「病み期」って周りに言える人ってすごい

はじめに

これは皮肉とかではない。いや、もしかしたら自覚しようとしていないだけで皮肉かもしれない。だけどそんな「つもり」はないことはご了承いただきたい。それから、周りに相談することは大事だ。一人で悩みを抱え込む人が、少しでも減ってくれたら嬉しい。ただ、わたし自身が人に相談するほどの価値のある人間だとも思えないだけで。

去年まで、友だちの言う「病んでる」がどういうものか、どこまで深いのか、どう返せばいいのか、どう接すればいいのかということが、全然わからなかった。今もそこまでわかってるわけではないし、文化やコミュニティによっても異なるのであろうが、少なくともわたしの周りの人たちの「病んでる」はわかってきた気がする。

わたしは「病んだ」ことがあるのだろうか。ないと思ってた。みんなが言う「病んでる」みたいな感情になったことはないと思ってた。だけどそんなことはなかったようだ。

わたしが消えたくなるとき

ここでわたしの消えたくなってしまう感情の要因と照らし合わせた時に感じる、周りの人が「病んでる」と言えることへの違和感について書こうと思う。

私は自分の存在がマイナスに感じてどうしようもなくなった時に、消えてしまいたいと考えていた。完全な視野狭窄に陥っている時。

勉強も優れているわけではない、周りに思いやりをもって接したいとは思っているのにキツい言葉を放ってしまう、空気が読めていないかもしれない、運動もできない、体型も良くない、自分がいなければあの人が傷つくことはなかった、自分がいるからあの時こうなってしまった、自分がいなければもっとわたしの周りの世界は上手く、幸せにまわる。自分が消えてもだれも悲しまない。むしろ喜ぶ人はいるかもしれない。

親は自分のことなんてなんとも思っていない、子どもがいることが自分たちにとって本当に良いかではなくて、それが当たり前だからみたいな考えなんだろう。自分が消えても悲しまない。「子どもが自ら命を絶った」という一般的に悲しいこととされることだから、悲しいと勘違いするかもしれない。

それはわたしがわたしだから、わたしが消えて悲しいんじゃない。わたしが親にとって子どもだからで、周りの人にとってわたしは知人だから悲しむものだと思ってるから。

そんなふうにしか考えられないことがあって、だったらもうこんな苦しい世界から抜け出してやろうと思う。

こうやって考えて、涙を流すことが、「病んだ」ことだと思ってなかった。でもきっとこれは病んでた。

「病んだ」なんて言えない

わたしは周りの人たちが、自分のせいで負の感情を持ってしまうことに耐えられない。責任を負いたくない。周りの人たちが幸せそうならわたしもきっと幸せ。なのにそこから遠避けるような言動もしてしまう。

できるだけ、負のオーラは放ちたくない。もしも周りの人が「病んでる」と言ったら、少なくともわたしは悲しい。周りの人に負の感情を持たせてしまう自分が嫌なのに、そんなこと絶対自分からは言えるわけがない。

自意識過剰かもしれない。心配してくれる人なんていないかもしれない。だけど、たとえ嫌いな人がそのような発言をしていたとして、良いようには思われないだろう。だから「病んだ」なんてわたしは言えない。




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