noteと人インタビュー「幸せの定義は生きていること」伊達文/言葉書きとイベント家

伊達さんはこれまでのインタビュー企画とは異なり、僕の方からアプローチしたインタビューだった。文章の美しさと、「幸せでいるという仕事を生れたときからしている」というプロフィールに一目惚れしたからだ。どのようにして、このような文章やプロフィールを書ける人間が成り立つのか、ストレートに「伊達さん入門」とでも言うべき話を聞いてみたかった。話のポイントは、「言葉」と「本」をたくみに循環させ、生き方そのものを日々アップデートしていること。すると、このインタビューは、現在の彼女のメカニズムや構成についてのスクリーンショットといえるかもしれない。インタビューは2014年6月15日、中目黒のカフェ「ALASKA」にて行われた。


○普遍的な価値の方に重きを置いて活動したい

私、20代前半までと20代後半以降で、全然性格とか価値観とかが違います。特に小中高時代はとてもネガティブでした。(事前にいただいた質問リストにあった)許せないことは何か?という質問が面白かったんですけど、とにかく大人の欺瞞が許せなくて、通信簿のコメント欄に親が書くぐらいでした。

子どもの時から本とか新聞とかがすごく好きで、趣味の欄には「新聞」と書いていました。勉強が得意な子供で、ICU(国際基督教大学)という大学に入ってチェコの文学で卒論を書きました。マイペースなので自由にやれるところが良かった。その後は、東大の大学院で学んだり書店や図書館で働いたりするんですが、どっちにいても、足をちょっとしか入れられない。自分が完全にいられる場所ではないな、と。


社会に出て会社に入ると、普遍的な価値よりもお金を生めることが大事になってくる。それは分かるんだけど、普遍的な価値の方に重きを置いて活動したい自分がいる。特に学問はすごく好きなので大学院は単純に居心地はいいんです。ただ、そこで完全に良いかと言われると、今度は大学院の中にいると、「なんでこの人たちは社会にこんなに関心がないんだろう」って思っちゃう。



○自由研究でホロコーストを選んでいるような小学生

人と自分が同じだと思ったことはありません。子供のときから好きなものとか考え方とか周りとすごく違ったので、自分以外の人が自分と同じものを好きであることは期待しないですね。それはないなと。完全に期待しないというわけじゃないけど、基本的に前提としては考えられない。


でもそういう人たちはいろんなところにいるんですよ。点々としている。小さいうちはお互いに会わなくて、大きくなって、ぽつりぽつり会いますね。大多数の人が好きなものを好きな人がいるのも当たり前なら、そうではない人がいるのも当たり前ではないでしょうか。


小さいときは人間に絶望していたので、30歳過ぎるまで生きていると思っていませんでした。こんな世の中は耐えられないから絶対にそのうち自殺すると思っていて。小学校のときが一番死について考えていて、そのときに一通り考え終えたので、今はそこまで考えていません。自殺願望が消えたのは20代半ばでしょうか。


自由研究でホロコーストを選んでいるような小学生でしたから、周りとは話が合いませんでした。どちらが良い悪いの話ではなく、興味の違いですね。両親には2人のポリシーを大事に育てられました。そのポリシーに他人の家がどうというのは一切入ってこない。兄2人はどうだったかは分からないけど、具体的なポリシーよりも私には自分で考える姿勢がしっかり伝わりました。家に畑があって、子供にも自分の畑があって、育てた作物を親に売るんですよ。小さいうちから経済を体験させたかったそうです。一事が万事そういう感じで、お小遣いの他に映画館代があったのも、映画はよいものだから子供に味わわせたいと考えていたみたいです。


一方で、小さいときに「勉強しろ」と言われたことはなくて、「好きなことを見つけなさい」と言われていました。それで絵画教室に行っていたんですが、その中で絵を描く自分には見切りをつけました。デッサンを習っていて、ある程度描いた後に、「あ、なんかおかしいな」と気づくんですが、一から直せばより良くなるのに、全部やり直すのは面倒くさいなと感じる自分も分かるんです。それが文章だと、どれだけ書き直しても「もっと良くしたい」「もっと直したい」と思えた。私は絵ではなくて言葉の人なんだろうな、と。今はまた絵も描いてるんですけど。



○一番時間をかけている工程は人生です

私の制作は文章とイベントの形をとりますが、人生全部が作品です。それが最大の売り物だと思っています。書くことは呼吸なので、いつ始めたかは分かっていません。逆に書かない自分を想像していません。机の前に座って制作しようとするのではなく、日常の中で頭の中に出てきたものを最終的にパソコンに移していきます。


一番時間をかけている工程は人生です。一つの作品をつくるための準備はなくて、どれだけ自分がちゃんと生きれるか。良く生きることにずっと興味がありますね。自分がそれをきちっとやることで、文章に現れる。生き方が変わると文章が変わる。


「この先もう書かないのならそこで私の人生は終わりでいい」と人に言って驚かれたこともありました。呼吸だし、書くために生まれたと思っているので。


○私の幸せの定義上、生きてる間に私が不幸になることはないんですよ

生まれたと言えば、神様という言葉を使っても使わなくても良いんですが、人にはそれぞれ神様からもらったギフトがあると思っていて、そのギフト(才能)があることで他の人を喜ばせることができる。それが私の場合は言葉なのかなと。いつか書けなくなったら、そのときは別の仕事があるのかもしれないし、そこで人生が終わりなのかもしれない。


人は何で生まれるのかっていうときに、幸せを感じるために生まれてきたのであって。私のイメージ的には神様がいて、命の原型みたいなのがあって、「行っておいでー」と送り出してもらって、地球に行って生まれて、「楽しかったなー」と満喫して、神様のところに戻って行って「楽しかったよ」と報告するイメージなんですよ。私は今まで幸せじゃなかったときってないので、「幸せでいる仕事」は常にさぼらずしています。ネガティブであった頃も幸せは幸せでした。


子供の頃はしょっちゅう泣いていたし、世の中の悪意に耐えられなかった。例えば、社会のことを学んで、(日本の中産階級に生まれた)自分が他の国の貧しい人々を搾取したり間接的に戦争や紛争に加担しているのが見えたときに、自分が毎日人を殺して生きていると思った。そういうのもあってあまり長くは生きられないなと。自分が感じる気持ちよさに耐えられない。


なんでみんなは平気で生きていられるのだろうと苦しいこともあったけれど、私の幸せの定義が「生きているだけで幸せ」なので、苦しいっていうのも生きている間の話で。私の幸せの定義上、生きてる間に私が不幸になることはないんですよ。定義上無理なので。



○人にとっての最大の仕事は生まれること

幸せであることについてなんですが、感謝するというのはすごく大きくって、すっごく嫌な相手であってでも、気づかずにやってもらってることがあって、そこに感謝する。感謝していると気持ちがいいので。幸せそうな人は感謝率が高いと思う。


喜ぶのも好きですね。小さいことでも嬉しいんです。「何で笑ったり喜んだりするの?」って言われるぐらいです。他の人があんまりこれに感謝したり喜ばなかったりすることに、感謝したり喜んだりすることが常にあって。空気が好きなんです。酸素。これがないと生きられないじゃないですか。1秒1秒そこに空気がいてくれて私に吸われてくれるっていうのは、小さい時からすごく感動してて、小さい頃は吸われた後に空気が押しつぶされていないのかなと心配していました。


空気があることに感謝するようになるといつでも感謝できていいですよ。私、心臓にも感動します。私の頭とかは夜寝れるじゃないですか。心臓は私が死ぬまで絶対休まないんですよ。すごいですよね。


ただ他にも、椅子に座るのも椅子が痛くないのかなとか、地面に立ったら土が重たくないのかなとか、幼少期はそんな風に感受性が強すぎて、さすがに生きづらかった。それで1回閉じちゃったんですよ、感覚を。きつすぎて。その後、ある程度大きくなって、体力や自力がついて、もうちょっと感覚をさらしても大丈夫だとなったのは、20代の半ばぐらいです。クリスチャンになったのもその頃です。信仰が自分の激変と同じタイミングできました。自分が自分のままでいて「ああ、幸せ」であるものだなあ。幸せでいていいんだなあって。自分が幸せでいるのを許せるようになったんです。


いろんな人が幸せでいる状態を定義するじゃないですか。私には「生きている」という定義がありますが、それとは別の次元で、自分が幸せだと思えればそれでいいと思っています。社会で作られた「こうあれば幸せ」みたいな、それに足りてる/足りていない部分をみんな探すんですけど、私は今ここにあるのを受け入れているし、感謝しているし、十分に幸せだなあと感じます。人にとっての最大の仕事は生まれることだと思っていて、生まれたということは一番の大仕事は終わったから、後は楽しんで帰ればいいかなって。そんなに人って何かしなくていいんじゃないかな。


何かをしたいっていうときに、自分がしたくて求めるのは素敵なことだと思うんですけど、外側からの物語に合わせてすごいことをしたいというのは、それで満足できるならしたほうがいいけど、見てるとその過程で苦しいことが多そうだなあ、と。



○遠い時代の遠い場所でも伝わる

私、池田晶子さんという哲学者が大好きで、池田さんも、いっぱい自分で考えて生きてる人は当たり前にいるものだと言っていて、それすごく分かるんですよ。当たり前にしてるし、声高に言いようもないし、普段は出会わないけど確かにいるなって。


あと、修論で研究したハンス・エーリッヒ・ノサックという作家に影響を受けてて、彼の言葉の中に、自分自身の真実を信じることが革命だとあるんです。そういうふうにして生きている人がいるんだって分かると、普段は会えないんだけど、遠い場所にいても違う時代にいても、そういう人はいるんだと書いてくれたことが、私にとってはすごくありがたくて、文章を書くときに色々な読者を想定するんですけど、最終的には自分みたいな誰かにやっぱりなってきます。


その人は、私の文章を実際には読まないかもしれないんですけど、それでも書くし、私が書いた時点で、たぶんその遠い場所の遠い時代の人も同じことをすると思うんですよね。そのことによって、私たちは繋がっている。リアルに繋がって読んでもらえるのもすごく嬉しいんですけど、それがなくても、書いた物が読まれなくても伝わるように、生き様を残す。


○肯定のやり方

肯定するということについてはとっても具体的な方法があって、「私はこう思う」って誰かに思ったときに、逆転させて相手の視点に立つようにしています。それがもっと社会的な問題なら、視点を固定しない。自分が思ったことを逆側から見ると、「私からはこう見えてこう感じる」けど相手からは「こうだよね」と言えて、そうすると、あんまり否定にならないんです。ああ、この人はこういうふうに育ってきて、こういう感じ方をして、こういうことが私とは違って大事だから、こういう行動を取るんだな、と、そういう理解をします。自分の意見を絶対化しない。


それは別に自分の意見を無いものにするのとも、完全にただ相対的なのとも違って、そこはノサックの言ったように自分自身の真実を自分は信じるというのもありだし、一番大事なんですが、それを他人にも「こう思ってね」と言わない。「思ってくれないかな」という文章は書くことはあっても。それが相手にとっても気持ちいいと思うんです。逆転させると見えなかったものが見えます。


もう一つの方法は、今思いついたんですけど、感謝というか、何かが存在してるとか生きてるとかが「ああ、嬉しい」ってなることかな。人ごみが好きなんですよ。何で好きかっていうと、生きてる人がいっぱいいるじゃないですか。だから、こんなに人が生きてて、みんな全然違う人生を歩んでいるという嬉しさ。うわあっていう嬉しさ。


踊りが好きなのも、踊りってすっごく生きてる感じがするんですよね。特に振り付けのないダンスは、その人が今この瞬間をこうありたいという動きがあって、ああこの人は生きているんだなと感じられるのが嬉しいんです。私は、常に脳内に言葉があるんですけど、踊ることで初めて脳内から言葉が消えて、それまで頭だけで生きていたんだなと衝撃をうけました。とにかく勉強が得意だったから、自分に体があることを初めて自覚できたというか。


少し話がそれましたが、仮にすごく嫌なことを言われたとしても、「ああ、この人、生きてるんだな」と考える。あと一番早いのは、嫌だなって思ううちは、自分が生きてるってこと。これは父の影響がすごくあって。父がこういうことを教えたわけじゃなく、父は闘病生活が長くて痛みがある病気だったんですけど、父が亡くなった後に歯医者さんに行って痛かったときに「父はもう痛いって感じられないんだな」って。痛い、苦しい、辛いっていうのを、感じれるうちって生きてるんですよ。感じられるありがたみ。まだ生きてる。死んじゃうと泣いたり苦しんだりすることもできないんですよね。そこの違いですね。


○シモーヌ・ヴェイユという人

もちろん病気のときは、痛いし辛いし、早く治りたいとは思います。私は元々皮膚が弱くて、20代半ばのときに最悪の状態だったんです。本当にひどくて、夜も眠れない。痒いから掻きやぶっちゃって、皮をはいじゃう。服にくっついちゃってはがすと痛い。当然寝れないし、大学院の授業も上の空ですし。


そのときにシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』で書かれてる言葉が支えになった。神様がどうして、私をアトピーのこの状態にしたかって、すごいなって思うんです。ステロイドの副作用は失明する場合もあるんですけど、私はそういうのはなかったし、歩けなくなることはないから、外出は一応可能だったんです。汗かくと痒いのでしょっちゅうコンビニに入って涼んでいましたけど。数十メートルおきに涼める場所に入る、みたいな。


とにかく、全身血行が悪くて、冷えてふらふらしていたけど、出歩くのは大好きだから歩けるし目も見えるし、音楽が好きだから耳も聞こえるし、ああちゃんと神様は一番自分がしたいことはできるようにしてくれたと。これはものすごいなと思って。あのときに生活を変えていなかったらもっと大きな事態になったかもしれない。私が無茶すると、神様がつんと知らせてくる、「生き方を変えた方がいいよ」みたいなのが何回かあるんです。そっちは違うよって。


シモーヌ・ヴェイユの何を支えにしてたかというと、未来に代償を求めないっていうことが書かれているんです。苦しいことをこれはいつか幸せになるためだと乗り切るのもありなんですけど、そうじゃなくって、今単純にここに苦しみがあることを愛することを彼女は薦める。私はヴェイユほどがんばれないんですけど。


ヴェイユは33歳で亡くなるんですけど、とっても裕福なユダヤ人の家に生まれて、若くして哲学の教授になるくらい頭がいいんですけど、ただ体が弱い。それでも、やっぱり働いている人がどういう状況で働いているのか同じ立場に立ちたくて工場で一年働きます。


当然そういうことをできる人ではないから、すごくきつかったんですけど『工場日記』という本を書いて考察したり。彼女の立場ならいくらでも亡命したり、いろんな物資とかも高いお金を払ってもらったりできたんですけど、彼女はみんなが配給で受けているものしかもらわなかった。体が弱いから当然病気になるんですけど、最後まで貫いて結局亡くなっちゃう。本当に強靭で高潔な思想を持っていました。ああいうのには私はなれないし、なりたいわけでもないけど、影響はものすごく受けています。慰めがあってはならない、今の一瞬を楽にするような慰めはあってはいけなくて、それがないことによって、ちゃんと恩寵がやってくる、というのが『重力と恩寵』で書かれていることの一つです。



○give&giveについて/循環させるということ

最後はgive&giveについて。私の詩のウェブサイトに、決定的に私の世界観のまんま書いてある詩が2つあります。循環というのが私の中で大きくて。


(質問リストにあって)面白くて、思わず笑ってしまったんですけど、与え続けたときに見返りが欲しくなったとしたら、それは止めればいいと思うんですよ。与えるのを。一生もらうだけの人がいたり、一生あげるだけの人がいたりしても、本人がそうしたければいいし、それが嫌になったらあげなければいいし、もらわなければいい。


私はあげたいなと思うと唐突にあげるし、普段はあげないし、もらうことは達人なので、いろんな人が私を助けてくれる。本当にたくさんの人が色々してくれて、何かをくれる。


give&takeの発想は、それはそれでいいと思うんですけど、くれた相手に返すって結構大変なんですよね。それも私の詩の中にあるんですけど、私も前はそうしたくて、くれた人に返したかったんですけどなかなか返せなくて、すぐ泣くから泣くわけですよ。それが、はたとあるとき、その人に返さなくてもいいなと思って、ある人が私に何かしてくれたことを私は別の誰かにあげる、その循環をすればいい。これがまず1点。


もう1点、「あげるだけ」「もらうだけ」でいいんだと思ったのは、そうじゃないと嫌だなって思う出来事があって。田口ランディさんという作家さんのお兄さんが引きこもってて自死されるんですね。その時に田口さんは、(うろ覚えなんですけど)兄は確かに稼がなかったけれども、だからって死なないといけない理由はあったのだろうかみたいなことを書かれていて、それを読んだときに、これに「生きていいよ」って言える社会じゃないと嫌だなと思ったんです。例えば本当に何もできないという人と楽しく生きれるというのがいいなと。何かができないということをマイナスにしたくない。実際には経済的なこともあるから簡単ではないけれど、その人なりのものがgiveされたりtakeされたりすればいい。



○私、たぶん、返さない空気出してます

それと、与えるって危険なところがあるんです。誰かに何かをしてあげる快感がある。それですぐに返さなきゃと気にする人が日本人には多くて(私みたいにただ受け取って「やったあ」みたいな人もいるけれど)。


1月に夫婦とも友達で旦那さんが交通事故に遭われて大変でしかも赤ちゃんがいてというところに料理を作りに行ったんですよ。やはりすごく気にされますよね。向こうとしては感謝をしたくなる。何か私に与えたいと思ってくださるのは分かるんだけど、でも今彼らは困った状況にいて、別にそれは私は返ってこなくても全然いいというか、そういうときだからというわけじゃないけど、ただただもらって喜ぶっていうのをしてもいいんじゃないかな。私、たぶん、返さない空気出してます。Facebookでもそういう日記を書いて表明しているし。誰かに何かしてもらうことって、相手に何かしてあげる喜びをあげてもいると思うんです。人に何かをするのは気持ちがいいから。一方で、したくないことをしないといけなくなると負担になる。


私自身は気が向いて勝手に誰かを手伝うことがあるけれど、メリットがあることもあるけど、私は面白ければそれでよくて、別に何かを返してくれなくてもいいんです。ただ実際には一つ動けば世界が動くから、何かしら還ってきますけども。



+++ ご案内 +++

伊達 文
note : https://note.mu/kotobanoumi
facebook : https://www.facebook.com/aya.date.9
site http://sky.geocities.jp/literatur_kotobanoumi/


+++ あとがき +++

今回も有料特典はあとがきにします。30分ぐらいでさっと書いた物ですので、コンテンツとしてというよりは、本文のおひねりのつもりで買っていただけると嬉しいです。

・生き様がすごい人間とは?
・伊達さんインタビューのきっかけ
・インタビューの節々で見られる伊達さんらしさ
・インタビューの最中で思ったこと
・編集意図
などを簡単にですが書きました。


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