第1話【Icebreaker】1st Brake 「はじまり」の駅

俺が8歳のとき、親父が死んだ。

星乃川電鉄の運転士をしていた親父は、仕事中に事故に遭い、殉職した。聞くところによれば、事故の原因は車両の整備不良だったそうだ。

親父が死んだのに引き続き、その2年後に心労がたたったのか母ちゃんも病気で死んだ。

幸い、母方のじいちゃんとばあちゃんが、俺と2歳年下の弟を引き取ってくれたおかげで、不自由することなく生きてこられた。ただ、中学2年生の頃にいつも優しいばあちゃんに、鉄道科のある高校に進学したいと伝えたときだけは猛反対された。

「泰樹もあの人と同じ道に…」

事故死した義理の息子と後を追うように亡くなった娘を思い、涙を浮かべるばあちゃんの肩を抱いて説得した。

「大丈夫、俺、整備士になるからよ。俺がちゃんと整備すれば事故なんて起きねぇ」

俺は、もう二度と事故を繰り返さないように、その一心で整備士を志した。その近道である都立の鉄道高校に進学した。そのかいあって星乃川電鉄に就職することができ、車両の整備に明け暮れる毎日だ。

ブー…ブー…

まどろみの中で、部屋に響く音に気付く。

鳴動したスマホを手に取り、ディスプレイをのぞき込むと、見慣れた名前が表示されていた。同期入社の白瀬清春だ。

「う…うるせぇ」

今日は非番なので、独身寮の自室で二度寝を決め込もうとしていたところだったのを邪魔され、悪態をつく。

"おはよう。カフェで朝ご飯食べない?"

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スマホでメッセージアプリを起動し、見慣れた名前をタップする。

その名前は、宗谷泰樹。僕は彼のことをヤスと呼んでいる。星乃川電鉄に同期入社した男で、僕は大卒入社、ヤスは高卒入社なので4歳年下の24歳だ。

星乃川電鉄の駅数は60駅、営業区間はおよそ100キロの東京と神奈川を結ぶ私鉄だ。1924年設立、従業員数は3500名余り。

僕は車掌、彼は車両整備士だ。車両整備士は、パンタグラフなどの車両が電気を得るための装置、ブレーキ、台車などの機器類の状態や動作に異常が見られないかどうかをチェックし、必要に応じて消耗品を交換する仕事だ。

僕と彼は部署こそ違えど、何かと馬が合い、非番の日が合ったときには一緒に過ごすことも多い。鉄道会社に所属する駅員、乗務員、整備士は、盆、正月はもちろん、土日祝日も関係ない仕事なので、一般的な勤め人とは休みが合わない。そういったこともあり、自ずとプライベートでも同業者と行動しがちである。ヤスもそのうちの一人だ。

"カフェ?そんなシャレたところに行く金はない"

既読がついてすぐ、ヤスからの返信が表示された。
給料日直前の彼は金がない。それは毎月のことだ。それを熟知している僕は魔法のフレーズを繰り出す。

"僕がおごるからさ"
"清春のおごりなら行く"

僕が「おごり」の一言を入力するやいなや、流れるような勢いで快諾を告げるメッセージが表示される。完全に思惑通りである。

入社してすぐにヤスにいきなりファーストネームで呼ばれたときには、随分と距離感が近いと驚いたものだ。どうやら彼の出身校である鉄道高校では、近しい間柄の人はファーストネームで呼び合うのが慣例のようだった。それに倣い、僕も彼のことをヤスと呼ぶようになった。

"了解"
"じゃ、9:30にエントランスに集合"

9:30はわずか10分後である。"わかった"と返信しつつも、せっかちだなと独りごちる。

仕事中のヤスの様子はよく知らないが、社内で漏れ聞こえてくる話によると、なかなかのワーカホリックなようである。また、彼の辞書には「日和見」、「妥協」という言葉はないようで、入社直後から、納得がいかないことがあれば先輩、上司にも構わず意見したり、抗議したりする男だった。このようなアグレッシブなふるまいから、入社2年目にして「砕氷船」というあだ名を賜ったという次第である。

そのヤスとの待ち合わせ場所のエントランスというのは、星乃川電鉄の独身寮の玄関のことだ。

星乃川電鉄の車両基地や乗務区(乗務員の詰め所)が喜多水(きたみ)駅周辺にあることから、喜多水駅から徒歩5分という好立地に独身寮がある。

車両基地は駅から徒歩7分の場所にある「ふれあい広場」の地下にあり、整備士が車両を整備している。一方、徒歩5分の場所には乗務区がある。これらの事情から、喜多水駅停車中に乗務員交代が行われる。喜多水駅は「はじまり」と「おわり」の駅なのだ。

独身寮のエントランスでヤスと合流したのはぴったり10分後だった。「時間厳守」は鉄道員の習性の一つである。

「で、そのカフェはどこにあるんだ?このへんにそんなシャレたとこなんてあんのか?」

ヤスがいつものようにぶっきらぼうに話しかけてくる。

「カフェといっても特別オシャレってわけではないんだけどなぁ…」

朴念仁のヤスは、独身寮以外での食事は、ラーメン、牛丼、カレーライスぐらいしか知らないだろう。やれやれと思いながらも、レクチャーを始める。

「『ポラリス』って名前のカフェなんだけど聞いたことない?駅から5分だから、ここから10分ぐらいのところにあるんだ」

僕は、独身寮から駅を挟んで反対側にあるカフェの名を口にする。僕の行きつけの店だ。天体観測が好きな先代のオーナーが「北極星」を示す名を付けたのだという。

「…ふーん」

僕のレクチャーもむなしく、ヤスはテンション低めの声をあげる。おごりだからついてきただけで、あまり乗り気ではないようだ。

「もしかして、10分も我慢できないぐらい君は腹ペコだったりする?」
「うるせぇ。別に我慢できる」

なんだか悔しいのでいつものようにヤスを茶化して笑う。うるせぇ、と一蹴されるのもいつもどおりだ。とりあえず1回はこういったやりとりをしないと気が済まないのは僕の悪癖だと思う。

「そのカフェは、僕たち星乃川電鉄の社員の憩いの場所だよ」

僕たちと言ってみたのはよいが、ワーカホリックかつ群れるのが嫌いな彼は憩いの場に集うのは好まないに違いない。彼が集うとすれば、せいぜい車両基地内にある喫煙所ぐらいだろう。

「他のカフェじゃダメなのか?」
「行けばわかるよ」

そうこう話しながら歩いているうちに、歩道の脇に置かれた『ポラリス』という看板が見えてきた。2階が会計事務所となっている建物の1階にあるカフェが目的地である『カフェ・ポラリス』だ。入口のドアを開けると、古風なベルの音色に迎えられる。毎度のことながら風情があっていい。

「おはようございます、清春さん」
「渚ちゃん、おはよう」

栗色の髪を横でまとめたポラリスの店員の渚が、僕の隣にいるヤスに視線を移す。黒いエプロンに、手書きの「渚」というネームプレートをつけている。くるくる変わる表情が愛らしく、まるで小動物のような彼女はまだ二十歳になったばかりだそうだ。

「今日は初めて見る方と一緒ですね」
「うん、僕の友達で整備士の宗谷泰樹くん。ヤスって呼んでるよ」
「は?整備士なんて言われても、この子が困るだろうがよ」

ヤスの抗議は無理もない。普通のカフェでは、自分の所属は話さない。せいぜい名前ぐらいまでだろう。

だが、ここは、星乃川電鉄の社員御用達のカフェである。アルバイトを始めてまだ半年の渚は別として、オーナーの涼子は、常連客の誰と誰が同期入社で、仲がいいか悪いか、上司は誰かをばっちり把握している。もちろん、ここで見知った情報を黙っていてくれる口の堅さはありがたい。これもヤスに話さなければ。

「ヤスさんは、整備士なんですね。よろしくお願いします。私のことは、渚って呼んでください」
「…ああ」

所属する部署名を聞いても、まったく動じない渚にヤスは面食らい、短い声をあげるに留まる。

「ヤスさんと清春さんは部署が違うのに仲良しなんですね」
「うん、同期入社なんだ」

ポラリスは、カウンター席が4席、2人掛けのテーブルと4人掛けのテーブルが2つずつしかない小さな店だ。今日は、僕たち以外には客はいないようだった。ちなみに、星乃川電鉄の社員御用達の店といえど、星乃川電鉄に関する掲示は一切ない。休憩中や非番の日ぐらいは仕事のことを忘れられるようにという配慮からだそうだ。

「まぁ、そんなところだ」
「ヤス、コーヒーと…何食べる?イートインなら僕のお薦めはこれだよ」
「…」

僕はメニュー表にあるパニーニを指さすが、ヤスの視線は渚に釘付けで心ここにあらずといった様子だった。どうやらヤスは渚のことを気に入ったらしい。なんてわかりやすいのだろう。

「じゃあ俺もそれでいい…」

砕氷船という物々しいあだ名で呼ばれているヤスも、仕事を離れれば年相応の青年だった。可愛い女の子を目にすれば気になるが、積極的に声を掛ける度胸はない。見ているこちらが恥ずかしくなるほど初心(うぶ)だ。

ヤスは、少しでも自分をよく見せたいのか、跳ねた髪を何度も撫でつけていた。だが、彼のくせ毛はそれを許してはくれないようだった。僕は笑いをこらえながら、渚に注文を告げた。

+++++

渚は手元のメモ帳を開く。勤め先のオーナーである涼子から教わったことがびっしりと書かれている。カフェ・ポラリスでアルバイトを始めてもうすぐ半年になるが、まだまだわからないことも多い。

厳密に言うと、オーナーは彼女の夫である拓海なのだが、拓海はときどき店にふらりと来てふらりといなくなるので、店を切り盛りするのは専ら涼子だ。

渚は、高校時代にしでかした過ちをきっかけにすべてが狂い、大学受験に失敗していた。そんな状況に絶望し、高校卒業後は自宅に引きこもっていた。引きこもるようになってから1年が経とうとしていた頃、渚を見かねた幼馴染の優宇が一緒に住もうと言ってきたのだ。

優宇は、渚の実家のはす向かいに住む同い年の女の子で、家族ぐるみでの付き合いがあり、姉妹のように育った。高校卒業後は東京の大学に進学し、一人暮らしをしていた。優宇の誘いにより、彼女が大学2年生になるタイミングで一緒に暮らし始めた。その後、生活費の足しになればと思い、渚は家の近所にあるポラリスでアルバイトを始めた。

ちなみに、優宇が通う大学の最寄駅は喜多水駅ではなく、3駅ほど離れた駅だ。大学の最寄駅周辺に引っ越さなかった理由を聞いてみると、一笑された。

「最寄駅に住んだら電車に乗れないし、それに喜多水駅は、星乃川電鉄の車両基地と乗務区がある”聖地”だから」

そう、優宇は筋金入りの星乃川電鉄のファンなのだ。星乃川電鉄が主催するイベントや見学会に参加するのはもちろん、有名なスポットで車両の写真を撮るなど"推し活"に余念がない。「将来就職したら星乃川電鉄の株を買って支える」とまで豪語している。

さて、話を元に戻すと、渚がポラリスの採用面接を受けた際、ポラリスの時給がこのあたりの相場よりも高く設定されている理由を知ることとなる。

「ここはただのカフェじゃなくて、星乃川電鉄の社員さんのお話を聞くのが大事な仕事なの」

話を聞くのが仕事。

渚が高校時代にアルバイトをしていたカフェでも、客と世間話をすることはあったが、オーナーにそれを明言されたことはなかった。

聞けば、カフェの創業者である先代、つまり涼子の義父は星乃川鉄道の幹部と親しく、身も心も疲れがたまりがちな星乃川鉄道の社員が安らげるようなカフェを作りたいと思い、喜多水駅付近にカフェを開業したのだという。ちなみに、その息子である現オーナーの拓海は、先代のオーナーが現役だった頃から店に出入りしたり、町内の付き合いも積極的にしたりしてきたことから顔が広い。この前は、親しげな壮年男性を連れてきたかと思えば、星乃川電鉄の専務だった。涼子いわく、拓海は稀代の"人たらし"だそうだ。

「星乃川電鉄ってこのあたりを走っている電車ですよね?私、星乃川電鉄はおろか、電車のこと全然詳しくないんですけど」
「大丈夫よ。むしろあまり詳しくない方が話をフラットに聞けるから。でも少しずつでいいから地名や駅名は覚えてね」
「わかりました。一緒に住んでいる友達に路線図を借ります。何枚も持っているので」
「まぁ、頼もしいお友達と一緒に住んでいるのね」

渚は、苦笑いしながら同居人である優宇の顔を思い浮かべる。彼女は路線図を何枚も持っているどころか、寝言で星乃川電鉄の駅名を全て暗唱するような子だ。ポラリスの面接を受けるにあたり、彼女に相談したわけではなかったのだが、まさかこんなところで縁が繋がるとは思わなかった。

「私、高校出た後1年間引きこもってたので…こんな私でも星乃川電鉄の方とお話できるでしょうか?」

履歴書を見れば、丸1年間の空白期間があることは一目瞭然のため、渚は素直に白状する。

「大丈夫。ペラペラ喋る子より、聞き上手で口が堅い子の方が信用できるわ。私はそう思う」

まっすぐに自分を見つめ、微笑んでくれる涼子の優しさで凝り固まっていた心がほぐれていくのを感じた。

「引きこもっていた理由は、聞かないんですか?」

地元にいた頃は、高校時代にしでかした過ち、大学受験に失敗したこと、無気力で自室に引きこもっていたこと、すべてが非難の的だった。

『あんなに優秀だった渚ちゃんが…』
『あの子は親不孝者ね』

家族、優宇以外の同級生、近所の人に言われた言葉が脳内でリフレインする。

「理由は聞かないわ。でも、もし話したくなったときにはいくらでも聞くから、いつでも話してね」

ここでアルバイトをすることにしてよかった。涼子や星乃川電鉄のみんなに喜ばれる仕事をしよう、そう思うようになった。

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「ヤスさん、今日は来てくれてありがとうございます」

渚は、カウンター席に座るヤスに声を掛ける。隣にいる清春はニコニコとそれを見ている。

清春は星乃川電鉄の車掌で、私がアルバイトを始める前からポラリスの常連客だ。

以前、彼に運転士と車掌の仕事内容を説明してもらったことがある。運転士は「電車を運転する人」で、車掌は「安全確認をしてドアを開け閉めしたり、車内アナウンスをしたりする人」。また、運転士だけが電車を運転できると思われがちだが、車掌側にも非常ブレーキがあり、万が一のときには緊急停車させられるなど…専門用語は一切使わずに、話す人の知識のレベルに合わせ、わかりやすく説明してくれた。時々よくわからない横文字を言う変わった一面はあるが、中性的で穏やかな物言いやスマートな立ち振る舞いをする彼は、女性はもちろん誰からも好かれているのだろう。

その一方、右手の親指で清春を指すヤスは対照的だ。

「おぅ、清春のおごりだっつうから来た」

言葉遣いが乱暴でお世辞にもスマートとは言えないし、身なりにあまり気を遣っていないように見受けられる。また、くしゃくしゃになった煙草のパッケージが無造作に胸ポケットにつっこまれているところからも、ガサツな印象を受ける。「類は友を呼ぶ」とはよく言ったもので、人はだいたい似たようなタイプの人と仲良くなることが多い。だからこそ、清春とヤスが一緒にいるのが、しっくりこないのだ。

「清春さんはいろんな方を連れてきてくれますね」
「お気に入りのお店は紹介したくなっちゃうんだ。そういえば渚ちゃんって以前もどこかで接客をしてたんだっけ?」
「高校の頃もカフェでアルバイトしてたんですけど、こことは全然違いますね」
「客層が違うもんね」

清春は、うんうん、とうなずきながら、ミルク多めのカフェオレを口に運ぶ。伏し目になった彼のタレ目と左目の下にある泣きボクロが色っぽいと思っているのは、内緒である。

「実は、ここでアルバイトをするようになってから、人の話を聞くときのコツみたいな本を読むようになりました」

「渚ちゃんは偉いね。僕はつい自分が話しすぎちゃうからダメだなぁ」

清春が話しすぎるという下りを耳にしたとたん、今まで黙っていたヤスが額に手を当ててやれやれという仕草をする。

「清春、お前も少しはこの子を見習えよ」
「だってさぁ~」

清春はヤスの方に体を向け、語尾を伸ばしながら反論する。いつもは大人の余裕を感じさせる言動が目立つ清春だが、ヤスには心を許しているようだった。

「いえいえ、清春さんの誰とでも仲良く話せるところが羨ましいです。私は、初めて会う人と打ち解けられるというか…"アイスブレイク"は難しいって思っちゃいます」

アイスブレイクというのは、初対面の人同士の緊張をときほぐすための手法で、集まった人を和ませ、コミュニケーションをとりやすい雰囲気を作る技術を指す。ポラリスでのアルバイトを始めてまだ半年の渚は、未だに手探りだ。

清春が少し考えたあと、悪戯っぽく笑う。

「アイスブレイクか…Icebreaker…。あのね、ヤスのあだ名はIcebreakerなんだよ」

清春の口から発せられたIcebreakerがやけにいい発音なのが気になったが、それよりもヤスのあだ名の意味や由来を知りたい気持ちがそれを上回った。Icebreak+erだから、彼はアイスブレイクの達人なのだろうか?

「えっ、そうなんですか?」
「アイス…あぁ?」

あだ名を暴露された本人もIcebreakerが何を指すかわからないようだった。

「うん、正確に言うと『砕氷船』なんだけどね。ヤスはプライベートではおとなしいんだけど、仕事中は結構アグレッシブだから」
「それは言うなよな」

清春の言葉で、Icebreakerが砕氷船を意味するのだと知る。砕氷船とは、水面の氷を割りながら進む船のことで、北極海や南極海、凍結した河川など氷で覆われた水域を航行する際に使われる。

渚は、ペンギンのいる南極海の氷をバリバリと砕きながら進む砕氷船を想像したあと、周りの人をなぎ倒しながら進むヤスを想像した。

「そうなんですね!すごく強そうです」
「別に強くはねぇな。俺は間違ってることには間違ってると言うだけだ」

渚が何を想像していたかを知ってか知らずか、ヤスが冷静に反論する。身長は清春より少し低いが、腕まくりした袖からのぞく腕はずいぶんと頼もしい。整備士の仕事で鍛えられたのだろう。なのでてっきり…。

「みんなから聞いてるよ、君は仕事に妥協しないから、ほかのどの整備士よりもインシデントを見つけるのがうまいって」

インシデントというのは、実際には影響はなかったものの一歩間違えば事故に繋がる状況のことを指す。つまり、ヤスは事故を未然に防ぐ回数がほかの整備士よりも多いということだ。

「かっこいいですね」
「まあ、めんどくせぇやつって陰口は叩かれちまうけどな」

渚の誉め言葉にヤスは自嘲気味に言った。その表情を見るに、いろいろな人に陰口を叩かれたに違いない。ひとたび電車が事故を起こせば当然人の生死に関わるので、彼の功績は大きいだろう。ただ、悲しいかな、事故が起きれば誰もが注目するが、未然に防げたであろう事故についてはほとんどスポットライトが当たらない。

…そのとき。

「でもね、こういう整備士がいてくれるから、僕らが安心して乗れるんだよね」

清春のストレートな誉め言葉に、ヤスの太い眉毛がハの字になる。

「お前なぁ…恥ずかしいから外でそういうこと言うんじゃねぇ。次やったら、二度とお前と一緒に飯食わねぇからな」

渚は一瞬言葉を失った。てっきり「次やったらぶっ殺す」とでも言うのかと思えば、「一緒にご飯を食べない」だったのに加え、まんざらでもなさそうな顔をしていたからだ。どうやら、強面の彼にも可愛い一面があるようだ。そうなると、彼の太くて凛々しい眉ですら可愛く見えてくる。

ぶっきらぼうな物言いだが真面目で誠実なヤスと、砕氷船というあだ名をからかいつつも、相手を素直に褒められる優しい性格の清春。一見、全く正反対に見えるタイプだが、根が真面目で純粋というところで気が合うのだろう。パッと見の印象で「しっくりこない」などと一瞬でも思った自分が恥ずかしかった。

「ヤスさん、清春さん、私も"Icebreaker"になれるように頑張りますね」
「…どっちの意味かな?」
「アイスブレイクがうまい人、ですよ。砕氷船はヤスさんだけのあだ名ですから」
「ふふっ、それもそうだね。きっと渚ちゃんならなれるよ」
「ったく、2人して俺をからかうんじゃねぇよ…」

ヤスはブラックコーヒーを一口飲むと、短く笑った。

+++++

「優宇、コーヒー入れたよ」

喜多水駅からほど近いアパートの一室で同居する渚の手にはコーヒーがあった。渚はほぼ毎日朝の開店~夕方でポラリスのバイトに入っているので、一緒に過ごせる夜の時間は貴重だ。

「おっ、ありがと。美味しそう。さすがカフェでバイトしてるだけあるなぁ」
「何言ってるの~、ただのドリップコーヒーでしょ」
「それもそうやな」

自分でも馬鹿なことを言っている自覚はあるが、渚が笑ってくれるならあとはどうでもいい。

努力家で優しくてお人よし。星乃川電鉄の話でヒートアップする私を見ても「話の内容はよくわかんないけど、楽しそうな優宇を見てると私もうれしい」と笑ってくれる渚は私の女神だ。

最近では、渚が彼女本来の笑顔を見せてくれることも増えてきた。両親を説得して、渚を無理やり連れ出してよかった。地元には辛い思い出が多すぎる。

「バイトはどう?だいぶ慣れた?」
「うん、大変だけど楽しいよ。常連さんとも仲良くなってきたし。車掌の…あっ、名前は言っちゃだめだった」
「渚は本当に真面目やなぁ」

渚は「業務上知りえた星乃川電鉄に関わる情報の口外は厳禁」というルールを頑なに守っていた。渚のこういう真面目なところが大好きだ。

それにしても渚がバイト先としてポラリスを選んだことに運命を感じざるをえない。星乃川電鉄ファンの間では、ポラリスというカフェの存在や鉄道ファンは採用面接で見抜かれて不採用にされるということも含めて有名なのである。私自身、オーナーに会った瞬間に不採用になる自信がある。

「それってスペイン語?」

テーブルに開いている教科書を渚が指差す。第二外国語として履修しているスペイン語のテストが明日に迫っていた。高校時代から勉強したいと思っていたスペイン語を履修したのはいいものの、見事に苦戦している。

「そうや。明日テストなんやけど動詞の活用が覚わる気がせん。渚は朝早いのに、バタバタうるさくしてごめん」
「ううん、大丈夫。テスト頑張ってね」
「もちろん!渚のために100億点とってきたるわ。おやすみ」
「ふふっ、おやすみなさい」

(渚…よかったなぁ)

優宇は、渚の安らかな寝顔を見て、安堵のため息をついた。

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喜多水駅のホームにアルミ色のボディに水色のラインが入った12両編成の列車が進入してくる。その列車から降車した運転士と敬礼を交わし、乗務員交代を終える。

『本日も星乃川電鉄をご利用いただき、ありがとうございます。喜多水駅で乗務員交代を行いました。運転士・藤川、車掌・白瀬が、終点の新原(しんばら)までご案内いたします』

(あ~、嫌な感じする…)

運転士の藤川アキは、ねっとりとした視線に顔を顰めた。彼女は駅員、車掌、運転士候補者研修を経て、今年から運転士として勤務している。最近はようやく増えてきたものの、女性の乗務員はまだまだ珍しいので見られるのは仕方がないと思いつつ、嫌なものは嫌である。ちびっこたちに見られるなら大歓迎なのだが。

憧れの運転士になるためにずっと頑張ってきたのだ、嫌なことも我慢しなければ。アキは唇をギュッと結び、自分を奮い立たせた。

テクニカルライターをするかたわら、趣味の着物やオタ活をしています。