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映画「テレビで会えない芸人」を観ると、次郎たちが生きやすい社会になる?!という話し

タイトル写真は、芸人9条の会(2021.11.30)に行った時に、ぼんやり立っている私たちにヒロさんから声をかけていただいて、一瞬マスクを外して撮ってもらったものだ。次郎は言葉でコミュニケーションをとれないだけに、私が参加したいと思う多くのイベントに連れていくことが難しい。そんな中で、松元ヒロさんの舞台は例外だ。次郎にとっては、ヒロさんは知ってる優しいおじさんで、その知ってるおじさんが何か一生懸命やってるステージは、楽しそうに観てくれるのだ。


松元ヒロさんとの出会いは、2007年12月に当時住んでいた九州の小さな街で松元ヒロライブをしたことだった。当時の通信(ウペポ耶馬渓という名は、スワヒリ語の”ウペポ=風”と住んでいた地域の名前”耶馬渓”をつけた)が残っていたので、画像はよくないけれど、見ていただけると嬉しい。自分でも、こんなことをやっていたのかと、懐かしくも面白い。

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これらの活動を私はひとりでやっていた。なにしろ、話し合いをする時間などなかったからだ。けれど、松元ヒロライブに関しては、応援者がたくさん現れて、チケットをさばいてくれて本当にありがたかった。今でも感謝している。今改めてこの通信を見ると『前売りのみ2700円(小中高生障害者半額)113席限定』のチケットが田舎街で完売するほど、松元ヒロさんは人気だった。そしてその当時から熱烈なファンが居て、ヒロさんのチケットを売る時には「絶対面白い!」とか「絶対テレビでは見れられない!!」とか「ライブでしか見られない!」だから「見逃さないで!」と自信をもって勧めてくれたものだった。

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この写真は2007年12月10日のヒロさんだ。私は本番前の芸人ヒロさんを頼まれてもいないのに、観光地に案内して写真を撮ったりして、今思えばずいぶん困った主催者だった。挙句、いよいよ本番前だというのに楽屋に居座り、ヒロさんから「疲れたでしょうから、どうぞ休んでくださいね。」と椅子をすすめられたりした。

思い返しても、主催者にあるまじき行いを、寛容な心で受け止めていただいたことを忘れることは出来ない。そして今も、その気さくさと優しさは、変わることがない。

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この写真は、ヒロさんの汗だくの舞台直後に抱き着く次郎だ。「次郎、次郎、この人は、なかなかにすごい人なのだよ」と言っても、次郎にとって、地位も名誉も名声も関係ない。あるのは抱きつきたくなる人とそうでない人だけだ(コロナ禍では濃厚接触は自粛しているが)。

そんな次郎にとって大好きな優しいおじさんが、映画になった。さっそく次郎に「ヒロさんの映画、見たい?」と聞くと、「うん」と即答。

東京での初日(2022.1.29)、ポレポレ東中野に観に行った。満席だった。そんな気がして前日にネット予約しておいてよかった。81分のドキュメンタリー映画を次郎はじっと見ていることが出来た。なにしろ大好きなヒロさんが出ているから。そして、ドキュメンタリー映画だというのに、映画館は笑いに包まれた。

映画が終わり、舞台挨拶に登場したヒロさんを、割れんばかりの拍手が迎えた。よかった!本当によかった。この瞬間に立ち会えたことが、心から嬉しかった。

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そしてちょっと心配になった。それでなくてもヒロさんの年に二回の紀伊国屋公演は、チケット発売開始時間にネットにアクセスしても、後ろの方の席しか取れないのに、今後はもっと後ろになるのかな?

それでもいい、私たちのヒロさんが映画になって嬉しい。

私が3人の子どものシングルマザーで、末っ子の次郎には重度の知的障害があったにもかかわらず、ちっとも悲観的になることもなく楽しく生きてこられたのは、年に一度はどこかでヒロさんの舞台を観ることが出来たからかもしれない。ヒロさんから、笑って生きてゆくすべを伝授されたのかもしれない。どんな不自由な中にあっても、心だけは自由でいられた。


どうか、映画「テレビで会えない芸人」をひとりでも多くの人に観てほしい。たくさん笑って、頷いて、観終わる頃には温かい気持ちになっていると思う。そして映画館を出る頃には、だれでもいいから人に優しくしたくなっていると思う。

だから、映画「テレビで会えない芸人」を観ると、次郎たちが生きやすい社会になる!!という話し。





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