見解を述べます。

映画のネタバレが大きく関わるので、映画を観た後に読んでいただいた方が良いです。


ツイッターで堀井雄二さんがこのようにツイートしており、

「堀井雄二が大ウソを言ってる」という風潮があるが、個人的にはそうではなく、

本当に物語として良い、と思っていると感じる。

その話をしていきたい。


なぜ堀井雄二は本作で泣けるか

まず、我々視聴者と、監修で立場が違う。

我々は映画の内容で伏せられていたものも、

堀井雄二は映画づくりの上ですべて開示されている。

そのため、我々とは全く感じ方が違うのである。

そんな大前提をなぜここで語る必要があるか?

それは、物語の構成が、最後のオチを知ってから振り返る事で、

構成が破綻していない事に気づくのである。残念ながら。


映画の構成はどういうものか

映画はほぼすべて、ドラクエ5のシナリオのように進む。

そして、ゲマを倒した後、ミルドラース復活の阻止を成功したタイミングで、

突然、外部世界からの侵入者が現れる。

コイツが登場する事で、今までの映像は

「VR化したドラクエ5を遊ぶプレイヤーの見ているもので、侵入者はゲームをクラッキングしてきた存在」

という事が明かされる。

ここが一番の梯子外しで、この映画をダメにしている決定的なシーンである。


であるのだが。


これを踏まえて映画をおさらいすると、

一応、今までの構成としては理屈が合う部分が出てくる。

それが、幼少期の省略にゲーム映像を使った事と、

フローラを選ぶ、という選択を迷いなく最初に取ろうとした点、

そして、妖精の国に向かう途中のキラーマシンに対してのメタ発言である。


幼少期は、ゲーム開始前にスキップフラグをonにしていた事が判明する。

フローラを選択する事も、開始前に「いつもビアンカ選んじゃうから今回はフローラにしたい」という思いがあり、

それが自己暗示となって、迷いなくフローラを選ぼうとしている。

そして、更にオプションで、妖精の国に向かう道中も、

開始前に「ロボットとも戦いたいんですよね」と伝え、

オプション追加された故の設定で、

ゲーム内で「今回はそういう設定じゃ」というメタ発言が行われる。


ここまで読んで、「なんだそれ?」と思った人にはこう言いたい。

「なんですかね?」


改変の中身を知っていると映画の伝えたい事は(一応)分かる

まあ、なんでそうなった、という残念さの話は後に述べるとして、

取り敢えず、まずは上記の設定を知っているものとして話を解釈し直してみよう。

そうすると、大人になって、懐かしいゲームがリメイクされ、

主人公であるプレイヤーは久々にドラクエを遊んでみることにする。

そして、ゲームの主人公として感情移入し過ぎるくらいにのめり込んだものの、

ゲマ討伐直後、外部から侵入してきたクラッカーに、

ゲームをやめて大人になれ、と言われる。

それでも、ゲームは良いものだ!としてクラッカーを撃退し、物語は終わる。

これがこの映画の全容である。

細かいツッコミどころはあるが。

この文脈だと、物語としては意外と王道的な話で、

かつ、"大人になってもゲームを愛することはやめられない"というテーマが見えてくる。

このテーマはゲームづくりの最先端を走り続ける堀井雄二さんが"嫌うハズがない"のである。

そして、ゴールを知っている事で、演出の意図を理解していれば、

なるほど、主張は一貫しているし、

毎回"今度はフローラにしたいけどやっぱりビアンカを選びたくなる"という(一部の)ユーザー心理を捉えているのである。


ならば、なぜ映画は批判されまくったのか?

構成力が非常に残念。

その一言に尽きる。

伏線が伏線として機能を果たしていなかったのである。

幼少期のスキップは、ドラクエ5プレイヤーからはこう見える。

「あの物語を2時間に納めるなら、こういう省略するよね」


フローラからビアンカを選び直すシーンはこう見える。

「まあ、積み重ねの時間の幼少期スキップしたし、迷ってるところから本心に気づくなら、こういう強引な収め方しないと尺足りないか」


結局、映画の時間に起因して、ところどころ省略しますよ、という話で自己解決出来てしまうのである。

妖精の国の道中のキラーマシンの件も、

「なんかドラクエみたいな雰囲気のためにメタ発言してるな?周回プレイモノか?」

という気にはなるものの、前半の匂わせ方が下手過ぎる(というか匂いがしない)せいで、

物語の軸が伝わらりきらず、あくまでドラクエ5の物語の描写、という概念は崩しきれない。

構成が残念過ぎるのである。


例えば、道中、もう1体別のまものが仲間になり、

すらりんが差別化されていたり、とか、

そもそも道中でバグのようなものが散りばめられていて、

すらりんが触ると治る、といった"綻び"のようなものがあれば、

その綻びがどう関わって解決されるのか、という興味を持てたかもしれない。

しかし、最後の最後まで世界は綻ぶことなく、

唐突な外部世界からの侵入者の登場が起きるため、

突然、映画側から現実に引き戻されるのである。残念ながら。


あるいは、最初から"ゲームを遊ぶ人物"が出ていても良かったかもしれない。

そうしたら、その人物と自分を重ねながら、世界を楽しめたのかもしれない。

ゲーム実況を観るような感覚で。


とにかく、視聴者への裏切り方が、卑怯過ぎるのである。

知らないルールを唐突に突きつけて、それでも俺は良い物を作った、

というようなつっぱねた構成とドヤ顔が、視聴者の怒りを買うのである。


まとめ

以上を踏まえてもう一度見直すと、

多分、評価が変わって、堀井雄二さんの意味も共感できるかと思う。

なので、彼なりの感想として責めないであげて欲しい。

でも、裏切りを感じた、という思いも分かるので、こればかりは、

「視点が違ったから、自分はダメだった」という感想に落ち着くしかないとも思う。

自分も2回目は、少なくとも劇場で観る気は起きないしね。

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