秒速54mの情動

「人は自分の好きなことをやっているときが一番輝いて見えるから、皆からはそれがかっこよく見えるんだと思う」
 
元の発言からは大分改変された要約文だが、あるウミウシのこの言葉を、僕は時折思い出す。なるほどその通りだな、と。

 僕には、春猿火もそう見えた。ネオン煌めく弐番街よりも輝いていて、和風かつメカニカルな世界観の中で、彼女は何よりも格好良かった。
 パフォーマンスパートとは驚くほどにギャップがある、MCパートのふわふわとした可憐な雰囲気も魅力の一つではあるし、あの個性もまた僕が好きな部分ではあるけれど、あのライブを通して僕が感じたものは、「好きなものに直向きになる輝き」だった。
 春猿火セカンドワンマンライブ、シャーマニズムⅡ。あの二時間の光彩を言葉にするのは、それすらも惜しいと思ってしまう。

 台風みたいなライブだったなぁというのが、諸々の意味合いを取っ払った率直な感想だ。相変わらず二時間があっという間だったし、曲調も相まって非常にエネルギッシュな時間だった。
 そしてその中心にあるのは、ある意味で"らしい"台風の眼というか、台風の子なのである。莫大なエネルギーの中心核であって、同時に周囲の暴風雨が何かを誤魔化しているような、繊細で美しい、一人の少女の姿がある。
 まぁ別に、台風と銘打たれたライブというわけでもなく。これはあくまでもシャーマニズム。音楽の巫女を観測するライブではあるし、芯の部分に存在するのは、春猿火も語った愛という概念に他ならないのだろう。

 一曲一曲語るのは個人的に違うなと思うので、一曲だけ。かつて一つの物語に終止符を打とうとしていた少女が歌う『中継地点』には、かなり感慨深いものがあった。
 突然の自分語りになるが、僕も表現を辞めようとしたことが何度もある。僕の場合それが音楽ではなく文章であって、自信が湧かないのもよく理解できる。だからこそ、応援してくれる存在の偉大さだとか、好きだという言葉のエネルギーだとかっていうものも、それなりによく知っているつもりだ。
 あの時あの場で中継地点を謳うのは、なんというか力強いなと思う。離別ではあるけれど、終わりでも最後も無くて。これは今までとこれからを繋ぐ一つのポイントなのだという強かさが、勇気が、あるいは愛情が、僕に強烈な情動を与えた。
 万物にはいつか終わりが訪れる訳だけれど、だからこそ途中経過の旗を立てるこの地点こそが、眩しいくらいに価値あるものになるのだろう。

 感動するライブだった。勇気と元気を与えられ、彼女に優しく背中を押されるような。……愛情を受け止められる二時間だった。そしてなによりも、楽しかった。
 春猿火の思い描く『音楽の巫女』の具体的な姿を、少なくとも今回のライブで春組になった僕は知らない。けれども、音楽が文字通り楽しいもので、エネルギッシュなものであることは、魂から魂に伝わった。それは一つの信仰に近く、ある種の愛情に等しい。

 さて、せっかく中継地点の話をしたので、これからの話もしてみようと思う。観測者としての自分が、これから何をするのか。
 まぁ言うまでもなく、観測に他ならない。というかそれ以外の能がない。そして観測という行為が、彼女たちに良くも悪くも多大な影響を与えていることは、これまでの経験則として実感している。
 表現者と観測者、音楽と感情。神椿という界隈で相互に通い合っているのが、ともすればありきたりでありふれた、愛情なんていう単純で純粋な心情であるこの世界観が、気が付けば僕は大好きになっていた。表現者や観測者の最後の最期、その終着点まで見届けたくなるほどに。
 そしてその道程が、台風が過ぎ去ったあとみたいな、透き通った快晴であればいいなと、神椿市に吹き荒ぶ力強い竜巻を思い出しながら祈っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?