「はなぐはし」
・はじめに
五月杯が終わってから、自分が弁論する意味とか演台に立つ意味とか、色々考えているんです。思ったよりショックだったみたい。
なんだか、色々考えた結果自分の弁論観を再構築しよう計画が私の中で進んでいます。
とか言いつつも、自分は忙しい身に置かれているのが大好きなので毎日忙しく楽しく気持ちよく過ごさせてもらってます。
仕事ややることに忙殺されていると、なーんか悩みを忘れられるんですよね(いや忘れちゃダメやろ弁論と向き合え)。天性のブラック体質鴨。
まあ、そんなこんなで自分の弁論観を整理する意味合いでも、既存弁論について皆さんにも批評をしてもらいたいor弊部も中大新弁選考がはじまったということで、私の原稿を少しずつ紹介していこうかなぁなんて思っています。(文章の論理性皆無)
今回の弁論は「はなぐはし」。新歓弁論発表会にて行った、人生初の価値弁(?)です。想定聴衆を弊部の新入生もしくは弊部に興味がある新入生に限定しているので、多少詰めが甘い弁論ではありますが、「価値弁er」の皆さまにも何卒批評して頂きたく公開の運びとなりました。
そういえば、私の演題は毎回古典か和歌からの出典なんです。
私の弁論アイデンティティ・オリジナリティは演題にあります。
今回の出典は、日本書紀の十三「允恭天皇」です。
・漢
波那具波辭 佐區羅能梅涅 許等梅涅麼
波椰區波梅涅孺 和我梅豆留古羅
・和
花ぐはし 桜の愛で こと愛でば
早くは愛でず 我が愛づる子ら
・現代語訳
さくら(早く散ってしまう美しいもの)を愛でるように愛でるべきだった。早くから愛でずに惜しいことをした。ああ愛しい人よ。
「はなぐはし」は桜を導く枕詞です。それ自体に訳としての意味は持ちませんが、この言葉があってやっと「桜」が引き出せるんです。
天皇が衣通郎姫という姫をこっそり見ていた時に、天皇がいるとは知らず姫が天皇を想う歌を歌い、天皇は感動しました。
一夜明けて、翌朝に天皇が詠んだ歌がこの「はなぐはし」です。
なんだかロマンティックですよね。いつか古典布教企画でもしたいなぁ。
120字の文字制限があるTwitterと違って、文字数制限がないと蛇足が増えますね。スミマセン。
それでは原稿をどうぞ。
・原稿
「はなぐはし」
新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。そして、弁論部に興味を持っていただいてありがとうございます。
なんだか、見知った顔もいればはじめましての顔も見えます。ありがたい限りです。
今回、弁論部に興味を持ってくれている、または弁論部に入部したいと強く想ってくれている新入生に向けて一本弁論を書きました。
弁論は主に「政策弁」と呼ばれる、自分が問題意識を持った何かに対して問題点を訴えたのちに解決策を導く政策立案式の弁論と、「価値弁」と呼ばれる自分の価値観を聴衆に訴えかけ変革や思考の変化を求めようとする大きく二つのジャンルがあります。簡単なカテゴライズとしては、広く社会にまで訴えかけが及ぶのが「政策弁」。目の前や弁論を聴いている聴衆に向けて訴えかけるのが「価値弁」とされます。それで言うと、この弁論は価値弁要素と政策弁要素の混ざった弁論です。私は価値弁の要素を持つ弁論を書くのはこれが初めてなので、お手柔らかにお願いします;;
ところで!皆さんはなぜ弁論部に興味を持ってくれたのでしょうか。「話すのが苦手だったので克服したいと思った」といった“苦手の克服”を目的とする人もいれば「話すのが得意なので生かしたいと思った」という“得意を伸ばす”という目的のひとも。逆に、「話を聞くのが好き」という理由だったり、「自身の考えを深めたい」「私の哲学を育てたい」と、自己研鑽的な理由を持っているという新入生も居ました。様々な理由がある中で、共通しているのは「ことば」について魅力を感じている、という点です。
「ことば」という概念は非常に抽象的です。自身の考えを体外に排出する「手段としてのことば」という考え方もできれば、自身の内的な「思考のことば」と考えることもできます。また、それが実際に発声で用いられるものだけではなく、文字にしたためたもの、ツイート、手話やアイコンタクトですら「ことば」なのです。
そこで今回は弁論部に興味を持ってくれた諸君とともに、「ことば」と「弁論」について考えてみようと思います。
ではでは、みなさんは「弁論」と聞いて、何を思い浮かべるでしょうか。
ひろゆき!論破!政治家!演説!そんなイメージがあるでしょうか。
デジタル大辞典によると「弁論」とは大きく3つの意味があるようです。
1つ目は、「大勢の前で、意見を述べること。」
2つ目は、「互いに論じあうこと。また、その議論。」
3つ目は、「法律用語。口頭弁論や最終弁論。」
弊部で行う「弁論競技」においては、人前に立って自身の意見を述べることとお互いに論じ合うと言う1と2の点が内包されています。
そう私が今皆さんの前で話しているこれこそさもありなん、弁論というわけであります。
あれ?でも、論じ合ってなくない??
そう、今皆さんは10分以上も面白いのか面白くないか、すら!わからない私の話を一方的に聞かされています。後ほど10分程度の質疑応答の時間が用意されているものの、質疑における弁論へのレスポンスには「2点まで」と「関連質問一回まで」という制限が設けられているわけです。非常に一方的ですよね。
では、なにが「論じ合うこと」すなわち「議論」たらしめるのでしょうか。
日本国語大辞典で【議論】とひくと、「互いに、自己の意見を述べ、論じ合うこと。意見を戦わせること。また、その意見。」とあります。つまるところ、議論とは一方通行ではなく双方向の作用が必要でしょう。
ではその議論空間を形成するものとしては、双方向の相互作用的な「対話的空間」が想定できます。対話的空間である議論空間を形成するものとして、ディベートやディスカッション、討論会などがあげられます。お互いの意見をぶつけ合い、論じ合うさまは典型的な議論空間といえるでしょう。
では、この弁論は議論空間を構成していると言い得るのでしょうか。
先ほども申し上げ通り、今の状態は非常に一方的です。質疑応答の時間になれば、多少双方的な議論空間が形成されるかもしれませんが、それでは弁士が演台に立つ1/2の時間しか相互作用的な議論空間が形成されていないことになります。
ではこの弁論を相互作用的なものにするにはどうすればいいでしょうか。
ここで、新入生に2点のポイントをお伝えしたいと思います。
1点目は、「野次」です。
察しのいい方はお気づきでしょう。そう、皆さんのお手元にある「野次案内」は読んでいただけたか。此処までのお話、お手元の「野次案内」に結構書いてあるのですよね。野次案内には、「弁論という競技において、野次というのは要素の一つであり、「弁論を聴いているよ」という意思表示になるほか、弁論への指摘、聴衆理解の促進など議論空間を形成する側面も持つ、」というような趣旨が書かれています。
実は弁論において相互作用的な議論空間を作り出すのは弁士ではなく聴衆の貴方たちなのです。「本当かなぁ」「それって根拠が明確かなぁ」独り言のようなつぶやきでも、「ことば」を外に排出する行為、すなわち野次が議論を形成してゆくのです。
2点目のポイントは、「弁論が終わった後に弁論について人と話すこと」です。
これは、弁士と話すのでも、周りの人とでも構いません。感想や、疑問、考えたことでも構いません。とにかく弁論について何か話すのです。これはリアルタイムの議論空間の形成というよりは、弁論を皮切りとして議論空間を後付けで形成するものです。これは、弁論時間に内包される議論空間というよりは、先ほど述べた弁論をただ聞く受け身からフィードバックを想定した後付け相互作用的な議論空間を形成することが出来るためです。
ちょっと難しいですね。詳しく説明します。
最初に述べた通り、「ことば」の概念は野次のような外的・手段的なものだけではなく、思考したり呑み込んだりする内面的な「ことば」も想定されています。のちのち、弁士や聴衆同士でフィードバックを想定することによって、弁論をただ受容的なものとして捉えるのではなく、考えたことや感じたこと、感想も含めて一度自分の内面に「ことば」として据え置くことが出来ます。据え置く行為自体が議論的でもあり、のちのフィードバックでの後付けの相互作用的な議論空間形成が起こるわけです。つまり、野次のように発露させるだけでなく内面に「ことば」を据え置くことも、議論形成の一端を担うわけです。
と、ここまで聞いて、皆さんは野次をする気になれたでしょうか。「うーんムズカシイ。」そんな心の「ことば」が聞こえてきそうです。
では最後にいいことをお教えしましょう。野次案内にも見えるように、弁論が終わり、質疑応答が終わると司会のアナウンスで弁士が演台から下ります。弁士が演台から降りる際には、形式が決まっている野次として「お疲れ――!!」があります。
形式が決まっている野次は議論空間を形成するものというよりは、「いただきます」や「ごちそうさま」のような挨拶要素と「がんばれー」「いけいけー」のような応援要素を持っています。そのため、今回弁論で言及した相互作用的な議論空間の形成にはあたりませんが、形式が決まっている野次を皮切りに、どんどん野次をしてみてください。
野次は議場の華。演題の「はなぐはし」は「桜」という花を引き出す枕詞として、和歌に使用される「ことば」です。この弁論という空間を議論的にするのは、皆さんの一言です。現実の桜は散ってしまいましたが、この議論空間に、弁論空間に、さあ、勇気を出して、皆さんで質疑と、野次の華を満開に咲かせましょう。弁論発表会はまだ始まったばかりです。ご清聴ありがとうございました。
*一部改変あり
・背景
本当は五月杯価値弁で出ようと思ってたんですよね。
私はゴリゴリ政策弁側の人間なので、殻を破ってみようと。
んーで、「言霊」と「ことば」(言霊については國學院大學辯論部公式Twitterの3/31投稿「新幹事長就任あいさつ」をcheck!!)の「responsibility(責任とか義務とかのニュアンス)」についてやろうと。
書いてみたけど、やっぱり難しくて。価値弁あきらめて、結局要素だけこの新歓弁論発表会にて昇華したんです。
結局今回の「はなぐはし」も価値弁ちゃ価値弁だけど、割と政策弁のフォーマットなんですよね~。
うーん。まだ機は熟していないのか。はたまた、私のフィロソフィー(笑)に定まりがないのか。いつかゴリゴリの価値弁は書きたいものの、なかなか難しそうです。
・原稿分析
なんか別にそんなに解説することもないんだけども。
あ、そうそう割と弁論の英訳って「debate」になることが多いんですね。これ弁論人あるあるだと思うんですけど、割と界外に「b弁論」について説明するときには「speech」って説明しがちじゃないですか。
でも、私たちは割と「議論」てのを重要視しているはずで、「speech」は「議論」ではないしなぁと。私は弊部の新歓・広報をしていましたが、広報とかであえて一度も「スピーチ」という言葉を使いませんでした。なんかプライドが許さなくて。
まあ、ということで和英辞典で「議論」と引いてみました。
議論は「discuss」「argue」「debate」などたくさんの候補が出てきます。
どんな違いがあるのかなぁと思って調べてみると、
「discuss」は「話し合いをして結論を出す」イメージ。割と友好的。
「argue」は「論じ合い」唾を飛ばし合うくらい激しい口論みたいなイメージ。割と喧嘩みたいな。
「debate」は「賛成」「反対」のように賛反の意見に分かれて話し合う際に使われるイメージ。割と友好的論理性。
みたいな情報が出てきました。あれ?でもでもでも、これってどれも弁論のイメージに合ってないしなぁ。
そう。議論たらしめる「弁論」を的確に表す英訳ってなくね??と思ったのがこの弁論の出発点だったんです。
弁論は割と弁士に有利な空間です。「全能な弁士と無知な聴衆」という言われように、弁士の方が弁論において詳しいのがデフォルトなんですね。そのくせ、カナ―リ一方的な空間です。そういう意味ではどうしても弁士の「知的誠実性」が求められうるんですね。
しかし、やっぱりそれでも弁論を聴いていると明らかに恣意的な情報の提示があったりします。そういう場合に、その恣意的な情報に批判的なレスポンスをできるものが「野次」と「質疑」なのでしょう。特に、「野次」ってすごい重要だと思ってて、質疑の場合は10人手を挙げても当たるのはせいぜい3-4人。聴衆の意見は伝わりにくい。でも、野次って弁士だけじゃなく他の聴衆にも聞かせられるんですよ。つまり、他の聴衆が質疑をする際の2点目に入れてくれたりします。そういう意味では弁士に直接レスポンスする「野次」だけでなく、間接的なレスポンスという意味合いでも「野次」があるのかなぁと思います。
そのうち、弁士の「知的誠実性」を疑ってかからなければいけなくなるのかなぁと思うような思わないような。
前回は11000字越えちゃったし、今回はこのくらいでやめることにします。
また随時弁論あげてくのでみてにゃー。
批評等は各種SNSのDMやLINEにてお待ちしておりますにゃー。
それでは、またどこかの大会でお会いしましょう^^