スタニスラフスキーと云うもの。

おたるが礎にしている演技論はメソード演技です。
此の演技論法について話すのであれば
マリリン・モンローさんが
矢張り今も有名な代表者と生るのでしょうか。
アクターズ・スタジオを基盤にするとした場合、
正しくリー・ストラスバーグ其のひとが
渦中と成るべき部分も御座居ます。
抑々にして演技と云うものは、
果たして概念なのか実在なのか
改めて考えてみることを
敢えて行ってみましょう。
無論、
考えが四方八方と成り
茶を濁す書き損じとして
終わる可能性は大きいです。
等と打ち込み乍ら、
然しておたるの中に在る芝居と
果扨然程も変わらないと
思わざるを得ません。

役者と関わる中で
存外に多く見受けられるパターンは
着地点を決めているものでしょうか。

例えば、

「おはよう」
「……おはよう」

此の二つの科白、
後者が「不機嫌そうに告げたい」と
意志の上でプランニングしたものと致します。
すると、
前者が穏やかな空気を出そうが
知ったことでは御座居ません。
勿論、其れが成立するものだって
沢山有ります。
ですが前提は、
初手の役者が後者の意識に則り
合わせることを行えて初めて安全な芝居と成るのです。
仮に前者も自分の計画を優先して進めてしまった場合
どうなるのか。

前者が悲哀に満ちて慰めてもらうことを目的地とし
後者が機嫌が悪い為に宥めてもらおうとした場合、
演者が居らずとも文章の想定のみで
結末の惨憺さは安易と成るのではないでしょうか。
正直な話、
脚本家が物を書いていても
此の方向性から芝居を行う役者は操縦席を明け渡しません。
行動理念と外部の刺激から得た感情は別の場所に、
其れも中々遠い処へと片付けてしまうようなのです。

役者は常々、
自由に表現を行うべきと
おたるも感じてはいます。
抑制と緊張に支配された演技程、
見苦しく恥ずかしいものは御座居ません。
然し、
周りを見ることの出来ない演技は
其の時点で自己陶酔でしかなく
堆肥にも成り得ないでしょう。

では、
相手の居ない舞台ならば
成り立つものなのでしょうか。
一人芝居の何たるかは
力量とまた別にして
此方が抜群に巧みな者も
当然の如く、居られます。
相手が自分のペースを崩さないと云う
最大限のメリット兼デメリットも
確かに存在はしています。
周りが影響を与えてくれないと云うことは、
終始
自分ひとりだけの緩急で芝居を進めてしまうのです。

最近関わった役者が、
正に此のタイプでした。
彼は自信の有る立ち居振る舞いも含め
とても演者気質です。
周囲から聴く期待値も中々に大きい。
然し、
実際に芝居を見聞きすると
傲慢としか云えない部分が強いのです。
彼が持っている自尊心は武器だと
誰もが思えるものでしょう。
おたるも彼の良さは其処に依存していると思えます。
一人芝居を行っている際
素人目に見る分には恐らく
光るものが有るのでしょう。
其れを知った上で演者達は、
「間の取り方と起伏が一切変わらないのは何故か」と
首を捻り合うのみです。

行ってはいけない芝居が
唯一有るとするのならば
矢張り、
「結果を決めた上での演技」だと思います。

芝居に嘘が混じることが最大の失敗です。
演じることに嘘は存在しません。
筋骨隆々の男性が仔猫の役を行えば、
彼は自分とは全く別の範疇から
動物としての機微を生々しく感じることでしょう。

おたるは憑依型ではない為、
其方の感覚は判らないのですが
没入している際も
自分自身の意識と思考は冷静に働きます。
体内外含めて、
役が代理を本質として動くことで
初めて
生の芝居に成るものだと思えます。

度々起こる現象として
あらゆる角度にカメラが浮いて居り
演じているおたるを客観的に
常時見続けると云うものです。
勿論、
芝居を行っている最中は
科白も出ますし動きが必要ならば動きます。
相手の投げる言葉を受けて
其処から得られる情報に対し
瞬時に反応することも必須でしょう。
役に入り込むものとは違う角度から
人物を生きる瞬間なのかも知れません。

話が少々逸れてしまいますが、
おたるはメソード演技を始めたこともあり
精神疾患と付き合うことに成りました。
此れは別段、
苦しいことでも悲しいことでも
無い話です。
抑うつ状態が治まらない期間は
食事も摂取出来ず
横になったまま二週間が過ぎて往きます。
また、
解離性障害が発症したことも
メソード演技が起因していると思えます。
健忘と遁走から始まり、
人格の交代が頻繁に繰り返されることも
御座居ます。
周囲の方々には
御心配も御迷惑も掛けてしまっています。
感情の波と仲良く出来るようになったのは
最近だと思われます。

人格が増えたことで
芝居が上達したとは
思えませんけれども
文字通り、
神経衰弱しても

芝居を行い続けることに
固執したからこそ
現段階は
声で食べることが
出来ているのかも
知れません。

リー・ストラスバーグにも思う処ですが
スタニスラフスキーの
変質的な執拗性は経歴から見ても
悍ましく耽美な血腥いものが
有るのではないでしょうか。

芝居を見て
魅せられている者は
演者なのか観客なのか
全く判らないまま
きっと、続くのでしょう。

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