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第15回 全国専攻科(特別ニーズ教育)研究集会 IN 和歌山県田辺市  へ行ってきました。


私の今住んでいる三重県四日市市から、和歌山県田辺市は、車で5~6時間か?

私は、三重県も和歌山県も全く不案内、おまけに、決して車の運転が好きなわけではない。

もう、次郎も専攻科を卒業するし、私も勉強するのは、いいか?

てな思いがよぎらなかったわけではない。

いや、まて!

私はなぜに、ここ(三重県四日市市)に居る?

次郎が専攻科に進学するためではなかったか?

しかも、その話をして、理解してくれる人は、皆無ではないか?

それは、一重に、専攻科が知られていないからだ。

さらに、障がい児の教育にたいていの人は、興味がない。

せっかく、耳を傾けてくれた人が、「へーそんな学校があるんだ!で、どんな訓練をしてるの?」

なんて言おうものなら、さらに話しは長くなり、

教育とは何か?と熱く語る、わけのわからない人となるのだった。

それも、これも、専攻科が知られなさすぎるせいなのだ。

そして、その責任の一端は私にもある。

ほとんど、読まれることもないブログ「次郎とマーマのなんじゃこりゃ日記」に、

テーマ「障がい児教育」で、いくつか記事を書いているので、もし、時間があれば、読んでいただけると嬉しい。

その中のひとつ、「あたりまえ」という記事を書いた。
https://ameblo.jp/shiraiwa824/entry-11456145456.html

障がいのある子どもの教育を受ける権利が保障されるようになったのは、実は、つい最近。

一般的に、知的障がいのある子どもの高校卒業後の進路など、思いもよらぬものだった。

そこに、知的障がいのある子どもにも、進学の機会を!ということで、

専攻科への進学の道が少しだけ、開かれ始めているのだ。

話は変わるが、実のところ、私は、まったく教育熱心な親とはほど遠く、

きょうだい児2人(姉・兄)には、「勉強する時間があったら、家の手伝いをしろ!」と言ってはばからない親だった。

学校の先生にも、「宿題を出さないでほしい」と、懇願し続けた。

自分で考える力も知恵もある子どもに、

教育は必要ないと思っていた。

いや、教育や学校という言葉を安易に使うと混乱するかもしれない。

今の、詰込み教育は、弊害こそあれ、教育と呼べないものだと思っている。

支援学校もしかり。

ただ、幸いなことに、支援学校の生徒は、詰め込むことがむつかしい。

大人の思惑通りにならない。

結果、手探りで、歩み寄るという温かい場所になっている場合がある。

それは、奇跡的に、美しい人間の姿の見られる場所になっていて、

私は、すべての学校が支援学校のようになればいいのに、と思っていたくらいだ。

それは、どういうことかと言うと、

普通の公立学校は、基準に合う平均的な子どもをよしとする場所だろう。

一方、基準から外れて、平均的でない子どもの集まりである支援学校は、

ひとりひとりに合わせるカリキュラムが組まれ、図らずも、理想の教育を実現していた。

しかし、その理想の教育も、小中学部まで。

高等部ともなると、社会に出るプレッシャーからか、

急に、社会の規範に従わなければ困るといった無理難題を押し付けられる。

学校が大好きで、風邪を引いてさえも、「学校に行く!」と言ってきかなかった次郎が、

高等部でまさかの登校拒否をはじめたときには、「今からですか?」と、ため息が出た。

そんな経験上、次郎が高等部卒業後に学校に行くということは、もうないと思っていた。

そんな時知った専攻科の存在は、私たちの人生を変えるものだったのだ。

そんな思いで、ここ三重に居て、隣の県での「全国専攻科研究集会(以下、全専研と呼ぶ)」に行かないなんて、

やはり、それはないな!と自分に言い聞かせて、行ってきた。


基調講演は、「全国1番目の福祉型専攻科、開設奮闘記」と題して、

親として、専攻科作りに走り回った経験談が語られた。

ゆっくり成長してきた子たちだからこそ、

ゆっくり学校に行かせてあげたい。

もう少し、時間があれば、もっと、いろいろな経験をさせてあげられるのに、という思い。

そして、本人たちの、もっと学校に行きたいという思い。

その原点の思いに触れられる、素晴らしい内容だった。

そして、いよいよ福祉型専攻科が始まった当時の話。

学校と名乗ることに難色を示した福祉行政。

対策として、できるだけ、教育を連想しないように、言葉ひとつひとつ気を付けたこと。

たとえば、先生→支援員、入学→入所、1回生→1年目、生徒→メンバー、授業→プログラム、、、、というように。

その経験から、他の学校は、フランス語で名前を付けたなどのエピソード。

当時の苦労を、面白くお話しくださった。

そのお話を聞いて私は思った。

どうりで、専攻科のことが知られていないわけだ。

学校ということを、知られてはいけなかったのだから。

実は、去年の第14回目の全専研に初めて文科省の方が来られた。

その重みをその場で私は知る由もなかったが、これは、素晴らしい出来事だったのだ。

福祉型専攻科はあくまで福祉なのだと言ってきた日蔭の身から、

教育であることを認知された(?)瞬間に立ち会ったのだ。

とはいえ、文科省が、専攻科を作るということではなく、あくまで、研究段階だ。

進行役の方が言う。

今、全国に30~40の専攻科があるけれど、これが、100になった時、社会は動くだろうと。

そして、「歴史は、常に運動が作り出してきました!」と力強く言った。


ああ、今、私たちは、歴史を作っているのだ。

もう2度と「障がい者に教育など必要ない」と言われた過去には、戻らないのだ。


私は思う。

障がいのある人こそが、この世界を明るくする光なのだ。

もう、その事実は、隠しようがない。


書くことで、喜ぶ人がいるのなら、書く人になりたかった。子どものころの夢でした。文章にサポートいただけると、励みになります。どうぞ、よろしくお願いします。