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(原作改変問題について思うこと)

2月に入ったら、映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』についての感想などをまとめた記事をnoteに上げようと思い、昨年12月から少しずつ準備をしていました。

ところが、記事をほぼ書き終えた1月末ごろ、漫画を原作としたドラマ脚本にまつわる改変問題が取り沙汰されるようになりました。
その中で、これまでに映像作品において原作を改変されて大変な苦しみを抱えている作家の皆様の声や、大好きな作品を映像化において改変されて悲しい思いをされている読者の皆様の声を数多く目にしました。

この状況下で自作の、多少なりとも改変のある映像化作品について発言することは、少し配慮を必要とするのではないか…と迷いが生じていました。

そして、改変問題がたくさんの人の口から語られ、どんどん大きくなっていった末に、取り返しのつかない、とても悔しく悲しい結末を迎えてしまいました。
そのことに私自身まず大きなショックを受け、しばらくはその感情から抜け出せず、一日中ぼんやりしていました。

気持ちを立て直すのに時間がかかりましたが、やっと少しずつ頭が回るようになり、考えることができるようになり、
やはりこのまま、何の前置きもなく、何もなかったような顔をして、自作を原作とする映画について皆様の目に触れる場所で語ることはできない、創作者のひとりとして自分の考えを言葉にするべきだ、という結論に至りました。


ここから先で書く文章は、ただただ私の個人的な考えで、無関係な顔をして黙っていられないから語るというだけのことです。
ですので、この件についての話題を目にすることで心のバランスを崩してしまうかもしれないという方は、どうかここでページを閉じていただけたらと思います。
よろしくお願い致します。

――――――――――

起こってはいけないことが起こってしまいました。

芦原先生がいちばん初めにドラマの最終2話の脚本を担当するに至った経緯を丁寧にご説明なさったポストを拝見したときに、
私自身、紙媒体の作品の映像化という難しさをひしひしと感じるとともに、これまで自分の好きな小説や漫画が映像作品になったときに感じたもろもろを思い出したり…とにかく色々なことを考えさせられました。

それが数日後、まさかこんな最悪の形になってしまうなんて、本当に、言葉もありません。ただひたすら悲しくて苦しくて悔しいです。

自分の話になってしまい恐縮ですが、私も創作をしている身として、そして応援してくださっている読者様のいる身として、少し考えをお話しさせてください。

まず、昨年公開された拙作を原作とする映画は、2作とも全く原作通りということはなく、
ストーリーにせよキャラクターの設定にせよ、少なからず改変されているところがあります。
原作にはない設定や原作にはないキャラクター、原作にはない展開や台詞はたくさんあります。

ですが、それらの改変はすべて、
映画に許された時間内にまとめるためのものであったり、
原作において足りない部分や弱い部分を補足・補強してくださるような、
あるいはたくさんの人の目に触れると問題になる可能性のある部分をマイルドにしてあるようなものであり、
つまり映像化に当たって必要で重要だと、原作者である私も納得できるような改変でした。
むしろ映画に合わせて原作を書き直したいなと思わせられるような内容も多く、創作者としてとても勉強になりました。

私は映画化の企画が進み始める前に、制作側の皆様にお任せしますとお伝えしていました。キャスティングや脚本についても、私からは特に何も申し上げていません。

それはこだわりがないから等ではなく、まず初めに企画書を拝見した段階で、原作において最も重要なテーマやメッセージがきっちり汲み取っていただけていること、原作を尊重してくださる意志を感じ取れたからこそ、一任しても大丈夫だと思えたからでした。
そう思わせていただけたことに、心から感謝しています。

私の中では、自作について、
いちばん初めに産み出したときは自分ひとりでも、そこから先は関わってくださった方々と一緒に『みんなで育て上げたもの』、
という感覚があります。これは他の作家さん方も同じでしょう。

たしかに元々は作者ひとりで考え出し、作者ひとりで作り始めたものではありますが、
(もちろん、担当さんから頂いたアイディアを元に構想を練る場合もあります)
そうやってひとりで始めたものに、
編集担当さんや編集部の皆様、校閲やライターさん、イラストレーターさんやデザイナーさん、そこから印刷・製本・宣伝販促・営業などの皆様、取次や配送や書店の皆様など、とにかくたくさんの方々が関わってくださり、
(これは作家としての立ち位置しかしらない私の視界で認識できている範囲でのことで、実際には私の想像の及ばないところでもたくさんの方が関わってくださっていると思います。)
そして、最後に、読者の皆様が手に取ってくださり読んでくださることで、作品がやっと完成する。

そうやって、最初に産んだのはひとりでも、みんなで育てたもので、関わってくれた皆様がそれぞれに思い入れを持ってくださっているわけです。

そんなみんなで大事に育ててきた作品が、ないがしろにされるのを目の当たりにしたら、自分自身の悲しさや悔しさはさることながら、それ以上に、
これまで関わってくれた方々、応援してくれた皆様に本当に申し訳がない、守りきれなかった自分の責任は重い、という気持ちになるだろうと想像します。

私はどちらかというと自分の生み出した作品やキャラクターに対して、わりと距離を持っているタイプの作者だと思います。

一度自分の手を離れると、愛着はもちろんあるものの、ある程度「自由に行ってらっしゃい」という気持ちでいます。
自作を読み返したりすることはあまりないですし、改稿作業などで自作を読んでいるときにストーリーやキャラクターに感情移入することはほとんどありません。
むしろ、うまく書けていない部分や足りない部分が気になって気になって、恥ずかしくて悔しくて、
やっと手が離れたあとは、しばらく顔を合わせたくない…というくらいの気持ちになります。
好きだと言ってくださる読者様のおかげで、時間を経てやっと正面から向かい合うことができ、冷静に見つめることができるようになる感じです。

だからこそ、自分の作品は、その物語や登場人物を好きでいてくださる読者様のためにこそ守りたい、守らなきゃという気持ちでいます。
そういう意味で、とても重い責任を感じてもいます。

少し視点が変わりますが、
他人が創ったものに手を入れるというのは、非常に難しいことです。

私は国語科教員をしていたときに、生徒が書いた作文などの文章に指導というかアドバイスをすることがあったのですが、
ここをもうちょっと変えるとさらに分かりやすくなるなと思ったとしても、問題のある箇所をちょこっと直せばいいだけでなく、
その一箇所に手を入れることで、その他の部分にも、ときには最初から最後まで全体的に手を加える必要が出てくることもあります。

自分が使っているのと同じ言語で書かれているはずなのに、
違う人が生み出した文章は、それを考えた脳の構造から違う感じがするというか…
(うまく表現できないです、すみません…)

たとえば同じ風景を見ながら同じ道具で描いても、絶対に同じ絵にはならないのと同様に、
文章の場合も、同じ言語で同じ文法でも、表現方法が根本的に違ったりして、それを自分の表現方法で直すというのは本当に難しいのです。

言葉の表現で例を上げましたが、言葉以外の表現でも同じだと思います。

だから、『上がってきた脚本に加筆修正』とひとことで言っても、
ここはこういう台詞に変えて…この行動はなくして…というような単純な作業では決してなく、
おそらく経験したことのない人間には想像もつかないような、膨大な思考と作業を要したと思うのです。

しかも、自分の専門外の表現媒体であるドラマの脚本の確認と修正。
自分の本来の仕事である漫画連載でも締め切りも抱えて作業を進めながら。

そのとてつもない仕事量に、どれだけ疲弊していたか。どれほど心身を蝕まれたか。

そんな状態で何ヵ月も走り続け、なんとかゴールを迎えて、やっと終わった、やっと休める…と安堵していたところに、
まさかゴールの先で、さらなる問題が起こるなんて、予想もしなかったでしょう。

先生はきっと、自分の作品への愛は当然のことながら、
何より作品を愛してくれている読者様たちのため、一緒に作品を育ててくれた人たちのためにこそ、
力や時間を振り絞り、身も心もぼろぼろになるまで闘われたのだと思います。
そこに追い討ちをかけたのが、二次的なものとはいえ他でもない作品関係者であったことが切なく、やるせないです。



昨年末、ドラマの脚本問題について最初に世間が知ったとき、
先生は、原作読者の皆様やドラマ視聴者の皆様に対して、ご自身に説明責任があるとお考えになり、真摯な謝罪のお手紙を書くような気持ちで、最初の投稿をされたのだと思います。
(原作者であり、ドラマを良いものにするためにご尽力なさった先生には、謝罪をする必要などなかったのに。)

でも、一部の方に向けたその手紙をそっと置いた場所に、たまたま、
ずっと昔からくすぶっていた火種があって、一気に燃え上がり、共感した人たちが薪をくべていき、
思っていたものとは違う色と形の炎になり、思いと違う方向へ燃え広がり、あっという間に周囲を巻き込む巨大な炎になり、
もはや誰かひとりの力で鎮火することもできないほどの事態になってしまった。

それは誰が悪いというものでもなく、手紙を置いた先生も、薪をくべた人たちも、それぞれが大切にしているもののために怒りを表明しただけでした。
それは決して間違いではなく、正当な権利です。

物語を愛する人々の心に以前からくすぶっていた不満や義憤が、先生の投稿をきっかけに燃え上がっただけで、
もちろん先生にはなんの落ち度もなかったのです。

でも、誰かを責めるつもりなどなかったのに、意図に反してどんどん大きく攻撃的になってしまう炎が、
数ヵ月の間ずっと極度の疲れを抱えていたであろうお心とお身体に、どれほどの不安や焦燥や、絶望を感じさせたか。
『攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。』という最後の投稿から、ご自分を責める気持ちが痛いほど伝わってきて、胸がえぐられるようでした。

ファンの方に宛てて、ただただ真摯なお言葉をつづっただけの先生には、初めから予想できるはずもなかった事態であり、責任を感じる必要などないはずなのに、
心優しく感受性豊かな方だからこそ、深い後悔や諦念にとらわれてしまったのではないかと思います。

私の勝手な想像ですが、これ以上は無理というところまで疲弊していたところに、さらなる負荷がかかってしまったことで、究極の決断に至ってしまったのではないか…と思わずにはいられないのです。

心身ともに健康な状態であれば、きっと持ちこたえることができたかもしれない問題でも、
そうでないときには、ひとつも解決策のない難問に感じてしまう。

身も心も疲弊しきっている極限の状態では、誰であっても、正常な判断などできるはずもありません。
普段の自分なら決してしないような行動を、してしまうこともあると思います。

とにかく、何もかもが悪いほうへと傾いてしまって、その負荷が先生おひとりにかかってしまった。

責任の所在は決して先生にはなかったのに、純粋で責任感の強い先生がひとりで背負ってしまった。

どんになにつらく苦しかったか、どれほどの孤独と絶望を感じておられたか、想像すら及びませんが、
愛する作品のために、大切な読者のために、全力で闘い続けた先生が、今はゆっくりと休まれていることを心から祈っています。

でも、やっぱり、こういう形での休息は本当に本当に悲しくて、
こんなことになる前に、動くべき人がきちんと対処して、どうにか早急に事態を収束させる手立てはなかったのか…と悔やまれてなりません。

こんな悲しいことは、絶対に、もう二度と繰り返されてはいけないことです。

やはり元をただせば、原作に忠実であることを条件に許諾した映像化が、その約束を守られない形で進み、それを何度指摘しても変わらない姿勢で進められ続けてしまったことだと思います。

外から見ているだけでは、一体どうしてそんなことになってしまったのか、どこに問題があったのか不透明であり、簡単に問題提起をすることすらできません。

このままでは正常な形で議論することもできず、ただの不幸な事件として終わらされてしまいそうで、そのことに部外者ながら大きな危機感を感じています。

どうか、このようなことが二度と繰り返されることのないよう、
感情論によらない第三者目線の冷静な原因究明と議論がなされること、
そしてこれを機に、正すべきことが正されて、誰かが犠牲になる必要のない構造に変わっていくことを願うばかりです。

芦原先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。


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