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守ってあげられなくてごめんね!せめて応援させて!!~311子ども甲状腺がん裁判に行ってきた

1.ずっと気になったいた子どもたちのこと

放射能による健康被害については、『大変なことだ』と思う人から、『大したことない』と思う人まで様々だ。私は、出来るだけの情報を集めて判断をしたいと思ってきた。

けれど忙しい人の多くは、”そんなことはしてられない。気にしてられない”と思うのもしかたないとも思っている。けれどそれにとどまらず、今や放射能(放射線を出す能力)を気にする人たちを、”放射脳”と呼びさえする事態になっている。なぜ攻撃されなければならないのかは、のちのち解き明かすことにして。

色もなく、臭いもない放射性物質の問題を考える時に必要なのは、想像力だと思う。ちょっと想像してみてほしい。

例えば、汚染水のこと。最近は汚染水と呼ばずに、”処理水”と呼んで海洋放出しようとしている。政府は『薄めれば大丈夫』と言う。けれど、例えば、もしここに青酸カリがあったとして、それを『ものすごく薄く薄めたから飲んでも大丈夫』と言われて飲めるだろうか?きっと飲みたくはないだろう。その青酸カリよりも毒性の高い物質がある。それが放射性物質だ。その放射性物質の混ざった汚染水を海に流すというのだ。薄められても放射性物質は、食物連鎖の頂点に居る人間に必ず戻って来る。食べ物と一緒に取り込まれる放射性物質の多くは体内に留まり、至近距離(内部)から放射線を出し、身体を傷つけ続けるのだ。それを内部被曝という。

ついでに付け加えたいことがある。処理水の中にはストロンチウムが含まれている。『ストロンチウムは水と区別がつかず、分離出来ないから、仕方ない、処理のしようがない。』というのが、海洋放出やむなしの理由なのだが、分離出来ないわけではないらしい。
沸点と融点が違うというのだ。水の沸点は100℃だが、ストロンチウムは102℃だという。融点(氷点)は水が0℃なのに大してストロンチウムは4.5℃だという。素人の私だって、この違いを使って分離出来るんじゃないかと思う。ストロンチウムを4.5℃で凍らせて集められるんじゃない?もし、このことがわかる方がいたら、教えてほしい。日本の技術力をして出来ないことはないと思う。そして、その技術は海外の原発施設でも役に立つはずだ。国をあげて取り組んでほしい。

しかし、その国が問題なのだ。原子力発電は国策として、国が進めてきたことだ。原発事故後もその姿勢を変えるどころか、”原発安全神話”(何重にも守られて事故は起こり得ない)が崩壊したにも関わらず、今度は、”原発は事故を起こしても大丈夫だ”という神話を作ろうとしている。”原発事故による放射線被曝で被害を受けた人は居ない”という神話だ。

小児甲状腺がんは、100万人に年間1~2人という希少な病気で、チェルノブイリ原発事故後に唯一事故との因果関係が認められた病気だ。放射性ヨウ素が甲状腺に集まって内部被曝したと考えられている。日本では福島原発事故後2011年から子どもたちの甲状腺検査を始め、現在300人が甲状腺がんと診断されている。誰の目にも、福島原発事故が原因で小児甲状腺がんが増えているのは明らかなのに、それを国は認めない。

また、甲状腺がんのことを『予後の良い癌』という医師もいて、”大したことがない”イメージを広めていたけれど、チェルノブイリ原発事故後にベラルーシで小児甲状腺がんの支援をした経験を持つ菅谷昭医師が、「とんでもない。肺などに転移もあり命にかかわる大変なことだ」と反論されていた。
実際に、甲状腺がんと診断された体験を話されている被告2さんの「意見陳述要旨」をぜひお読みいだたきたい(目次5.に掲載)。

国も、事故を起こした東京電力も、被害を認めないと決めている。こんな状況の中、放射能の健康被害を訴えて、原告になった6人の若者がいることを知った。
とにかく大人として、守ってあげられなくてごめん。なんとしても、これからは守るから!!と、5月26日(木)東京地方裁判所に駆け付けた。

2.東京地方裁判所で「311子ども甲状腺がん裁判」があると知って行ってみた(2022年5月26日)


13時20分から抽選券配布があり私は167番だった。私の後ろにも3~40人の人が並んだ。

とにかく『ごめんね』を態度で示すのだ!と駆け付けると、東京地方裁判所の前には、長蛇の列が出来ていた。私と同じような思いだろう年配の方から若い人まで、様々な人が抽選の列に並んでいた。それは、駆け付けた私をも勇気づける光景だった。

200人以上の傍聴希望者に対して、抽選で当選したのは27名のみ。傍聴出来なかったのは残念だったけれど、とにかく、応援している気持ちだけは伝えたかった。それから、抽選に外れた人たちが裁判が終わるのを待っている間に支援集会が開かれるらしいと聞いて、日比谷コンベンションホールに行く。

3.裁判所に入れなかった人に用意していただいた「支援集会」

ウクライナ民族楽器バンドゥーラ奏者・カテリーナさん

支援集会では、ウクライナ民族楽器バンドゥーラ奏者のカテリーナさんの歌とお話を聞かせていただいた。
カテリーナさんは、生後一か月でチェルノブイリ原発事故に遭い、2,5㎞の自宅からキーウに強制避難したという。子どもの頃、避難先で「放射能が移る」と言われたり、「あの子たちは夜光る」と言われたりしたそうだ。被曝した子どもの栄養状態をよくするために毎日もらっていた果物も羨ましがられ、「自分たちは明日ももらえるからあげる」と、お友達にあげると捨てられたり、踏み付けられたりして悲しかったという。
6歳で原発事故で被災した子どもの合唱団に参加し、10歳の時に公演で来日した際に、日本に住むことを夢見たという。日本は安全で平和な国だと思ったという。19歳で夢を叶えて東京へ移住したカテリーナさん。チェルノブイリで生まれた子どもとして、戦争のない、原発のない、病気のない、ずっと平和な青い空があるように、演奏活動をしている。
バンドゥーラという楽器は、12世紀からあるウクライナ独自の民族楽器で65本の弦を持つ。裏側に7つのペダルがありキーを変えることが出来る。65本のそれぞれの弦が独立した音を持つので、ピアノにちかいという。右手がギターのように弦を押さえることはないそうだ。押さえているように見えるのは、弾く弦と隣の弦がぶつかったり共鳴しないように、弾かない隣の弦を押さえているという。
日本の琵琶法師のように、歌というよりも、語りに使われた楽器だったそうだ。1800年代にはウクライナ語を話してはいけない時代もあり、貴重な語り部だったという。1900年代のスターリンの時代には、バンドゥーラ奏者300人が全国ツアーに連れてゆくと電車に乗せられ、全員殺されたということもあったそうだ。300台のバンドゥーラも燃やされたという。
そんなウクライナの歴史と共にカテリーナさんが歌ってくださった歌「しあわせの鳥」の歌詞を紹介したい。

~しあわせの鳥~
木を切らないでください
植物を切らないでください
花を切らないでください
もしかしたら、誰かのお母さんかもしれないから

動物を殺さないでください
鳥を殺さないでください
もしかしたら、最後の愛かもしれないから



4.裁判が終わって「報告集会」

裁判が終わって報告してくださった弁護団の心強い言葉を、出来るだけ紹介したいと思う。
井戸謙一弁護士(弁護団長)
「今回の裁判は、当初から、被告(東電)弁護人は科学的にやるべきだから、原告の意見陳述は必要ないという姿勢だった。ところが、今日の原告2さんの意見陳述を聞いて、反対できず、裁判所に判断をゆだねると言ったことは、大きな変化だった。それだけ、原告2さんの意見陳述が皆の胸を打ったということだった。理由もないのに苦しめられた若者たちのことを知ってもらう必要がある。
そして、この問題を取り上げたテレビ番組「報道特集」に対してのバッシングが強くあることが、被害を受けた若者を委縮させることになるので、いろんな機会に伝えていってほしい。

河合弘之弁護士(弁護団副団長)
原告が6人しか居ない(甲状腺がんと診断された300人中227人が手術を受けている)ことが、問題の深刻さを示している。
被害者は分断されていて、孤立している。
そんな中、6人は必死の思いで立ち上がった。被告弁護人は、『感情に走ってはいけない、被害者の声なんか聞く必要はない』という態度だったけれど、原告2さんの意見陳述が空気を変えた。政府と福島県は、被害を忘れさせようとしている。復興の妨げになると、国は放射性物質による健康被害を絶対に認めないという姿勢。国は原発を動かしたいという強固な政策でやっている。この変な政策をやめさせたい。

田辺保雄弁護士
支援者のほとんどが裁判所に入れなかったけれど、原告さんたちは、たくさんの人が来てくれたことが心強かったと思う。被害を伝えるだけでバッシングされるから、どうか守ってほしい。

その他の弁護士さんからも、どうか、この6人の原告を守ってほしいとお願いがあった。意見陳述を読んでもわかるように、なんの落ち度もなく、なんの理由もなく苦しめられている若者が、自分の所為で家族に心配をかけていることを申し訳なく思ったり、自分を責めたりしている。こんなことがあってはならないと、涙ながらに、語られた。

会場で、練習用に録音した、原告2さんの意見陳述が流された際には、すすり泣く声が聞かれた。私も涙を抑えることが出来なかった。

どうか、このことを知ってほしい。そして、この原告を守ってほしい。

次回は9月7日(木)午後2時~東京地方裁判所

最後に「311甲状腺がん子ども支援ネットワーク」のHPを掲載するので、次回の裁判など確認してほしい。寄付もぜひよろしくお願いします。



5.ぜひ読んで欲しい原告2さんの「意見陳述要旨」


令和4年(ワ)第1880号 311子ども甲状腺がん裁判(損害賠償請求事件)
原告 1~6
被告 東京電力ホールディングス株式会社
 
意見陳述要旨

2022年(令和4年)5月19日
原告2
 
あの日は中学校の卒業式でした。
友だちと「これで最後なんだねー」と何気ない会話をして、部活の後輩や友だちとデジカメで写真をたくさん撮りました。そのとき、少し雪が降っていたような気がします。
 
地震が来た時、友だちとビデオ通話で卒業式の話をしていました。最初は、「地震だ」と余裕がありましたが、ボールペンが頭に落ちてきて、揺れが一気に強くなりました。
「やばい!」という声が聞えて、ビデオ通話が切れました。「家が潰れる。」揺れが収まるまで、長い地獄のような時間が続きました。
 
原発事故を意識したのは、原発が爆発した時です。「放射能で空がピンク色になる」そんな噂を耳にしましたが、そんなことは起きず、危機感もなく過ごしていました。
 
3月16日は高校の合格発表でした。
地震の影響で電車が止まっていたので中学校で合格発表を聞きました。歩いて学校に行き、発表を聞いた後、友達と昇降口の外でずっと立ち話をして、歩いて自宅に戻りましたが、その日、放射線量がとても高かったことを私は全く知りませんでした。
 
甲状腺がんは県民健康調査で見つかりました。
この時の記憶は今でも鮮明に覚えています。
その日は、新しい服とサンダルを履いて、母の運転で、検査会場に向かいました。
 
検査は複数の医師が担当していました。検査時間は長かったのか。短かったのか。首にエコーを当てた医師の顔が一瞬曇ったように見えたのは気のせいだったのか。検査は念入りでした。
 
私の後に呼ばれた人は、すでに検査が終わっていました。母に「あなただけ時間がかかったね。」と言われ「もしかして、がんがあるかもね」と冗談めかしながら会場を後にしました。この時はまさか、精密検査が必要になるとは思いませんでした。
 
精密検査を受けた病院にはたくさんの人がいました。この時、少し嫌な予感がしました。
血液検査を受け、エコーをしました。
やっぱり何かおかしい。自分でも気づいていました。そして、ついに穿刺(せんし)吸引細胞診をすることになりました。この時には、確信がありました。私は甲状腺がんなんだと。
わたしの場合、吸引する細胞の組織が硬くなっていたため、なかなか細胞が取れません。
首に長い針を刺す恐怖心と早く終わってほしいと言う気持ちが増すなか、3回目でようやく細胞を取ることができました。
 
10日後、検査結果を知る日がやってきました。あの細胞診の結果です。病院には、また、たくさんの人がいました。結果は甲状腺がんでした。
 
ただ、医師は甲状腺がんとは言わず、遠まわしに「手術が必要」と説明しました。その時、「手術しないと23歳までしか生きられない」と言われたことがショックで今でも忘れられません。
 
手術の前日の夜は、全く眠ることができませんでした。不安でいっぱいで、泣きたくても涙も出ませんでした。でも、これで治るならと思い、手術を受けました。
 
手術の前より手術の後が大変でした。
目を覚ますと、だるさがあり、発熱もありました。麻酔が合わず、夜中に吐いたり、気持ちが悪く、今になっても鮮明に思い出せるほど、苦しい経験でした。今も時折、夢で手術や、入院、治療の悪夢を見ることがあります。
 
手術の後は、声が枯れ、3か月くらいは声が出にくくなってしまいました。
 
病気を心配した家族の反対もあり、大学は第一志望の東京の大学ではなく、近県の大学に入学しました。でも、その大学も長くは通えませんでした。甲状腺がんが再発したためです。
 
大学に入った後、初めて定期健診で再発が見つかって、大学を辞めざるをえませんでした。
「治ってなかったんだ」「しかも肺にも転移しているんだ」とてもやりきれない気持ちでした。「治らなかった、悔しい。」この気持ちをどこにぶつけていいのかわかりませんでした。
「今度こそ、あまり長くは生きられないかもしれない」そう思い詰めました。
 
1回目で手術の辛さがわかっていたので、
また同じ苦しみを味わうのかと憂鬱になりました。手術は予定した時間より長引き、リンパ節への転移が多かったので傷も大きくなりました。
 
1回目と同様、麻酔が合わず夜中に吐き、
痰を吸引するのがすごく苦しかった。
2回目の手術をしてから、鎖骨付近の感覚がなくなり、今でも触ると違和感が残ったままです。
 
手術跡について、自殺未遂でもしたのかと心無い言葉を言われたことがあります。自分でも思ってもみなかったことを言われてとてもショックを受けました。手術跡は一生消えません。それからは常に、傷が隠れる服を選ぶようになりました。
 
手術の後、肺移転の病巣を治療するため、
アイソトープ治療も受けることになりました。
高濃度の放射性ヨウ素の入ったカプセルを飲んで、がん細胞を内部被曝させる治療です。
 
1回目と2回目は外来で治療を行いました。
この治療は、放射性ヨウ素が体内に入るため、まわりの人を被ばくさせてしまいます。
病院で投薬後、自宅で隔離生活をしましたが、
家族を被ばくさせてしまうのではないかと不安でした。2回もヨウ素を飲みましたが、かんは消えませんでした。
 
3回目はもっと大量のヨウ素を服用するため入院することになりました。
病室は長い白い廊下を通り、何回も扉をくぐらないといけない所でした。
至る所に黄色と赤の放射線マークが貼ってあり、
ここは病院だけど、危険区域なんだと感じました。病室には、指定されたもの、指定された数しか持ち込めません。汚染するものが増えるからです。
 
病室に看護師は入ってきません。
医師が1日1回、検診に入ってくるだけです。
その医師も被ばくを覚悟で検診してくれると思うととても申し訳ない気持ちになりました。
私のせいで誰かを犠牲にできないと感じました。
 
薬を持って医師が2,3人、病室に来ました。
薬は円柱型のプラスチックケースのような入れ物に入っていました。
 
薬を飲むのは、時間との勝負です。
医師はピンセットで白っぽいカプセルの薬を取り出し、空の紙コップに入れ、私に手渡します。
 
医師は即座に病室を出ていき、鉛の扉を閉めると、スピーカーを通して扉越しに飲む合図を出します。私は薬を手に持っていた水と一緒にいっきに飲み込みました。
 
飲んだ後は、扉越しに口の中を確認され、放射線を測る機械をお腹付近にかざされて、お腹に入ったことを確認すると、ベッドに横になるように指示されます。
 
すると、スピーカー越しに医師から、
15分おきに体の向きを変えるように指示する声が聞えてきました。
 
食事は、テレビモニターを通じて見せられ、
残さずに食べられるか確認し、汚染するものが増えないように食べられる分しか入れてもらえません。
 
その夜中、それまではなんともなかったのに、急に吐き気が襲ってきました。すごく気持ち悪い。なかなか治らず、焦って、ナースコールを押しましたが、看護師は来てくれません。
 
ここで吐いたらいけないと思い、必死でトイレへ向かいました。
 
吐いたことをナースコールで伝えても、
吐き気どめが処方されるだけでした。
時計は夜中の2時過ぎを回り、
よく眠れませんでした。
 
次の日から、食欲が完全に無くなり、
食事ではなく、薬だけ病室に入れてもらうことのほうが多かったです。2日目も1,2回吐いてしまいました。
 
私は、それまでほとんど吐いたことがなく、
吐くのが下手だったため、眼圧がかかり、
片方の目の血管が切れ、目が真っ赤になっていました。扉越しに、看護師が目の状態を確認し、目薬を処方してもらいました。
 
病室から出られるまでの間は、気分が悪く、
ただただ時間が過ぎるのを待っていました。
 
病室には、クーラーのような四角い形をした放射能測定装置が、壁の天井近くにありました。その装置の表面の右下には数値を示す表示窓があり、私が近づくと数値がすごく上がり、離れるとまた数値が下がりました。
 
こんなふうに3日間過ごし、ついに病室から出られる時が来ました。
パジャマなど身につけていたものは全て鉛のゴミ箱に捨て、ロッカーにしまっていた服に着替えて、鉛の扉を開け、看護師と一緒に長い廊下といくつもの扉を通って、外に出ました。
 
治療後は、唾液がでにくいという症状に悩まされ、水分の少ない食べ物が飲み込みづらくなり、味覚が変わってしまいました。
 
この入院は、私にとってあまりにも過酷な治療でした。二度と受けたくありません。
 
そんな辛い思いをしたのに、治療はうまくいきませんでした。治療効果が出なかったことは、とても辛く、その時間が無駄になってしまったかとも感じました。以前は、治るために治療を頑張ろうと思っていましたが、今は「少しでも病気が進行しなければいいな」と思うようになりました。
 
病気になってから、将来の夢よりも、治療を最優先してきました。治療で大学も、将来の仕事につなげようとしていた勉強も、楽しみにしていたコンサートも行けなくなり、全部諦めてしまいました。
 
でも、本当は大学を辞めたくなかった。卒業したかった。大学を卒業して、自分の得意な分野で就職して働いてみたかった。新卒で「就活」をしてみたかった。友達と「就活どうだった?」とか、たわいもない会話をしたりして、大学生活を送ってみたかった。
今では、それは叶わぬ夢になってしまいましたが、どうしても諦めきれません。
 
一緒に中学や高校を卒業した友達は、もう大学を卒業し、就職をして、安定した生活を送っています。
そんな友達をどうしても羨望の眼差しでみてしまう。
友達を妬んだりはしたくないのに、そういう感情が生まれてしまうのが辛い。
 
病院に行っても、同じ年代の医大生とすれ違うのがつらい。同じ年代なのに、私も大学生だったはずなのにと思ってしまう。
 
通院のたび、腫瘍マーカーの「数値が上がっていないといいな」と思いながら病院に行きます。
でも最近は毎回、数値が上がっているので、「何が悪かったのか」「なぜ上がったのか」とやるせない気持ちになります。
 
体調もどんどん悪くなっていて、肩こり、手足が痺れやすい、腰痛があり、すぐ疲れてしまいます。薬が多いせいか、動機や一瞬、息がつまったような感覚に襲われることもあります。
また、手術をした首の前辺りがつりやすくなり、つると痛みが治まるまでじっと耐えなくてははりません。
 
自分が病気のせいで、家族にどれだけ心配や迷惑をかけてきたかと思うととても申し訳ない気持ちです。もう自分のせいで家族に悲しい思いはさせたくありません。
 
もとの身体に戻りたい。そう、どんなに願っても、もう戻ることはできません。この裁判を通じて、甲状腺がん患者に対する補償が実現することを願います。

掲載終わり
 
 


書くことで、喜ぶ人がいるのなら、書く人になりたかった。子どものころの夢でした。文章にサポートいただけると、励みになります。どうぞ、よろしくお願いします。