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四王寺山ディープ案内 一日目

四王寺山は、福岡市の南東にあって、大野城市、太宰府市、宇美町にまたがる祈りの山。四王寺山という山頂はなく、大城山、岩屋山、水瓶山、大原山の4つのピークをもつ山です。

7世紀、白村江の戦いで破れたヤマト政権は、大陸からの敵を防ぐ朝鮮式山城、大野城を築きました。その土塁は峰を繋いで、四王寺山をぐるりと一周しています。

差し迫った危機が過ぎた8世紀には、外敵調伏を祈る四天王のお寺が営まれ、今も大城山頂脇の毘沙門堂にその名残を留めています。
その後、12世紀ごろには南斜面にたくさんの寺院が立ち並び、仏教の一大拠点になりましたが、戦国の争乱に巻き込まれ灰塵に帰し、今はいくつかのお寺が静かに佇むだけ。

戦国も終わろうとする頃、秀吉が九州平定に兵を進め、島津もまた北に兵を進めました。秀吉の本隊が到着する前、大友の武将高橋紹運は、700の兵とともに岩屋山の城に籠り、島津の5万の兵を相手に2週間持ちこたえ、最後は全滅しました。その後秀吉の本隊が到着し島津軍は退けられ、結局、岩屋城の戦いが九州統一の行く末に大きな役割を果たしたのです。

さて、そんな四王寺山ですが、今日はまず、正面から攻めてみましょう。

西鉄都府楼駅から少し歩いて、まず大宰府政庁跡にいきましょう。太宰府市も太宰府天満宮も「太」ですが、大宰府政庁は「大」です。広々とした四角い敷地。ここに、遠の都と言われた役所の建物が建ち並び、外交、国防の要としてたくさんの官吏―国家公務員が働いていました。政庁跡の南門の前に立つと、正面に伸びやかに四王寺山が広がっています。ここで働いていた官吏たちも、この山を見上げながら、日々の仕事や暮らしに悩んだり喜んだりしたでしょう。彼らはこの山を見上げて何を思ったのでしょうか。

四王寺山に向かって政庁跡のまん中を突っ切って左手の角の方へ。1月後半ならたくさんの梅の花が迎えてくれます。

政庁跡を出てすぐのところに小さな神社が静かに佇んでいます…というのは平成の時代の話。ここ、坂本八幡宮は人影もまばらな味わい深い神社でしたが、令和の年号発表とともに一躍有名スポットになりました。
〜時に初春の令月にして気(き)淑(よ)く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かおら)す〜
新元号のいわれとなった梅花の宴。催した大伴旅人の邸宅がこの辺りにあったのではないかといわれているそうです。
少し賑やかになった坂本八幡宮。静かだったころと同じように、和らかな風が吹いています。

さあ、坂本八幡宮のわきから、いよいよ四王寺山に登って行きましょう。

しばらくは車道を登っていきます。両脇は棚田です。田んぼにも、段々畑のような言い方があったらいいのになあと思います。棚田というと、棚のようになった田んぼを遠くから見る静止画のような感じがします。歩いていく目線だと、坂道を歩いている脇に一つ一つ、だんだんに現れてきます。段々田。一枚一枚の田んぼの上に、田んぼの生産力にいのちを預けていた人たちの想いが乗っかっているような気がします。

太宰府市民の森、眺望の森への分岐は通り過ぎて、大石垣への分岐で車道から山道へ。心地よい幅の土の道をどんどん登って行きます。

道は小さな川に沿って、川はどんどん細くなり、岩の上をさらさらさらさらと。小さく起伏しながら廻るようにつながる道は、四王寺山で一番美しいところではないでしょうか。一歩一歩を楽しんでいるとやがて大石垣が杉の間に現れ、朝鮮式山城大野城の構造に初めて出逢うことになります。


朝鮮式山城は、天守閣のある戦国時代のお城とは別物です。山の上に兵舎が営まれ、その回りにぐるりと土塁が巡らされています。お城というより、防御施設ですね。同時に基山に造られた基肄城、2つを繋いで平野を塞ぐ形で造られた水城とを合わせ、北の敵から大宰府を守っています。
大野城では峰を繋いでぐるりと7キロの土塁が築かれていますが、いくつかの谷のところでは土では流されてしまうので、谷を塞いで石垣が組まれ、そこに水門がおかれています。大石垣は2番目に大きな石垣。復元されて往古の姿をくっきりと顕しています。土塁を繋ぐ石垣なので、石垣の左右には土塁の道がありますが、ここは四王寺で2ヶ所だけある土塁が二重になっているところ。外側のわかりにくい土塁の道は見るだけにして、もう少し登ります。

一頑張りすると、さあ、土塁に出ました。どちらに進もうか迷いますね。今日は大城山山頂を目指しましょう。左に行きます。


土塁の上では、所々で、くっきりと人の手で作られたのを感じます。白村江の敗戦からたった2年で築かれた土塁。初めての国家存亡の危機に、きっと膨大なお役所の仕事が発生したはず。山城と水城を作る方針を立て、事業の推進体制を整え、地形を調べ、技術者を確保し、図面を引き、資材を確保し、地元に説明し、人手を集め、賃金を払い…。今も昔も、なにか大きなものを創り出すのは大変です。都も大宰府政庁も現場も、大混乱だったんじゃないかと思います。
都に家族を置いて来た官吏たち。人や資材を集めに走り回った村の顔役の人たち。農作業を放棄させられた村の人たち…。土塁の高まりが、たくさんの人の汗と涙と心労と歯ぎしりの積み重ねに見えてきます。それでも、たくさんの人の想いと筋力で、しっかりと突き固められた土塁は、今日もぼくたちの足元をしっかりと支えてくれています。


大城山への途中、右側に創造の森展望台、という小さな丘があります。四王寺山随一の展望を誇る場所です。
正面に宝満山がどっしりと、左に若杉山までの稜線をつないで座っています。太宰府天満宮から、愛嶽山、宝満山、仏頂山、頭巾山、三郡山、前砥石山、砥石山、ショウケ越、若杉山。福岡の自慢の縦走路が、それぞれの季節、一緒に歩いた仲間の顔とともに思い出されます。
右には大根地山、嘉穂アルプス。大根地山の向こうに隠れている英彦山への修験峰入りの道が浮かび上がります。
さらに右のずっと奥には、天気が良ければくじゅうの峰々がうっすらと望めます。
右手前には福岡都市圏から久留米都市圏へ市街地がつながり、耳納連山が屏風のように広がっています。
ここでたっぷり展望を楽しんでくださいね。
その先に脊振方面が望めるところもありますが、それはまた次回。


土塁を歩いていると、小さな石の仏様が点々と現れます。岩屋城の戦いの戦没者の供養のためにおかれた33の仏さまは、訪れる人の祈りをうけて、やさしくぼくたちを見ています。雨や風や鳥や虫たちに愛されて、大地そのものなのかもしれませんね。

さ、やっと大城山山頂に近づいてきました。土塁はあまり高低差なく造られていますので、山頂!という喜びはあまりありません。山頂の脇には毘沙門堂。四天王のひとつ多聞天のお堂ですね。正面に立派な鳥居がたち、ぼくの大好きな神仏習合の香りがします。


いつも静かな毘沙門堂ですが、正月3日だけはたくさんの人で賑わいます。お堂の前のお賽銭をいただいて帰り、翌年、倍をお返しする。そうすると一年間、お金に不自由しないと言われているそうです。知らずに初めてその大行列に出くわしたときはとてもびっくりしました。


ここ、大城山頂は鼓峰と言われ、新羅に面する高顕浄地として、四天王寺がおかれたところ。四天王寺のうち、北方を守護する毘沙門天が、北からの敵を防ぐ役目を担い続けてきたのでしょう。少し北に降った展望所からは、博多湾が見渡せます。大野城が築かれた頃は、きっと毎日、船がやってきていないかをここから眺めていたのでしょう。今日も何事もなかった、今日も大丈夫だった、今日も異状なし…。毎日無事を報告して、安堵のため息をつきながら、家路に着いたのでしょう。普通の日常の有難さに感謝しながら。

さあ、僕たちも、こうやって山に登れる日常に感謝して、今日は山を降りることにしましょう。来た道を戻り、土塁の途中から坂本に下る道があります。人の少ない、静かなトレイルです。坂本八幡のところに出て、はい、おつかれさまでした。

では、四王寺山のもっとディープは、また次回。



















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