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ふまじめのきろく ②

ふまじめ創作論

映画『ふまじめ通信』の脚本をどうやって作ったか。
前回の投稿で「人の思い出」でつくられていると触れました。
そのあたりを詳しく説明していこうと思います。

僕は仕事柄、取材などで自身のプロフィールを聞かれることがよくあります。その時に答えるのは、こういう学校を出て、こういう会社に勤めて、何歳の時に結婚して、映画でこういう賞をとって、とかそういう節目節目のわかりやすい出来事です。でも、いつも答えた後に「これを聞いたところで、その人が歩んできた人生の何がわかるのだろう?」と思ってしまいます。
僕らは人生のほとんどを、節目節目の間にある膨大に平凡な時間の中で過ごしています。だから、節の部分をいくら語ってもその人の人生を感じることはできなくて「あえてどこにも語らない、誰からも聞かれない、どこにも記さない」そういう時間にしか、その人が生きてきた本当の時間を感じることができないんじゃないかと思ってます。

「映画」も誰かの人生を語る、創作物です。通常映画には上映時間2時間程度という制限があり、誰かの人生を物語るには到底時間が足りません。なので、作り手が目的とした「ストーリー」を見せる事とは関係のない余分な部分はどんどん省かれていってしまいます。僕はいつもこの省かれてしまう物語の断片、言い換えるなら「人生の断片」みたいなものに愛おしさを感じていました。だったら、この「断片」だけを集めた映画を作ったらいいのではないか?「小説」のようなストーリーを見せる映画ではなく、「エッセイ」のような人生の実感を感じる映画を作ることはできないか?
そういった思いから「ふまじめ通信」の構想ははじまりました。

と、僕の中では明確にイメージが作れていたのですが、企画書で説明してもすぐにはプロデューサーとイメージの共有ができませんでした。「じゃあ、とりあえず、1話だけ書いてみてもらえないかな?」と言われて試しに書いてみたのが本編の最初の章「夜のラジオ体操」です。
クニちゃんの友人のミンミンが語る大好きな叔母さんの最期のエピソードは僕の実体験です。

僕は母の妹にあたる叔母のトミちゃんが大好きでした。結婚をせず、子供もいなかったトミちゃんは兄と僕のことを自分の子供のように大事にしてくれました。1時間位離れた距離に住んでいたのですが、頻繁に遊びに来てくれたし、旅行にもたくさん連れて行ってくれました。でも僕が小学校高学年になったころ、パタっとトミちゃんがうちに来なくなりました。僕は我慢できずに母に理由を尋ねました。すると「トミはすっごくたくさん借金をしていて、家族からお金を借りるようになっていた。このままではみんなが限界になってしまうので、家族の縁を切った」と母は教えてくれました。すっごく悲しかったです。とにかく悲しかったです。
次にトミちゃんと会えたのは僕が23歳の時でした。その頃僕は、東京のラーメン屋でアルバイトをしながら自主映画を作っていました。ある日、母から連絡があり「トミがもう長くない」と言われました。トミちゃんは末期の膵臓癌でもう余命がほとんどありませんでした。僕はもうこれが最後になると思ったので、病院にいるトミちゃんに会いに行きました。病室に入り、ベッドに寝ているトミちゃんを見た時、腰から崩れ落ちそうになりました。そこには、僕が記憶しているトミちゃんではなく、病気で骨と皮になってしまったトミちゃんがいました。僕は気持ちを抑えることができず、トミちゃんをそっと抱きかかえ耳元で「トミちゃん、本当に大好きだったよ。ありがとね。大好きだよ」とそっと囁きました。声を出すのも辛かったであろうトミちゃんは残った力を振り絞って僕に言葉を返してくれました。「真吾、口臭い」。その言葉を聞き、僕はすぐに反省しました。病院に来る前、いつものようにバイト先のラーメン屋の賄いを食べてきました。僕は当時、ラーメンにはたっぷりのニンニクを入れ、さらにニンニクのたっぷり入った餃子をセットにしたラーメン定食を主食にしていました。僕はそっとトミちゃんから顔を離し、それからは無言で愛を伝えることにしました。結局、その数週間後にトミちゃんは亡くなり、あのやりとりが最後の会話になってしまいました。

このエピソードは僕の人生を語るとき、とても大切なエピソードになります。でもわざわざ人に話したことはなかったし、どこかに発表したこともありませんでした。僕は誰でも心の引き出しに同じようなエピソードを持っているんじゃないかと思ってます。
「わざわざ人に話すほど価値があるとは思わないけど、自分にとっては大切な出来事」僕は「ふまじめ通信」の脚本を書き進めていく過程で、自分の家族や友人、ロケ先の関係者の方々に、こういうの何かありませんか?と聞いてまわりました。みんな「こんな話でいいんですか?」と前置きをして後、必ず何かを語ってくれました。そのどれもが面白くて、中には、え!嘘でしょ、と思ってしまうような話もありました。不思議だったのは、そういう話を聞いた後、話してくれた人の人生がよりリアルに感じることができて、その人に対する愛おしさが何倍にも増して感じられるようになりました。

そうやって集めたエピソードを、映画のキャラクターの人生や性格に合うように調整して物語にしたのが「ふまじめ通信」です。
創作方法の説明をしただけで論にまでたどりつけませんでした。
次回は論についても踏み込んで書こうと思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。ではまた次回。

                  まつむらしんご拝



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