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無人島の私

心が疲れているから、なのか

相手のエネルギーに影響されて、なのか

それも全て自分の鏡でしかない、なのだとしても


私はスピリチュアルなことを聞いたり見たりすることは大好きなのに

大好きなんだけれど
「は?何言ってんの?」と思うときがあります。



でもその言葉は、しばらく前に私自身が言われた事があることで。

その時私はすごく不思議な気持ちになったものでした。

なぜあんな捉え方しかできないのだろう?
ほんとのほんとに、私自身は「それでいいと思っているし、それぞれの受け取り方で良い」と思っているのに。

お前の言葉は嘘だから、腹が立つ

何を言っているのだろう?って

当時はそんな感じでした。


それがなんと今は
「あ、こういうのを感じたからあの言葉をあの人は言っていたのか」
と思い出すことが多々あるのです。


これは自分にとって本当に驚きばかりです。


要するに、私はいまあの頃とは
反対側の立場を経験している…という感じです。


この逆転現象のようなものは
何年か前から自覚して以来、経験するとすぐにそのあと「どうでもいい」になっていくのです。

お互いに本気でそう思っているからこそ
不毛なのだ。と

どちらも経験するから、ほんとにそう感じるのですよね。

たとえるなら
振り子の針がぴたっと止まるか
消えてなくなったような感じ。


けれどまだ振り子が揺れている時期というのは
感情の揺れもかなり経験するから

頭では分かっていても感情が追いつかない。ということも多くて


私が好きな考え方
「この世はすべて幻想で、映し鏡なのだとしたら、本当は存在していないのと同じ」
と思っても
感情が暴走ぎみになるのです。


べつにそれはそれで仕方がない事だし
それじたいを否定する気はないのですが

いかんせん、自分か苦しい笑


外からも内からも、うるさい。

そんな時に私は

だーーーれもいない無人島に漂着してしまったテイでイメージをしてみると

とても心が落ち着くのです。


だーーーれもいなくて。
生き物の気配はあるけれど、それが動物なのか虫程度なのかよく分からない。
鳥はたまに飛んでる。

スマホはそもそも、娯楽なんてなんにも存在しない。

そもそも文明を感じるものが
何一つない。

ここにあるのは
自然と、私。


目の前に見える植物と、水平線と、砂浜
それと私。


すると外界という概念が薄れていって自然に

瞑想をしている時のような心地良さだったりとか
「目に見えないエネルギー」のようなものに意識が向いたりして


頭の中の忙しさから離れられるのです。


そしてそのまま

なるべく言語化をしない、
名称をつけない、
分かろうとしない。

ただ感じるだけで

ふんわりとなにかを感じていればそれでいい。


そんなふうに思えてきます。


そのときとてつもない安心感と
ゆるやかなここちよさ、幸せな雰囲気を感じられます。


無人島にいるからこそ

周りの誰かにどうにかしてほしいとか
なにかを望むという気持ちも出てこなくて


ただひとり、己を感じ、自然の中に身を置いている時間だけを感じている


言語化せず、分かろうともせず
ただ、なにかをふんわりと感じている。


今はこの感じが
私には最高に合ってるようです

・・・・Edel🍀‪えでる・・・・

ふだんは、趣味やたまの依頼で
配信アプリで使用するような雰囲気のイラストや、
ふと降りてきた「見えない世界にみえているもの」をイメージしたイラストなどを描いたりもしています。

たまにヒーリングや宇宙語を使った何かを
しているかもしれません。

キラキラした精神世界を象徴するような雰囲気のものも好きだし、
イラストにおいては「気づかないところに存在する、ダークに惹かれる部分」のようなものを描く事もしています。
(あまり過激な表現は好まないので、ゴスロリや病み系女子の雰囲気、または軍服コーデや鞭を持つ感じ程度です)

私が感じる
カッコイイ、可愛い、綺麗、美しい、好き!を通して
私の中の愛や光を表現しています。


自由を愛しながら過ごす日々。

上手くいく日も、いかない日も
美しい日も、そう感じない自分でも

私はありのままの私で歩く。



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