街のなかの「とのまビル」

・20年ほど前
ずいぶん前になってしまいましたが、見せていただいた「とのまビル」の感想です。
まずは昔、20年ほど前の話になるのですが、私が市大生活科学部の学生のころ、工学部の授業に参加させていただいたときのことを思い出しました。当時、市大工学部建築学科には難波和彦先生がいらっしゃって、設計製図を「コンバージョン」をテーマにしてられていました。今にして思えばずいぶん先進的な課題だったなと思います。私が参加させてもらったのは、確か「オフィスのコンバージョン」で、大阪市のオフィス街を3、4カ所取り上げ、グループでのリサーチと分析をしました。私は西天満のグループになり、このあたりを随分と歩き回った記憶があります。河田さんがどのグループだったか、もしくは上級生だったのでTAとしての参加だったのか覚えていないのですが、ここで課題を取り組んだメンバーの一人だったことは覚えています。20年あまりが経ち、「リノベーション」を引っさげこの地に降り立たれたのは感慨深く思いました。

・室の構成
この建物は、「室の構成」でできていないように思いました。逆に「室の構成」でできている建物とは、シングルラインで書いたプランに室名を振ることができ、室名から想像される家電や家具が配置され、それを取り囲むように壁が立ち上がり、それらの関係性を決めるように開口部があいているものです。それは仕上げやディティールにおいても支配的に影響します。「とのまビル」はリノベーションということもあり、開口部と室の使われ方に関連性が見出せず、もっというと室名さえ定かではない状態でした。たとえば2階はオフィスなのかキッチンなのか、はたまたリビングなのか玄関なのか、よくわからない投げ出された空間がありました。コンクリートのテラスの内側にある床のような机のようなもの。踊り場のような部屋のような場所。抽象的な概念を寄せつけず(室名さえも!)、エレメントと素材に次々に出会う不思議な建築でした。

・“とのま”とは
ここで、事務所名である“とのま”の由来を持ち出してみます。
“とのま”= “Space Between Things And Things”
日常の中にある、もの、ひと、こと、場所、時間、” とのま(間)” に新しい関係、つながり
とあります。上記の話とリンクさせると例えば「オフィス」や「リビング」との間とか、「床」と「机」との間とか、と読み取れなくもないのですが、それはちょっと早合点が過ぎる気がしました。
“とのま”関係において注目したいのは、抽象概念を置き去りにして目に飛び込んできたエレメントや素材です。先ほども取り上げたとおり、通常、エレメントや素材は上位にある抽象概念によってコントロールされ、配置や選定が定められることがほとんどです。しかし「とのまビル」ではそれがうまく機能していない(というか、させていない)。結果的に、印象の異なるエレメント同士が並び、それらを形づくる素材に関連性がないという状態がいたるところで生まれていました。それらは“間”を与えられずぶつけられ、互いに自己を主張するように振る舞っていました。エレメントや素材における“◯◯との間”は発見できなかった訳ですが、いったいどこにあるのか。別の観点から探してみることにしました。

・全体性を放棄した建築
「とのまビル」の内部には、ざっくり見ると“硬い素材”と“やわらかい素材”が両方あって、場所の性格に関係なくそれらが己の正当性を主張しているように見えます。『ビルを支えるから!』と主張する鉄骨の柱や梁が見え、『ここでは寛いでもらうから!』と主張するヘリンボーンのフローリングがと部分的な木の天井があり、『シャープに上の階に誘うから!!』と鉄骨の螺旋階段が階を貫いています。それぞれのエレメントは自立性が高く、建物の全体性を脅かしているように感じます。
全体性とは、“実のところ、境界を規定することで内部とその要素を同定し、要素の制御を通じて内部環境をデザインしようとする、素朴な方法論の部品として現れる虚の焦点である。[jt1808 p.53]”
と門脇耕三さんが書かれているように、非常におぼろげなものと捉えることができます。建物1つをデザインの対象と見たとき、そこに1つの全体性を仮構し内部を部分の集合とみなすことは当たり前に前提とされてきました。制御された部分により構築された全体性は、建物のアイデンティティとして理解され作品性と読み替えられてきました。しかし、リノベーションによる建築作品が多数をしめるようになった現在においては、それは方法論のひとつと理解されるようになったように思います。リノベーションの場合、既存の建物がまずあるので、部分を全て制御の対象とすることがむずかしく、よって部分の集合として全体性を構築することがむずかしくなります。「とのまビル」の場合、まさに部分の振る舞いを制御することなく、全体性を投げ出しているリノベーション作品のように見えました。

・“◯◯との間”
そのとき思い出したいのが「◯◯との間」という考え方です。「◯◯との間」には2つのものの相対的な関係が前提とされています。ここに全体性はありません。その2つのものを「隣り合っている2つのもの」とすると先ほどの「間が与えられずぶつかっている」となるのですが、私は「隣り合っていないが素材が同じもの」“との間”に、この建物の確信があるように思ったのです。
それに気付いたのは、3階の洗面台と5階の窓台を見たときでした。2つは階も用途も異なる部分と部分なのですが、どちらも(ここに使われるには「?」がよぎる(すみません))コンクリート平板が使われていました。それは2階のキッチンの天板と4階の窓台(大理石?)でも、エントランスの外部床と4階キッチンの床(細かいレンガ?)でも起きていました。

・リンクを張る建築
一見すると相応しくないような素材がそこにあり、そして隣合う部材との間にその不相応を調停するようなディティールがないとき、その素材はシーンのなかから浮き上がってきます。そして、同じように浮き上がった別の部分の同じ素材は、“同じ素材”というリンクが張られていきます。「とのまビル」のなかにはこのようなリンクがいくつか見られました。そしてそのリンクは“硬い素材”であることが多く、外部、というか街のなかにもつながっていくように思いました。コンクリート、鉄骨、レンガ、タイル、デッキプレートなど、内部空間へと執拗に食い込んでくる“硬い素材”たちは、同じように硬い素材たちで覆われている周辺の屋外空間と、空間を隔てながらもリンクを張ることでつながり、“建築”という概念が建物単体におさまらないように操作されているように感じました。住宅特集に掲載された「とのまビル」は、ごちゃごちゃした、あそこの場所性を象徴するような街の風景の一部として(一見するとどこにあるのか迷ってしまうような存在として)あり、内部はその連続としてズルズルとつながっているような構成でした。逆に言うと、ごちゃごちゃした街の風景のくぼんだ場所に、家電家具や“やわらかい素材”を持ち込んで生活を成立させているという野心的な生活スタンスを読み取ることができました。

・ひらかれた建築
このように街とリンクを張るような内部空間は、アクティビティの侵入や開口部の大きさで語られることが多い「ひらかれた建築」に対し、建築を構成する“モノ”で表現するという新しいあり方を示しているように思います。そしてここでの生活も、同時に街に投げ出されるような新しいライフスタイルが想像され、自邸として住まれる建築家とそのご家族の覚悟を見ることができたように思いました。

2011.11.26 design SU 白須寛規

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