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席、倒してもいいですか?

 「席、倒してもいいですか?」
 新幹線に乗り込んできた女性が、後ろの誰もいない座席に向かってそう言った。そして一拍あけて、にこっと会釈をした。
 誰も、いないはずなのに。
 座席に着くなり、彼女は遠出するには小さいポーチから、おもむろに本を取り出して、読み出した。
 この女性には、誰かが見えているのか。それは、心霊的な存在なのか。それとも、幻覚なのか。
 もう一度、その座席の方を見る。やはり、誰もいない。車窓はあいまいな空を透かしている。
 彼女を見る。こちらの戸惑いをよそに、おひたしのように弛緩した表情をしながら文庫本を読んでいる。横からなのであれだが、三十代後半くらいにも、大学生くらいにも見える。
 周りを見る。早朝だからか、わたしと彼女の二人以外には誰も座っていない。薄く引き延ばした遠吠えのような走行音だけが聴こえる。
 いや、もしくは、"後ろの座席"という概念に向かって、断りを入れたのか。誰にともなく、いただきます、とお辞儀をするように。或いは、祈りか。席を倒すという行為をおこなう自身を、あなたは赦されたいのか。そうなのか。彼女が少しこちらに視線を向けた気がして、慌てて目を逸らす。
 そういえば、わたしは眠かったのだった。昨日は夜更けまでドラマを観ていたのだ。主人公である引きこもりの男の暮らす家が、ある日「家庭の事情」によって二世帯住宅になるドラマを。まだ到着までに時間があるので、仕事に支障がないように少しでも仮眠を取らねばならない。すっと目を瞑ってみる。

 試したい。

 思わず瞼を開ける。開けた瞼の少し上の方に、なにかがひらめいている。

 試したい。

 なんだって。ひらひらとひらめく思念を、両の瞼で二回ノックしてみる。

 「席、倒してもいいですか?」って、おれも試したい。

 ばっと後ろを振り返る。誰もいない。誰もいないということは、試せるということか。なぜ。なぜ試したいのか。もう一度、横目で彼女を見る。何事もなかったかのようにじっと本を読んでいる。こんな時に、なんの本を読んでいるのか。こんな時ってなんだ。おれも試したい。ああ。「席、倒してもいいですか?」って、おれも誰もいない席に言い放ちたい。プラネタリウムに鳥を放ちたい。赦されたい。断りを入れずたっぷりと席を倒したことを、大事な商談があるのに夜更かしをしたことを、こんな妄念に取り憑かれていることを。
 彼女がおもむろに席を立った。トイレのある車両の方のドアーを抜けていった。不可思議な欲求が怒張したこのタイミングで、彼女は、見透かしたように席を立った。大袈裟に咳払いをする。大きく息を吸う。そして、わたしは意を決して後ろをぶるんと振り返る。

 「席、倒してもいいですか?」




サドルが去ってからどれくらい経つだろう。
夏が褪せてきた。




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