尺度はひとつだけしかないか 氷菓の里志について
なんか論文っぽいタイトルなんだけど、語りたいことはちょっと哲学になってしまうかもしれない。
今日は再びアニメ氷菓を観たので、その感想も兼ねて。
このアニメは何回も観たけど、ほんとに観るたびに違う気持ちになる。
昔は少年少女の恋に惹かれていた。いまは里志の言葉に引かれる。
里志は初めから自分に才能がないと言い張っていた。その言葉だけではなく、その行動も相まっている。データを探し出すだけ、結論を持ち出さない。「データベースは結論を出せない」と、里志は言った。
ところどころから、自虐ネタだ。
でも、里志の言葉もある意味、この社会の評価基準を反映しているだと思う。
どんな人は才能がある人なのか、どんな人は強者なのか、ましてやどんな人は美人なのか、その尺度は全部あらかじめに用意されている。年収1億円とか、美しい体型の黄金比だとか。満たされれば合格、満たされなければ赤点。
里志もそい思っているだろう。ある領域を極められるスペシャリストこそ才能があるとのこと。何事についても興味を持ち、広範囲の知識を持つゼネラリストは無能だと。
しかし果たしてそうでしょうか。
何も知っていることは悪いでしょうか。Wikiは使いやすくないか?広範囲な知識を取り入れられること自体は素晴らしいことだと思う。少なくとも、それは記憶力の素晴らしさを意味している。それも才能だと認められるべきだと思う。
里志でもいい、奉太郎でもいい。摩耶花でもいい、えるでもいい。誰でも、この世界に唯一無二な存在であることと、才能を持つことを認めたい。
というのはわたしの感想だ。
現実は里志の言う通りかもしれないが、自分は楽しく生きていきたい。
それぐらいだ。
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