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眠りの森のいばら姫 3/5

東国、バーリント、郊外

翌日、ガーデンが所有する隠れ家にて、二人はアダムを地下室から一階へ運びあげ、目隠しをしたままユーリが警告を与えた。研究員であることもあり、青白い肌に痩せ細った体をしていたため、死人が遺体安置所で息を吹き返したように見える。

「こちらの質問に対して、ふつうの会話レベルの声で正直に答えれば、手荒な扱いはしない。嘘をついたり、ごまかしたり、わめいたり、愚かにも逃げようとしたりすれば、まずは左手から」

ユーリは、アダムに聞こえるよう銃弾を装填する。「撃ってやる」と、暗に脅しているのだ。ロイドは沈黙を通していたが、目隠しと恐怖によって、聴覚が研ぎ澄まされた男は、明らかにロイドの存在を察知した様子だった。だが、その方がこちらにとっても都合が良い。最初は、生年月日や生まれた場所、両親と兄弟姉妹の名前など単純な質問から入り、西バーリント住居爆破事件に関する尋問を始めた。
ユーリが万年筆から取り出した音声をプレイヤーで再生する。男は黙って聞いていた。二度同じところを流した。

「一人はフックス。SSSの少将ヨナス・フックスだ。もう一人は、KGBの高官だな?その男の名は?」

「言うのを禁じられている」

「僕が許可しよう」

「……ウラジーミル・イワノフ」

ためらいつつ、アダムは言った。「やつは――」

「KGB長官の右腕か」

アダムは黙って頷く。ロイドは終始無言で表情も一切変えずに、男を見据えていた。

「『時期を作れた』と言っているが、これは何の話だ?」 

ユーリは、「アメリカが、東国を攻撃して来るのは間違いない。ただ、“時期”がわからない」と、以前少将の部下が言っていたことを思い出していた。この言葉と、深く関連があるに違いないと思っていたが、望んでいた答えは返ってこなかった。

「そっちの詳しいことは、よく分からん。私はあくまでも、新ゲロリマスの試用のために派遣された担当研究員に過ぎない」

だが、とアダムは話を続ける。

「最近、アメリカの極秘ディスクの解読がようやくできたと聞いた。それを担当していたのが、SSSの少将だとも」

ロイドとユーリは目を合わせる。

「その話はいつ聞いた?」

「ちょうど2ヶ月前だ」

「それは確かか」

「間違いない」

ユーリは質問を変える。

「ライアン・コネリーという名を聞いたことはあるか?」

「もちろん。爆弾作りの天才だろう?悪名高い奴だ」

「そいつが西バーリントで住居爆破事件を起こした。君もよく知っていることだろう」

「ああ」

「コネリーの居場所で心当たりは?」

「居場所など知らん。あいつが求めているのは金だけだ。誰に雇われようが、どこに現れようが、わしには知ったこっちゃない」

尋問が終わると、再度アダムの意識を失わせ、外に通じる感覚器官を全てシャットアウトした上でナイロンバックに押し込み、ノイエ・クラッセのトランクに入れた。運転はロイドがした。
道路はがらがら、雨は気まぐれで、土砂降りになったかと思うと強風を伴う霧雨に変わったりした。ユーリとロイドは、無言でラジオのニュースに耳を傾ける。ユーリは、窓の外に目をやり、灰色の丘や、風の吹きすさぶ荒野と湿地を見つめていた。ロイドは運転しながらも、頭に浮かぶのは血まみれになったヨルの姿と、ライアン・コネリーだけだった。

「ユーリくん。君のところで、ディスク解読後の書類と原文を探ってほしいのだが、やってくれるか?」

「ああ。構わない」

「その報告書が改ざんされている可能性がある」

あくまでも可能性に過ぎないが、と付け足す。ロイドは運転をしながら、ユーリに目をやる。ユーリは少し驚いた様子だった。
ロイドはミッテンプレン湖の北端で未舗装道路に曲がり、ハイエニシダの茂る荒野に入った。そこは小さな空き地で、車を止めてヘッドライトとエンジンを切り、トランクを開けるレバーを引いた。ユーリが、ドアをあけて雨の中へ出て行く。アダムはすでに意識を取り戻していた。今後のことを説明するユーリの言葉が聞こえてくる。

「協力してくれたから、これ以上危害を加えずに解放してやる。この尋問のことは口が裂けても仲間に言うんじゃないぞ。そんなことをしたら、お前の命はないからな」

アダムが肯定の言葉を呟くのを、ロイドは耳にした。ユーリがアダムに手を貸して、トランクから出してやり、蓋が閉められる。アダムがユーリに片方の肘を支えられ、目隠しをされたまま、ふらつく足でハイエニシダの茂みに入っていった。しばらくの間、車内には、風と雨の音だけが聞こえていた。やがて、ハイエニシダの茂みの奥で無音の閃光が二回走り、ユーリが助手席に滑り込んだ。その表情には、絶望が浮かんでいた。エンジンをかけ、バックで道路に出た。
騒然とした世界のニュースがラジオから低く流れるなかで、ユーリは窓の外をじっと見ていた。ユーリの気分を尋ねるのはやめた。運転に集中している内に、いつの間にか雨風がおさまり、バーリントに入るところだった。

♦︎

東国、バーリント、郊外

ヨルを安全地帯に連れてきてから、三日経った。フォージャー家は、今、WISEが用意した隠れ家で生活している。元の家には、その安全性が確認され、ヨルが完治してから戻る予定だ。
ロイドは、ほとんど毎日ヨルの看病に務めていたため、アーニャを新しいWISEのシッターに預けていたが、毎食を共にする時間を含めその前後は、必ずアーニャと過ごすようにしていた。そして、お風呂や歯磨きなど全て終えてから、アーニャも連れてヨルの部屋へ訪れるのが日課だった。

「はは、ほんとうにげんきになる?」

アーニャは、不安そうな顔でロイドを見上げる。傷だらけのヨルをここに連れてきてから、毎日尋ねてくる質問だった。

「もちろん、必ず元気になる。ヨルさんが強いのは、アーニャもよく知っているだろう?」

アーニャは無言で頷き、小さな両手でヨルの手をぎゅっと握る。まるでお願い事をしているようだった。早くヨルが元気なりますようにとでも、願っているのだろうか。そんなアーニャの頭を優しく撫でてあげ、もう寝ようか、と声をかけた。
アーニャが録音したという万年筆は、今はWISEで保管されている。こんなに小さな子が家族のために勇敢に立ち向かったことは素晴らしいことだと思う。しかし、アーニャの身に何かあれば、と考えるだけでも気が狂いそうだ。
ロイドは、アーニャの肯定の返事を聞くと、ヨルの部屋から少し離れたところにあるアーニャの自室に送ってやる。寝る前に、父親らしくキスをするのはまだダメだ。なんだか自分らしくない気がして、できずにいる。しかし、アーニャが眠るまで、少し強めに肩あたりをトントンしてあげることは最近よくしていた。なによりアーニャが嬉しそうにしていたし、それが精一杯のロイドの愛情表現でもあったからだ。穏やかに寝息をたて始めたアーニャを起こさないよう、最善の注意を払いながらその場を離れ、ヨルの部屋へ戻る。
ロイドは、ベッドのそばにある椅子に腰を下ろし、ヨルの顔を見やる。幸い、顔は少しの腫れだけで済んだが、身体のダメージはかなり大きかった。
WISE専属の年配の医者が、初日に腹の深い傷のいくつかを縫い合わせてくれた。肋骨も何本かひびが入っており、腕に走るみみず腫れも見ているのが辛くなるほどだった。それらは、三日経った今でも鎮まらないでいる。ヨルの頬は、ピンク色に染まっており呼吸も浅い。ロイドは、居心地の悪い何かを吐き出すかのように細く長いため息をつきながら、ヨルの頬に触れた。
しかし、すぐに手を引っ込めてしまう。
ヨルに触れるのは、なんだか間違っている気がしたからだ。触れたこと自体でなく、触れ方が問題だった。やさしい触れ方。まるで恋人に触れるような――。

(いったい、なんなんだ……?)

女に優しく触れるなど、任務以外ではなかったことだった。任務のためと自分に言い聞かせて、ハニートラップを仕掛け、女性と関係を持ってきたことは多くある。しかし、これほど大切に、壊れないように触れたことなど、今まで一度もなかったのだ。最近こういうことが増えてきた。自分で自分のことが分からなくなってしまうことが――。
ロイドは、立ち上がって側卓に置いてあるボウルの水を変えに行く。ついでに布も丁寧に洗ってから戻ってくる。ヨルの額にそっと手を置くと、手のひらに焼けつくような熱を感じた。あの日以来、ヨルはずっと高熱に襲われていた。濡らした布でヨルの顔を拭ってやる。

(いつになったら目を覚ますんだ、ヨルさん)

医者曰く、この高熱は『新ゲロリマス』の副作用と感染症の併発であるらしい。ゲロリマスに関しては、新薬であるため、従来の解毒剤が効くか分からず、治療法を探っていくしかないと言われた。四十度以上の高熱が長く続くと、全身の痙攣、血液凝固障害といった恐ろしい症状が出現する可能性が高まる。さらに、体温を維持する機能が破壊されると、多臓器不全を発症し、命の危機に晒されるという。深刻なことになってしまった。
すっかり温まった布をボウルに戻した時、玄関をノックする音が聞こえた。こんな夜遅くに来る人物はただ一人。ロイドは外を確認してから扉を開けた。

「姉さんの容態は?」

「相変わらずだ。熱も下がらない」

ロイドは力なく首を振った。ユーリは、ヨルがここへ来てから、ほとんど毎晩お見舞いに来ていた。言うまでもなく、尾行などに十分注意を払った上でだ。
ユーリは、ベッドのそばにある椅子に腰を掛けると、「姉さん、僕が来たよ」と呟きながら、ヨルの片手を両手で包み込む。もちろん、ヨルに反応はなく、静まった部屋には機械音が鳴り響いていた。
しばらくして、ユーリは茶色い革のアタッシュケースからファイルを取り出すと、ロイドに手渡した。

「これ、頼まれてたやつ」

「ありがとう」

「ロッティが予想していた通り、報告書に改ざんがあった。一セットは、原文が書いてあるもので、もう一セットが母語に翻訳されたものだ」

ユーリが任務で盗んだ、アメリカの極秘ディスクの解読を専門家たちは二か月前に終え、書類にまとめ、KGBの上層部に報告していた。ロイドは、ファイルからその書類を写した写真を取り出し目を通す。

「原文では、『核の配備は確実な抑止のために行われるもので、NATOに先制攻撃の意図はない』と解釈できるけど、そっちは、その部分が全部削除して翻訳されてあった。しかも、SIOP-6(米国の核戦争戦略)とかいう示唆に富む言葉だけを残してな」

胸糞悪い奴らだ、とユーリは悪態をつく。ロイドは、報告書の隅にある署名を見て、アダムが言ったことの裏が取れると確信した。

「この改悪された報告書に焦燥したKGBが、西バーリント爆破事件きっかけに、東国へ先制攻撃をするよう仕向けた。しかし、その作戦がうまくいかず、二度目の爆破事故を起こそうとした。次は、東バーリント内部で起こし、西国の先制攻撃と見せかけるために」

「ああ。奴らは、“開戦”の時期をつくりたかったんだ」

「そして、この報告書の改悪を図ったのは――」

「SSS少将、ヨナス・フックス」

ユーリの絞り出した言葉に、ロイドは静かに頷いた。

「姉さんは、この改悪された報告書のせいで……いや、そもそも僕がディスクを盗まなければこんなことには……」

ユーリの悲痛な面持ちに、ロイドの心も揺さぶられる。が、いたって冷静だった。それは、隣に自分の感情を吐露してくれる存在があるからかもしれない。
ユーリはヨルの片手を握りしめたまま、ごめんなさい、姉さんごめんなさい、と謝り続けた。ユーリもヨルを守るために必死になって、この世界で生きている。それが痛いほど伝わってくる。何が正義で、何が悪なのか。そう言ったものはないのかも知れない。根本的に忘れてはいけないことはあれど、国の主義主張によって、問題の捉え方が変わることはよくある話だからだ。ロイドは「どうであれ、こうなるのは時間の問題だった」と言い、ユーリの肩に手を置いた。

♦︎

ポルトガル、リスボン

ヨルが監禁された連絡を受けて数日、フィオナとフランキーはより一層監視活動、情報収集に精を出していた。大きく変わったことといえば、あの日以来毎日毎食フィオナの手作り料理が出ることだ。監視時のご飯には、ハンバーガーやサンドイッチ、ラップサラダ、トルティーヤといった片手で食べられる料理を具材を変えて作ってくれ、休憩時のご飯には、グラタンやチキンのソテー、ルラーデにアスパラのバター炒めやジャーマンポテトなどの副菜もつけてくれていた。
全部美味しい上に、たくさん作ってくれるため、必ず無くなるまでおかわりしている。当たり前だが、お礼もかかさずに伝えていた。料理と洗濯(洗濯は俺がすると言ったが、下着を見られたり触られたりしたくないと拒否られた)はフィオナが担当してくれている分、掃除や雑用はフランキーが担当していた。俺たち、割といい夫婦になれてんじゃね?とか口が裂けても言えないけど、それっぽく見えている自信はあった。
フィオナと交替し、気分転換にリビングで少しお高いワインを嗜んでいた時、一本の電話が掛かってきた。ここに掛けてくる相手は一人しかいない。

「よお、黄昏。そっちの進捗はどう?」

しばらく無言でロイドの話を聞き、「推測」が確信に変わった。

「やっぱりな。それで、開戦の時期をつくるために“二度目の爆破事件”を起こそうとしたわけだ。ということは……ヨルさんが止めてくれたおかげで、第二次東西戦争に至らずに済んだってことか」

「そうだ」

「凄いな、ヨルさん。世界救っちゃってるじゃん。で、彼女は無事なの?」

「命はなんとか。だが、熱は下がらないし、もう四日間眠り続けている」

「四日間っ!?」

「ああ。治療も看病もしているが、目を覚ます気配も全くない」

「そりゃ大変なこった……全部WISEの人間に任せてるのか?」

「ああ、もちろん。治療は専属の医師に、看病はオレがしてる」

「はぁ!?まさか、お前が終日ヨルさんのそばにいんのか?」

「当たり前だろう。彼女の容態が急変したらどうする。任務(オペレーション梟)に差し支える」

「それはそうかも知んねーけどよー、別任務があるんじゃ」

「十日間の特別休暇を得ているから問題ない」

フランキーは、開いた口が塞がらなかった。これまで、何度も忠告はしてきた。要らん情を抱くな、命が惜しかったら誰も信用するな、と。しかし、彼は自覚すらしていないのだ。ある人はそれを「胸に巣食った発情」と表現し、またある人は「隷属に近いような欲望」と表現する。いずれにせよ、自分達のような人間には厄介な感情であることは間違いない。

「なあ、黄昏さん。アンタ、まだ気づいてないのかい?」

「……何のことだ?」

「すっかりヨルさんを愛しちまってるってことをだ。家族としてだけじゃなくて、一人の女としてな」

「は、そんなわけ」

「言っとくけど、この稼業で“結婚”は難しいぜ?」

「もう結婚してる」

「偽装だけどな」フンと鼻をならす。

「それだけじゃない。彼女は同業者だ」

「は?それってどういう」

――ガッシャーン

「何の音だ?」

突然、監視部屋で窓が割れるようなけたたましい音が聞こえた。

「なんか、アイツがやらかしちまったっぽい。また何かあれば連絡するわ」とだけ言い残し電話を切った。急いでフィオナのもとへ向かうと、呆然とした彼女の頬にほろりほろりと涙が溢れておりギョッとした。案の定、窓ガラスは割れており、よくみると彼女の右手から血が出ていることに気づいた。
なぜ泣いているのか。なぜ割れているのか。分からない。幸い、遅い時間であったため怪我人はいないようだ。外から見えないようさりげなく機材を隠した後、フェイスタオルで軽く目元を拭ってやり、それを彼女の左手に。一緒に持ってきた救急箱から取り出したガーゼで右手の止血を行った。

「いったい、どうしちまったんだよ」

「……」

「なんか嫌なことでもあった?」

「……」

「……分かった。今は話したくないんだな。また、何か言いたくなったら声をかけてくれよ」

フランキーは手当を終えると、割れた窓ガラスの代わりに段ボールで窓枠を覆い、外から見えないようにした。
途中インターホンが鳴り、近隣住民が心配の声をかけに来たが、とりあえず「家具の配置を変えようとしたらうっかり手が滑っちまってさ」なんて適当なことを並べて、大きな騒ぎになるのを回避したのだった。
フィオナは、監視部屋を離れ自室に篭ってしまった。おそらく長期監視の疲れが溜まり、耐えられなくなったのだろう。
監視をし続ける状況ではなくなった上に、待てども待てどもコネリーの姿が現れる気配がないため、探索をよそへ移すことを黄昏に相談しようと考えていた。

しかし、その翌日。大きな転機が訪れた。

「なんだって!?コネリーがボンベイのパーティーに現れるんだって!?」

トラブルがあった昨夜からぶっ通しで監視をし続けていたフランキーは、すっかり元通りのフィオナの報告を聞いて、思わずよっしゃ!とガッツポーズをしてしまった。

「そう。三日後に、ミャンアーハとの繋がりが疑われているドルゥーヴ・ナス氏の私邸で行われるらしい」

「そこに向かえば、コネリーが来るんだな?」

「ええ」

「だけど、そんな気安く入れる場所じゃないだろ。なんか手は考えてあるのか?」

「もちろん。先輩にあれ(固定電話)で連絡すると、すぐにMI6の連中の協力が得られることが決まった」

それはつまり、もう監視をする必要がなくなったということだ。あー、これで五時間は寝れる!とフランキーはベッドにダイブした。

「ってかさ、どこでそんな情報を手に入れたんだよ」

「盗聴器。ここに来た日にターゲットの電話や寝室、リビングに仕掛けていた。昨日の夜にコネリーから奥様にパーティーに来いという連絡があった」

そういう報告は一番初めに俺にしてよとも、黄昏の電話番号をいつ知ったんだよともいう気になれず、あぁそうとだけ返事して枕に顔を埋めた。

「ランチ、作ってあるから。起きたら食べて」

「それは助かる。ありがとう」

フィオナを一瞥すると、やっぱり彼女は無表情だった。だけど、雰囲気でなんとなく分かるようになってきた気がする。彼女のなりの労わりの気持ちがこもっていることを。フランキーは、何か心に満たされるものを感じながら、意識を手放したのだった。

♦︎

東国、郊外

目を覚ませば、薄暗い部屋。見たことのない天井。聞き慣れない機械音。ここはどこだろう。右手に温もりを感じ、視線だけを下に向けた瞬間、息を呑んだ。

(ロ、ロイドさんっ……!)

ロイドがベッドの傍らで眠っていたのだ。それもヨルの手を包み込みながら。心臓がぎゅっと締め付けられる。

(ずっと私のそばにいてくださったのでしょうか……)

腕には複数の点滴が繋がれており、規則正しい機械音は心電図から流れているようだった。
自分の身に何が起きたのか。思い出そうとしても、頭に激痛が走り、意識を失う前のことはうまく思い出せない。はっきりと覚えているのは、あの「夢」だけだった。少し身じろぎしただけでも、裂けるような痛みが全身を貫き、ヨルは顔を歪めた。

(なんでしょう、この痛みは……どこかで派手に転んだのでしょうか?これほど体が動かなくなるなんて初めてです)

背中も腕もお腹もどこもかしこもズキズキと焼けるように痛い。熱も出ているようで苦しくてたまらなかった。が、ロイドの手の温もりがヨルの心に滲み渡り、その温もりを味わうように目を閉じた。

「ヨル、さん?」

囁くような声が聞こえ、瞼を持ち上げると、朧げな表情を浮かべたロイドがこちらを覗き込んでいる。ロイドの顎周りには、珍しく無精髭が生えていた。ゆっくりと視線が絡み合った矢先、ヨルはロイドの腕に搔き抱かれた。

「ロ、ロイドさっ!?」

壊れ物を扱うかのような優しい手つきであるため、ほとんど痛みは感じず、むしろ驚きの方が大きい。

「良かった……」

まただ。安堵のこもった声に心臓がぎゅっと締め付けられる。どれくらい抱き合っていたのだろう。このまま抱かれていたい。あと少しだけ、この温もりの中にいたい。そんな欲が芽生えてしまったためか、ロイドが離れていくときには、無意識に彼の服をつまんでいた。
ヨルはハッとしてすみません、とか細い声で謝り手を離したが、その手を逃がさないとでも言うかのように、彼の手の中におさめられた。

「ヨルさん、目が覚めて本当に良かったです。七日間、ずっと眠っていましたから」

「七日間……?私、そんなに眠っていたのですか」

ロイドは柔らかく目を細めて頷いた。そのまま自然な流れで、ヨルの手の甲に軽くキスを落とすと、主治医に報告してきます、と部屋を出ていった。
ヨルは今起こったことが理解できず、ぽかんとしていたが、やがて顔が熱くなっていくのを感じた。

(いっ今のは、キ、キキキキス、ですよね!?)

ロイドのキスで頭がこんがらがってしまっていたため、正直何をしたか何を言われたかほとんど覚えていない。気づけば診察が終わっていた。「これからは回復に向かうでしょう」と伝えられ、ほっと胸を撫で下ろしたことだけは覚えている。これ以上家族に迷惑をかけたくなかったからだ。それにヨルは、決してあの夢で気づいた何かを忘れることはなかった。

――たくさんの人を殺めてきた自分が、幸せになることは許されないし、許されてはいけない。

それは、潜在意識に刻み込まれていたのだった。

主治医が部屋を出たあと、入れ替わるような形でユーリが入ってきた。ユーリはヨルと目が合った瞬間、膝から崩れ落ちるようにヨルの傍らに腰をおろし「姉さん、ごめんなさい、ごめんなさい」と一時間ほど泣きつきながら謝罪の言葉を述べた。ヨルは何の謝罪かさっぱり分からなかった。「どうして謝り続けているのです?」と聞いても教えてくれず、「私は大丈夫だから、謝らないで」と言ってもひたすら謝り続け、ただ子どもをあやすように、よしよしと彼の頭を撫で続けることしかできなかった。やがて文字通り涙の枯れたユーリは、「姉さん、また明日も来るからね」とハグの代わりに、両手の甲と額にキスを落とした。そんな姉弟の姿を扉の隙間から恨めしそうに見ている存在があることを、キスにびっくりしたヨルは気づかなかった。
その存在の後ろにはアーニャが。重度のシスコンと父親の嫉妬にげっぷりしながら、ロイドの脇をくぐり、ユーリの前を陣取って「ははー!!」とヨルの身体を抱きしめにいった。痛っ!というヨルの心の声が聞こえて、すぐさま手を離したが、ロイドには飛びつくな、とヨルから引き剥がされてしまい、ユーリからも姉さんが回復するまでハグは禁止だと釘を刺されてしまって臍を曲げた。ヨルはそんなアーニャの姿を見て、小さく微笑む。

「はは、いたいいたいしているのに、アーニャ、ハグしてごめんなさい。もういたくない?」

「アーニャさん、大丈夫ですよ。痛くないです。お医者様にもこれから回復すると言われたので、安心してください」と穏やかに微笑んだ。

「それは良かったです。後でボクも主治医から詳しくお話を伺っておきますね」ロイドも安心したように顔を緩める。

「はい、よろしくお願いします。ロイドさんも、アーニャさんも、ユーリもありがとうございます。ご心配をおかけし、申し訳ないです」

「姉さん、本当に良かったよ……ああ、安心したらまた涙が出てきそうになるから、僕はもう行くね」

「もうユーリったら。気をつけて帰ってね」

「またな、おじ」

「ユーリ君、ありがとう。またいつでもおいで」

ユーリは、以前のようにロイドに対して『貴様に言われなくてもまた来るさ』などと、噛みつかなくなった。

「ありがとう。ロッティもチワワ娘も、姉さんのことをよろしく頼む」

そうしおらしく言ったっきり、去って行った。

(ふふっ、ユーリとロイドさん、いつの間に仲良くなったのでしょう。良かったです)ヨルは夫と弟が打ち解けあえたように見え、密かに喜んだ。

久しぶりに過ごす家族三人の時間。後から入ってきたボンドを含めフォージャー家の時間は、あっという間だった。二十一時をまわった頃、ロイドは名残惜しげなアーニャの手を引き、寝かしつけに行った。ボンドもアーニャについて行ったようだ。

誰もいない空間で再び眠りに落ちる。

ヨルは走って、逃げていた。何に追われているかは分からない。心臓は激しく脈打ち、足はもつれそうになる。いつもより、やけに身体が重たいなと、窓ガラスに映った自分の姿を見た時、ひゅっと息を呑んだ。自分が過去に暗殺した小太りの四十代くらいの男がそこにいたのだ。

(どうして、私がこの人に?)

振り向くと、後ろからもの凄い勢いで「自分」が追いかけてくる。スティレッドの先端が目の前まで迫った時、はっと飛び起きた。

目が覚めるとロイドだけがヨルのそばにいるようだった。

「ヨルさん、ヨルさん!大丈夫ですか!?」

「え……ロイド、さん?」

「凄いうなされていましたよ」

「そ、そうなんですか?」

もう夢のことは覚えていない。ただ怖くて、辛くて、苦しい、そんな感情だけが残っていた。

「はい、とても息苦しそうでした。ちょっと失礼します」

大きくて温かい手がおでこに当てられ、その温もりがあまりにも心地よく、目を細める。ロイドは「熱はだいぶ下がったな」と独り言のように呟き手を離した。

「食欲はありますか?先程チキンスープを作ったのですが、夜食にどうでしょう?主治医に温かくて栄養価の高い食べ物を食べれば回復が早くなるとお聞きしたので、よければ」

正直、お腹が空いているかいないかは、分からない。しかし、夫の手料理を久しぶりに食べたいと思った。

「少しだけ、いただきたいです」

「分かりました」

数分後、おぼんにのったチキンスープがオーバーテーブルに置かれた。体を起こしますよ、と備え付けのリモコンを操作してベッドを起こされる。

「鶏肉と野菜、玉ねぎを煮込んで作りました」

コンソメの良い香りに、眠っていた食欲が刺激される。

「わあ、美味しそう!いただきます!……あの、スプーンはどこですか?」

「ここです」ロイドは、にこっと笑ってスプーンを見せる。ヨルがえっえっと戸惑っている間に、黄金色のスープが掬われ、ふーふーと冷やされて、口元によこされる。

「食べてみてください」

以前にも一度、ロイドから「あーん」をされかけた(未遂)ことがあるが、ユーリからの要求であったため、二人ともギクシャクしていた。それが、今はどうだ。慈愛に満ちた瞳に、緩やかなカーブを描く唇。いつの間にか無精髭もすっかりなくなっていた。

(ダダダダメです!そんな王子様のような笑顔を向けられたら……直視できません!)

プイッと顔を背けるヨルを見て、ロイドは首を傾げる。

「ヨルさん?食べられなかったら無理をしない方が――」

「いえっ!食べます!ですが私、手はあります!」

まさか、こんな恋人にするような「あーん♡」をされるなんて予想だにしなかったため、訳の分からないことを言ってしまった。

「??手は使えますと言いたいのでしょうか。
いけませんよ、ヨルさん。あなたの体には、ほとんど全身にみみず腫れやあざ、切り傷などが広がっているのですから。食べるという動作は手だけでなく、腕も動かすため、きっと痛むと思います。ですので、回復するまでは安静にしておいた方が良いです」

「はっ!なるほど!全身、怪我に覆われているから、どこもかしこも焼けるように痛むのですね」

ロイドは、ヨルの言葉に呆然とする。まるで自分の体の状態について今初めて聞きました、とでも言っているかのように聞こえたからだ。

「ヨルさん、主治医の診察や診断を受けていないのですか?」

「??受けましたよ。これから良くなっていくとお聞きしました!」ぱあぁと微笑むヨル。

「そ、そうですか」

この噛み合わない感じ。いつものヨルさんだ、とロイドは反対に安心した。

「それより、早く食べないとスープが冷めてしまいます」

困り気味に微笑むのロイドを見て、ヨルは覚悟を決めた。目をつむり一口目をパクリ。

「……っ!!美味しい!」

優しいコンソメ味に鶏の出汁が効いており、野菜もお肉もほろほろしていて、かなり食べやすかった。体に染みる美味しさに照れ臭さを感じながらも、パクパクとロイドの手から平らげていく。少しだけしか食べられないかも、なんて思っていたが、おかわりまでしてしまい、ロイドは嬉しそうに笑っていた。

(どうしましょう、今とても幸せです。体が動くようになったらちゃんと罪を償いますから、あと少しだけ……ロイドさんとの時間を過ごさせてください)

ずしりと胸が重くなる。しかし、そんな気持ちとは裏腹にヨルもロイドにつられて微笑むのだった。

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