誘魅・紫苑の回顧録
没後回想(一)生い立ち
私は白河法皇が崩御した年に生まれたそうですから、大治4年(1129年)になるのですね。彼岸に来てから知る事が多いですね。
父は人を喰らう野狐(妖狐)だったそうです。
祖先は唐の射干(しゃかん)という野獣で、遣唐使の船に紛れて来たそうです。
小さい頃には、唐の仙狐や九尾狐の話を聞かせてくれた覚えがあります。
私が妖狐に育つ前に父は行方不明になりました。おそらく討たれたのでしょう。人はただ喰われるだけの餌ではありませんものね。
いずれにせよ、私にとっては優しくて頼もしい父でした。
母は稲荷神の使いの系譜の善狐(霊狐)でした。
困っている人を助け、五穀豊穣を祈っておりました。
決して人を疑わず、時には都合よく扱われていたようにも思います。
母は人への化け方、声色の使い方、狐火と妖刀の扱い方を教えてくれました。
母からの最後の教えは「人獣交会の禁」でした。交われば人の寿命を吸い取ってしまうから、と。
疫病や大地震などで世がすっかり荒れた頃、鎮めるために御供となりました。
今でいうなら鎌倉時代・永仁2年(1294年)の事でした。
一族は少ないながらも父方・母方ともにいました。
殆どが人と関わりながら生きておりましたので、私も自然と人と関わる道を選びました。
没後回想(二)戦乱の世
昔は何処も彼処も戦ばかりでした。
信義や策略渦巻く華々しい世界ではなく、親兄弟どころか乳飲み子でも容赦しない、一族の滅亡まで追い込む、まさに地獄の世の中でした。
私は各地を転々とし、人気のない山や峠で茶屋娘として働いておりました。
旅人に迷い人、盗人に山賊まで…様々な方がお出でになりました。
善人には導きを、悪人には悪戯をしておりましたね。
茶屋が戦でなくなってしまった時は、狐の姿で対向勢力に力を貸したり、私自身が妖刀で戦場へ加勢しました。
斬るのは人ではなく、人に紛れた魑魅魍魎。
討てはしませんでしたが、狸の大将もおりましたね。
こんな話をしていたら「天下人となった猿」を思い出しました。
あれは本当に猿の妖怪でして、見破った狐を始末する為に全国征伐を行っていたとか。
そのせいで全ての妖狐族が数を減らし、人に紛れて生きるか、より隠れて生きるようになりました。
没後回想(三)夫・藤吾
逢曲時で会った方は、私が留袖姿なのはご存知でしょう。
私には人間の夫・藤吾がおりました。
藤吾は小作農の七男で、早くから丁稚奉公に出されて、その間は藤七と呼ばれていたそうです。
奉公先の家が流行り病で傾き、行き場を失くして生家へ帰る途中で茶屋に来ました。
やせ細った見窄らしい風体で、茶屋までくるのもやっとな様子でした。
暗くなるのに峠を越えるなんて言うから引き止めましたが、女子ひとりの茶屋に泊まるわけにはいかないと聞きませんでした。
私がこっそり追いかけると、案の定悪霊に襲われて気絶しておりました。
助けて介抱をしたら、毎日茶屋に通い始めましてね。
日銭も儘ならないのに、よくもまあ。
私を好いていても「人獣交会の禁」を破るわけにはいかず、何度もお断り致しました。
三年通い続けたところで、私が妖狐である事を話しました。
これで逃げ帰ると思っていたら、藤吾は知っていると言ったのです。
戦狐の姿になって助けたところを見ていたのだとか。
想定外の事態に、私は生い立ちや目標についても話してしまいました。
何を聞いても、覚悟は揺らがないと言っておりました。
私も若かったもので、すっかり心を許してしまいました。
思い返してみれば、藤吾は美男とは程遠く、退屈なほど悠長な性格でした。
働き者のごわごわとした手。浅黒く焼けた肌。細い目の奥の黒い瞳。
妖狐のような魅力も無いのに、不思議と心地がよかったのです。
微笑みながら「紫苑」と呼ぶあの人が、私の帰る場所だと感じたのです。
そういえば、私の「紫苑」という名を付けたのも藤吾でした。
それまでは転々とする度によくある名前を名乗っておりましたので、何もこだわりがございませんでした。
夫婦として過ごしているのに、女房の名前を知らないのは困るというので、お好きに付けて下さいなとお願いしました。
藤吾の故郷の山に咲く「紫苑」を提案されました。
妖狐の毛色が紫ですし、峠の茶屋で働く姿が野に咲く紫苑に似ていると言っておりました。
奉公先の女将が鉢植えで育てていて、その時に名前を教えてもらったそうです。
字が読めない藤吾は、私の名前だけは懸命に覚えていましたね。
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