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『大事なものは』2000字 小説

じっとりと生ぬるい風がおでこと前髪の隙間を抜ける。秋なのに蒸し暑い。そんな曇り空の下、私は婚約者、陸のマンションの前にいる。合鍵を握ったまま、今にも降り出しそうな湿った空気の中で立っていた。
 遠距離恋愛になって三年。陸は今ごろ何も知らず、職場で働いているはずだ。何事もなく今夜も21時を過ぎたころ、私に電話をくれるだろう。昨日は電話できずごめんと謝り、いつものように毒にも薬にもならないような話をするはずだ。
 月に一度私に会いに来てくれるところも、ほぼ毎夜電話をくれるところも、変わっていない。が、女の勘が何かおかしいと警報を鳴らした。
 陸から私の予定を聞くようになったこと。
 夜電話ができない日を理由つきで報告するようになったこと。
 私がふいにかける電話に、出ないことが増えたこと。
 たったそれだけ。仕事が忙しいのだろうという理由で丸くおさまる違和感しかない。
 だけど、この勘は特別だ。
 人と人との間に漂う空気は、流れる水とよく似ている。心地よく流れる穏やかなせせらぎ。透明な音が心地よく響く空間。だけど、ちょっとした落石で、一晩降り続いた雨で、はたまた、夏の虫の死骸の積み重ねで。水はすぐに澱み、流線は変わる。
 目を閉じ耳をそばだてているだけなら、気づかずに済む、微かな変化。気づかない方が良いかもしれないところを、今日、私は自分のために覗きにきた。
 やけに冷えた指先で合鍵を鍵穴にさしこみ、回す。見慣れた玄関扉は温かい音で軋み開く。
 リビングのドアを開けると、先月陸と一緒に過ごしたこの部屋の光景が目の前と重なる。
 整理整頓された部屋。テレビがあって、小さなローテーブルがあって、コーヒーが少し入ったままのマグカップ。本棚には私が贈った観葉植物のテーブルヤシが飾られている。
 ゆっくり見渡し、そして、気が付く。
「煙草の匂い」
 掠れ声は空気に溶け、確信づけるように先月より強く主張する煙草の燻りが鼻についた。
 陸は煙草を吸わない。
 今すぐ帰ろうかと、一瞬思った。そうすれば私はそのうち陸と結婚し、安住の生活が手に入る。今度こそ赤ちゃんだって産める。
 一歩後ずさろうとした私を押し留めたのは、部屋の薄暗さがあの記憶を引き出したからだ。1人で産婦人科の薄暗い小部屋で横になった、あの感覚。
 あの時も、1人だった。静けさの中ずっと私はひとり、陸はきてくれなかった。お互いに大学生で就活中だったし、全て仕方ないとその時は納得していた。だけど、あの椅子の上に寝そべった途端に自分のせいだと自覚した。私に力がないから、この子はお腹に来る時期を間違えてしまった、私がもっと力があれば、私がもっと、もっと……そう、強く思ったのは覚えていて気づけば全てが終わっていた。何も変わらないと思っていたが、麻酔が効いた体ながら、お腹になにもいなくなったことがぞっとするほど身に沁みてわかった。確かにいたあの子は、自分のせいで、もうこの世のどこにもいなくなってしまったのだと。
 肺の奥まで煙草の匂いが入り込み、もう一切の迷いがなくなっていた。先月、私がベランダに立ち入るのを嫌がった陸。ベランダに続くベッド脇の窓を開く。
 小さな椅子と、吸い殻入れ。ベランダのさっしの隙間に積もった煙草の灰。匂いの出所がわかって、私はスマホで写真を撮る。ふと、思いついて、ベッドについている引き出しを開けると、煙草とバニラの甘さがふわっと鼻についた。ウィストンキャスターの白い煙草箱とライターが無造作にある。
 陸は、甘いものが苦手。食べるのも、匂いも。
 ふふ、と笑ってしまった。陸も、この煙草の持ち主に対しても。私はウィストンキャニスターの箱をそっとつかむと、ゴミ箱に捨てた。
「じゃあね」
 全部、これで陸とは終わり。これでいい。だって、私を大事にしない人を、私はこれっぽっちもいらない。自分を大事にしないと、本当に守りたいものができたときに守れないこと、私はもう知っているから。
 ここには二度と来ないと去り際に部屋を見渡すと、テーブルヤシが目に入った。確か花言葉は「あなたを見守る」で、だから私は陸この植物を贈ることにしたのだ。
「見守る必要、もうないか」
 葉に埃をかぶった罪のないテーブルヤシ。見かねて、私はビニール袋に入れた。この子は持ち帰ることにする。靴を履きながら、私はもう、陸にどう別れを切り出すか、さっぱりした気持ちで考えていた。7年も付き合ったのに、こんなに簡単に別れるのは白状かしら、と合鍵で玄関扉に鍵をかけながら思う。
 部屋にいた間にざっと雨が降ったらしい。さっきよりも澄んで冷えた秋の空気が体の奥に入り込み、白状なものか、と真っ当に否定できた。
 耳を澄ますと、雨上がりの知らない街は、聞いたことのない音を鳴らしている。私が踏み出すこのみちは、透明な明るい音で満ちている。澱みはもうない。

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