華麗なる美にカンパニュラを

 今までの僕にとって、ヰ世界情緒は物語の編纂者だった。
 強かで優しく、儚くて怪しい、そんな御伽噺の編纂者。同時に、見知らぬ物語を綴じた本でもある。僕が観測する『AnimaⅡ』は、ヰ世界情緒という本の表紙を開いて、未知の可能性に溢れた物語を読むようなライブだった。

 事象の測地線、そして神椿市参番街。そこには、色鮮やかな白があった。美しい黒があった。彼女が歩んできた三年半を知らずとも、心を奪われるような花が咲いていた。
 編纂者という認識は、間違っていたのかもしれない。彼女が歌う世界は、紛れもなく彼女自身が創り、喜びも悲しみも秘めた魂で表現したものだ。
 ただライブと呼ぶには、些か広大すぎる。あれはやっぱり、神椿市という世界を舞台に紡がれた、誰でもない彼女の物語なのだ。少なくとも僕はあの二時間半に、そんな「物語り」を感じた。
 花の小路も、教会も、祈りの聖域も、そこに生きる白い彼女も。僕には少し眩し過ぎるくらいに、色鮮やかに輝いて見えた。

 彼女の歌と言葉に、僕は救われた。彼女が創り続けた人生によって、僕の創作は救われた。
 惰性と後悔と自己嫌悪で生きる僕に、ありきたりな言葉でつまらない物語を創る停滞した僕に、彼女はただ「頑張ってるよ」と微笑んでくれた。
 彼女が"あなた"へ告げた感謝の言葉を、果たして僕なんかが受け取ってもいいのだろうかとも思うけれど、僕はきっと、胸を張って受け取るべきなのだと思う。
 とある人が呟いていた。「自分はもっと歌声に頼るべきなんじゃないか」と。その後に続く「歌声を聴いても何も成せない自分に直面するのが大嫌いで苦しい」という言葉まで含めて、共感というか核心を突かれた痛みを勝手に抱いていたのだけれど、含まれた意味としては決して遠くない筈だ。
 僕は、勝手に救われてしまっていいのだろう。そこに特別な権利も、誰かからの許可も必要ない。一人で勝手に救われて、勝手に感謝を伝えればいいのだ。そのくらいの我儘も、きっと誰か、あるいは彼女が、許してくれる。
 分かりきったくだらない話、自分を傷つけて苦しめるのは自分自身だし、そんな自分を救えるのもまた、自分自身に他ならない。
 ヰ世界情緒が僕にくれたのは、生きるための、創作するための勇気なのかもしれない。少なくともそんな希望が、この文章を書くエネルギーになっている。

 このライブを観測するまで、僕はヰ世界情緒をよく知らなかった。最初にも書いたように、表紙やあらすじしか知らない本のような存在だったから。
 可能性に満ちた本は開かれ、僕は彼女と、彼女の深化を観測した。それは色鮮やかなカラーリリィとして一つの章を終え、神椿市という世界の物語に綴じられた。
 かつての『Q』以来、僕は神椿市を訪れていない。だから、というわけではないけれど、今回の彼女の歌声は、『ヰ世界情緒の物語』として記憶したいと思う。
 たくさんの観測者やクリエイターに支えられた彼女が、"あなた"へ向けた歌と言葉を、僕が"僕"として受け取り、生きる支えにするために。そして救われた僕の魂が、いつか鮮やかな花を創って、彼女に「ありがとう」と伝えるために。

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