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相変わらずの怠惰

毎日のように日記を書いていたのに、一度休止するとなると、書くのが億劫になるものである。「習慣」というものは継続して行ってこそ、身につくことだなぁとつくづく思ったものである。
そもそも、「習慣」というのは、【長い間繰り返し行ううちに、そうするのがきまりのようになったこと】の意であるからして、その通りなのだが。
今、私が言ったことは、「睡眠を十分にとると、眠くなりづらい」というようなことだ。

私が休止しているうちにも、読んでくださる方は居て、あろうことか、読者登録してくださった方もいて、非常に嬉しかった。私の文章に、「読む価値がある」と評価してくださったのだと思うと嬉しかった。(そんな深い意味などないのは分かっている。私自身、そんな深い思いで押しては居ない。それでも、「私の文章を読む」という数分の行為をすることを選択してくれたことが嬉しいのである)

さて、私の大きなトピックとしては、「ネットフリックスに入会した」ことである。

そんなこと?と思われるかもしれないが、これは私の中で大きな決断だったのだ。ただ、何故、大きな決断だというというと、それは即ち、『嵐の活動休止』をまざまざと自覚し、彼らの積み重ねてきた功績を見て、自分の無力さを痛感する行為だからだ。国民的アイドルにすら嫉妬する私は、本当に変に自意識が高いんだと思う。
何も頑張ってこなかったからこそ生じる、理由もない『なにか出来たかもしれない』という決して訪れない未来に半ば絶望するのだと思う。

私が「アイドル」を好きな理由は、容姿端麗で能力の高いゆえ、「一般人」として過ごす方が、容易に「安定した生活」を送ることができるのに、その職業を選び、セルフプロデュースを上手にこなすところにある。

残酷なことに容姿による加点というものは存在しているので。それにも関わらず、野心を持って、向上心を持って、行動している姿は尊敬する。もっとラクな人生が送れるはずなのに、こちらを選んでくれてありがとう、そういう感謝である。
その一方で、アイドルを見ていてつらくなることもある。「キラキラ輝いている彼ら/彼女ら」と「何もできないクズな自分」と往復運動して、自己卑下に陥ることがある。気分が落ちているとき、アイドルを見るのが苦手なのは、そこだと思う。「頑張ることが善」の世界観は時として、自分が頑張れていないことを責められている気がするのだ。容姿という多大な加点があったにせよ、「一人の人間」であるのにとなるわけである。ああ、浅ましい。


ちなみにいうと小説は書けなかった。やはり、自分に才能がないのを認めるのが怖いのだろうなと思う。あれほど時間があったのに。「評価されないものを書いた時間=時間の浪費」となるのが恐ろしいのだよな。あれだけダラダラしている時間があるにも関わらず。
私は何かに本気で取り組んだことがない。本気で取り組むことに恐ろしさを感じているのだ。


そうやって、現状地点で、地団駄踏んでいても仕方ないと分かっていても、楽な方に身体を動かす怠惰な私なのは変わらない。いい加減、どうにかしたいところである。

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