文月①

お久しぶりです、いくらか趣味に熱を上げておりました。記事についてですが、質と量、どちらを求めるべきなんでしょう、己に問うています。週一くらいで投稿できますと恰好が付くように思うのですけれどね。配達とは名ばかりである。

暫くは夢野久作全集・大和物語・金葉集のセットで駄文を綴ってゆきます。というのも文庫本のかたちで所持していますのが新古今と後拾遺でして、既に雑部に突入している新古今をここで消化してしまいますと、わたくしが電車に揺られながら読める紙の塊が無くなってしまいます!いいえ、大判の本をお膝に載せて読んでいた頃もありましたけれど、何せこれが重いのです。大学生必須のノートパソコン様といい勝負(それより重いでしょうよ)であります。又、満員電車ではあまりに危険です。その角で一体だれを攻撃するおつもりで。

では夢野から触りましょう、簡単な感想を述べるだけですからね。作品紹介とでも思って頂ければ素敵なのでしょうが、わたくしは大変身勝手で不親切でして、このマガジンを己の遊び場とでも思っているようですので、そういえば未読の方が理解できるようにはあんまり書いておりません。


『童貞』
作品全体の感想を問われるとやや難しいです。ごく簡単に説明するとすれば、「奇妙な日常の一コマ」とか、そんな感じでしょうか。ただ、表題の「童貞」というワードの回収はなんとなく、個人的ですけれども、腑に落ちております。

童貞君の前には、(夢野作品の中で)相も変わらず魅力的な女が登場するのですが、本作の女は恐らく殺人犯であって、罪から逃れようとする狡猾な女であり、本当のところが読めません。変装自体も当然「変幻自在」ですが女としても割と「変幻自在」なようで、或る時は純情な女学生、或る時は蠱惑的な娼婦として周りを利用し、駆け抜けていきます。

それで、偏った読み方かもしれませんけども、そう、言葉の揚げ足を取るような嫌な読み方かもしれませんけども、優しい女を演っているときの、嘘で強かに輝いている女は美しく描写されていると思います。また逆も然りで、失態を犯したり、接吻で主人公の素性に気づき逃げたりする必死な女はけっこう醜く表現されています。
まあ、落ち着いている時に美しく見えるのは当然かもしれないのですが、総てこれを主人公の感覚としてキチンと読むと、こういう「外面の美しい女」に惹かれているところがなんとも女を知らぬ(本性を知らぬ、或いは夢を見すぎである)という彼の愚かで美しい純潔を彷彿とさせます。

才能も失ったと判断し、命も絶え絶え、意地を張って守ってきた貞操も接吻でやや怪しいところですが、彼は最後まで童貞であったと思います。(あの描写ですと、そろそろ息絶えそうですから、最後の場面は彼が臨終に何を得、失うかを注目しようと読んでおりました。)そういう意味で、適切な表題のように考えております。

また全く違う点に関する感想ですけれど、震災の描写には驚きました。どうりで警官殿が関西方面の訛りな訳です。また、どちらかというと夢野が描く生命力はどこか禍々しさから切り離せないイメージがあったのですが*、主人公が音を愛する者だからでしょうか、それとも震災と人の命が強く結びついているからでしょうか、残骸の交響曲(なんとも、カッコイイ字面ですね)は真っ直ぐで強い文章でした。

*例えば、『卵』の人間の命の生産のループ、あるいはそれへの忌避、恐怖。


『一足お先に』
病院、夢遊、遺伝、暗示、脳髄あたりの単語が出てきた辺りで強烈な既視感を覚えました。作品の発表順にはあまり詳しくないのですけれども、全集一巻でこのような話が出てくるのですか。それでは夢野はこの頃からこういったモノに考えるところがあったのかい。これはとんでもない、『ドグラ・マグラ』から夢野久作を読もうとするすべての人間はこれを先に読むべきじゃあないですか。ああ、いや、あちらはあちらでゆっくり紐解いていくようで紐解けないのが醍醐味ですのでどちらとも言えませぬ。チャカポコをどう思うかは、人それぞれですから、……入門編ですね。表題に一寸洒落が効いているのも嫌いじゃないです。ええ、本当に足だけ先にゆきますので。足が。

『ドグラ・マグラ』に比べたら主人公に記憶とかなり強い意志がありますし、どうやら孤独ではないらしいので、言い知れぬ不安のようなものは抑えめな様子です。とはいえ夫人と先生をどうしたのか、或いは何もしていないのかについてはやはり分かりませんので、グルグルとする感じでございます。
女の肉体の描写や猟奇的な表現は半端な感じでして、あとは聞き伝えであったりしますが、やや漏れ出し気味です。夢遊(だったかもしれないもの)中の行き過ぎた躍動感と昂奮、やや正気を欠いたまま突き進む感じも既に滲みでています。
好きな部類の作品です。前回投稿でも申しましたが、エログロが好ましいのではなく、それが溢れすぎているがために恐ろしく思われ、圧倒されるからです。弁明をしておきましょう!こういった作品は恥でもなんでもないのですけれど、あまりに陶酔しておりますと、わたくしの沽券に関わります。

こんなところでしょうか。次回までに押絵の奇蹟(一巻の中ですと、一寸長いです)以外を読んでまいります。続きまして、というか時代が打って変わりまして『大和物語』から面白いと感じたものをひとつ。
歌物語はテンポよく贈答を読めますので好きです。きっと、平中も読みます。こんなことを申しますと大学の研究室の恥なのですが、結構わたくしの興味がことば重視なところがありますので、長編の作り物語や歴史物語はあまり興味が無いのです。廃れてほしいとは微塵も思いませんし、それを好む方のお話は拝受したいものです、知識にしたいとも当然思います。ですけれど、わたくしには向き合うだけの度量が未だ無いようです。


『大和物語』八十八
紀伊国に下る男が寒いとか言いまして、着物を要求します。寒いわけなかろう。いいや、お前がいなくて淋しいよというまあ、そういう感じでしょう。

女)紀の国のむろのこほりにゆく人は風の寒さも思ひ知られじ
男)紀の国のむろのこほりにゆきながら君とふすまのなきぞわびしき

幾度となく見てきた贈答ですね。ただ、掛詞がお上手です。むろは察しがつくと思いますが牟婁という地名だそうで、室と掛けるようです。寒かないだろう!と言ってますのでその対比で頷けます。解説にありましたが、ここで紀伊国は暖かい扱いだそうです。現代の県で考えてもまあ寒い寒いと嘆くようなところではありません。
更に、「ふすま」が絶妙です。衾/臥す間 になります。貴女も、暖かい寝具も、寝る寝具も、共にする時間も無いことが大体詰まっています。こほり(郡)・ゆき(行)辺りには寒さの関連として氷・雪も響かせられているものと思われます。

八十八段、時系列はまばらとはいえその後も応酬が続きます。片違えで行けなくてごめんよ、という男に対し

これならぬことをもおほくたがふれば恨みむ方もなきぞわびしき

とクリーンヒットをかます女であります。流石の歌に、今日一番笑いました。あなたの間違いは片違えどころじゃあないんだからと。方もなき~でわかりますが地味にここも掛詞です。カワイくて憎たらしい感じがします。

〇八十八段メモ
・氷魚と恨みの関係(拾遺らしい。類歌を探したいところ)
・宇治/内 ― ほか(外)で縁語
・霧立つ/切り立つ
・「消えかえる」……消え失せる、★死ぬほど思いつめる、できては消える


お次は金葉集から数歌。

する墨も落つる涙にあらはれて恋しとだにもえこそ書かれね
(巻八・恋下・四四三・藤原永実)

そのままです、字を書く墨も涙で薄れてしまうんですね。墨と聞くとどうしても喪の印象が強いですから、そうでない歌は初めて出会いました。光栄です。注に影響歌がありまして、体言止めの言葉が流麗、素敵に思いましたので挙げておきましょう。慈円の歌集のようです。

する墨をあらふ涙と思ひしれうすく書きつけるけふの玉づさ(拾玉集)

続いてこちら。

葦垣にひまなくかゝる蜘蛛のいの物むつかしくしげる我が恋
(巻八・恋下・四四六・大納言経信)

垣根に隙間なくできる蜘蛛の巣のようにぐちゃぐちゃのわたしの恋、という感じに言っています。しげると葦は縁語のようです。恋の歌でむつかし(うっとうしい、気味悪い)という言葉を使って、自信の複雑な心を詠っているところが物珍しい感じがします。(解説も同様)
恋しさと寂しさを苦し紛れに、はかなげに、美しく歌うものは沢山ありますけれど、「葦・蜘蛛・むつかし」となるとなんだか荒れているといいますか、かなり自虐的な印象を受けますね。この歌は最後の「恋」以外の情報は極論不要です。その「恋」がどれだけ己の中でこじれて、なんだか醜く思えるのですと、ずうっと言っているのです。

余談ですが、蜘蛛の巣が家にかかると愛しい人が来るという迷信があったようで、そんな微笑ましい歌もあります。古今集で読んだのだっけ。お恥ずかしながら、暗記しておりませんのでどこかで出会ったら思い出してやってくださいませ。何もささがにの蜘蛛君をいじめないでください。


以上です。私としましては、大変楽しい読書でありました。しかしながら、こうして文章にまとめますと、案外時間が掛かって困りものですね。こりゃあ週一は難しそうです。月に数回が理想でしょう、ひかえめにしておきましょう、そうしましょう。

もう七月も下旬に差し掛かり、いよいよ蝉さんがわたくしの自宅に美声のシャワーをかけはじめてくれています。程よい音量ですと心地が良いのですが、稀に全力の方がいらっしゃいますのでその場合は穏便に移動していただきましょう。
その辺りの向日葵も顔を一斉にお天道様へ向け始めると思います。見た目を重視せずに生まれた馬鹿でかい向日葵の行列の威圧感たるや。種を落とした後のぽっかりとした空虚な顔と、萎れた背中たちが来年をまた生みます。

そういえば、花火大会へ物見に行くのですが、たいへん楽しみです。誰しもが顔を上げ、まあ、この時代ですから、携帯を掲げる人が殆どなのですが、その瞬間を収めたいみなの浮かれた気持ちは好ましいです。そうして静かに玉を待ち、火花とともに歓声が上がる、落ちる火花のしゃあ、……という悲しい音の裏では次の鮮烈な映像が、無情にも、親切にも、ずんずんと準備されていくのです。あの抗えぬ、感動と悲しさの連続が好ましいです。
こうしてみると、小学生の夏休みのような象徴しか出てきません。
はい、夏は好きです。

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