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父のキャッチャーミット

 二 父の病気
 その町でわたしの父は鉱夫ではなく、大工として働いていた。好景気の頃は何かと仕事も多く、わが家の暮らしも順調だった。
 ところがわたしが生まれてすぐに事態は一変した。父はときどき倦怠感で体が辛くなるらしく、仕事を早めに切り上げ、家で横になるようになった。日を追うごとにその回数が増えた。町の病院で調べても原因は分からないまま、ついには大工としての仕事は続けられなくなった。
 父はいつでも体が重いらしく、自宅から2キロ程度の場所にあった仕事場へ行くのもやっとのことだった。大工の仕事は止めたが鋸の目立てやいろいろな道具の研ぎや修理を請け負っては小銭を稼いだ。細々とそのお金を貯めて、1年後にやっと帯広にある大学病院へ母と一緒に検査に行くことができた。
 その数日後、父は初めて自分を苦しめていた病名を知った。「アジソン病」であった。
 千人に一人の割合の珍しい病気で、副腎髄質が十分な量のホルモン物質を生産できなかったために起こる病気だ。その治療は不足しているホルモン剤を投与するしかなく、その薬は高額だった。しかも根本的な治療法はなく、副腎機能や内分泌機能が低下すると命に関わる重い病気だった。
 一家の大黒柱が聞いたこともない重い病気になり、父も母も途方に暮れたに違いなかった。だが我が家はいつもと変わらぬ日常が繰り返されていた。

三 野球小僧
 幼い頃のわたしは、わが家の収支や経済状況、ましてやエンゲル係数なんのそので、野球にのめり込んでいた。 
 「ライパチ」、それがわたしの小学生の時の定位置であった。守備がライトで8番バッターという野球がヘタな子どもの収まる場所だった。それでも友達と遅くまで遊んだその野球が忘れられなくて、中学に入っても野球を続けた。
 私も多くの少年たちのようにプロ野球選手を夢見て、毎日必死に部活動に励んだ。ボタ山をダッシュで駆け上がり、「心臓破りの坂」までランニングで往復した。家に帰ってもテレビアニメの「巨人の星」を手に汗を握って見、その興奮のまま百本の素振りを毎日続けた。
 同級生たちは先輩たちから与えられた厳しい練習メニューといびりで、櫛の歯がぽろぽろ欠けるように次々と辞めてしまった。最終的に残ったSと私の二人がバッテリーを組んだ。S君はピッチャーだったので、残った私はへたくそでもキャッチャーとキャプテンを務めた。 
 だから、練習では手を抜く余裕などなかった。その結果、打順は三番を任されるまでになり、どんなボールも後ろに逸らさない捕手として信頼を得ていった。
 ちなみに人数が多く野球が上手な先輩たちはもちろん地区の優勝候補だった。ところがこれがなんと予想外の一回戦負けだった。
 私とS君は唖然とした。
 だが私の野球人生のドラマがここから始まった。

四 元祖母は太陽だった
 我が家は実にひっ迫していたはずだった。それに育ち盛りの兄弟が4人もいた。
 父の病気がわかったのは私がまだ幼稚園の頃だった。だから当時の記憶はほとんどなく、成長するにしたがって姉たちや母から聞いたのだろう。
 父本人はみんながその存在を忘れかけたころにたわいのない話をするぐらいで、自分のことは滅多に話さなかった。明治の終わりに生まれた父は戦争にも行っている。
 もしかすると私よりひと回り上の兄には話していたかもしれない。兄はもともと父に尊敬と憧憬を抱いているようなところがあった。
 だが残念なことに兄は父よりも一回りも二回りも無口だった。だから兄にも何かを教えてもらったことは一度もない。ときどき山や川に一緒に連れて行ってもらい、そのときの見様見まねで、自分で釣りを覚えた。背中で学んだのかもしれない。
 当時私は「わが家は貧乏なんだ」と漠然と感じてはいたものの、「なんと不幸なんだ」と思ったことは一度もなかった。不思議なことに記憶にあるのは、親戚の家の雑巾はいつも真っ白で、雑巾か布巾か区別がつかないことだった。わたしはなぜかとても驚いた。我が家のそれはくたびれた雑巾そのものを象徴している薄墨色だった。でも我が家にはそんなことを気にする者はいなかった。生きていくことだけに正直だった。
 私の母は大正生まれで、私が中学校に入るまで着物で生活をしていた。兄が働いていたせいか母は外で働かず、家の家事全般を行った。父の世話があったのだろう。
 母はもともと大家族の長女で尋常小学校を卒業するとすぐに奉公に出されたらしい。
 我が家は4人兄弟だが、母の家族は7人兄弟だった。なんだかウルトラ3兄弟が実は7兄弟だった、みたいな話だが。それでいうと母はゾフィーのようなM78星雲の光の国の「宇宙警備隊」の隊長なのだ。だから家族を守るために幼いころから働かされたのか。
 今、父が病気になり、家族を養うために苦労している母は尋常小学校卒業以来、苦難の中を歩み続けてきた。だが私は母が悩んでいる顔も、悲しんでいる顔も見たことがない。いつも笑顔だった。
 かつて女性解放運動の先駆者であった平塚らいてうの言葉を借りるならば「わが家族にとって母は太陽だった」といえるかもしれない。

五 初めての集団生活
 高校生になっていた私は静岡県のS市の学校へそのまま転校した。
 学校の成績はまあまあだったが、兄弟では私にいちばん近い(といっても6つも年上だった)下の姉がいちばんよかった。中学校でも、高校でも1,2を争う秀才だった。
 しかし我が家にはお金がなかったので担任の熱心な訪問と説得にも関わらず、姉はS市にあった国立大への進学をあきらめて、同じ市内のITの会社に就職した。
 金がないのはどうしようもなかった。閉山によって家族みんなが静岡に転居しても下の姉だけは一人札幌に残った。
 私はろくに勉強もしなかった。だから安易に高校の推薦に頼って大学に進学した。家族で苦労というものを知らないのは私だけだった。我が家ではじめて大学に進学した人間だったにも関わらず、当人は何の自覚もなく漫然と大学生活を送ってしまった。
 大学にかかる費用はすべて親に出してもらえた。だからせめて交通費や生活費、家賃などの負担を軽減しようと奨学生や家賃と食費の安い学生寮に自ら応募した。運よく両方とも得ることができた。
 だが学生寮に入ることは私にとって一大決心が必要だった。
 小学校1年生の時から通信簿の家庭欄に、いつも「とてもおだやかでやさしい性格です。しかしもっとはきはき自分の意見を言えるようにしましょう」などと書かれていたからだ。
 小学校6年間ずっと変わらず書かれ続けたので覚えてしまった(中学、高校では別のことが書かれていたはずだが覚えていない)。人見知りで自己主張のできない自分が未知の人類がうごめく大学の寮に入って生きていけるのか、緊張と不安でいっぱいだった。

六 ミイラ男
 初めて見た大学の寮はコンクリート打ちっ放しのまだらな灰色で、寂れた遺構のようだった。コンクリートのせいか何だか冷たい感じがし、私の不安をさらにあおった。
 いざ入寮してみると、今まで知らなかった世界がそこにはあった。
この学生寮はなんと男子の寮と女子の寮が併設されていた。若者にとって男女が一緒というだけで、やる気がみなぎってくるものだと初めて知った。私の眼には女子大生はみんなまばゆく輝いて見えた。
 入寮して初めて、寮には自治会があり、学生自身が生活規則や約束事、年間スケジュールなどを決めて生活しているということを知った。
 入寮当初は新歓パーティーがあったり、寮自治会のこれまでの歩みをガイダンスしてもらったり、施設の使い方をレクチャーされたりした。お風呂はもちろん男女別々だったが、そのガス釜は寮生がマッチで直に点火するマニュアルタイプの年代物だった。
操作の手本を先輩寮生が行った。あっけなく点火できたので、みんながその通りにできると思った。
 ひと月もたたないうちに、その悲劇は起きた。
 夜になって慌ただしく救急車のサイレンの音が響いた。
 下に降りて事情を聞くと風呂場からガスが爆発した音が聞こえたらしい。誰かが様子を見に行くとお風呂当番の寮生が火傷を負ってうずくまっていたので、119番に連絡したという。
 たぶん臆病な私なら十分に気をつけたに違いない。
 ガスの元栓を開けてから、マッチを擦るなどということは決してしないだろう。
 悲劇の主人公は新潟出身の小金持ちの息子だった(大金持ちではない)。大切に育てられた彼は、自分で風呂は沸かしたことがなかった。だからガスの元栓を開けるのとマッチを擦る順番はさほど重要なこととは思わなかった。
 全身にガス爆発を浴びた彼はすぐに救急車で病院に運ばれた。寮生は事故の顛末を知って彼を心配した。みんなそのまま入院するだろうと思っていたが、彼は夜遅くに帰寮したようだった。
 翌日、食堂で朝食をとっていると同室の先輩に付き添われて、寮に常備されている車いすに乗せられた彼が左側の扉から入室してきた。反対側の扉は女子寮との連絡口になっていた。
 顔とTシャツから出た両腕が包帯に覆われた彼はまるで全身が包帯に覆われたミイラ男のようだった。
 だが食堂にいたみんなは食事に来た彼を見て安堵の表情を浮かべた。やがてその奇異な姿にクスクスと笑う声があちこちから聞こえてきた。
 衣類から出ていた肌がダメージを受けたが1、2度程度の火傷で済んだらしい。火元に近かった顔面がいちばんダメージを受けた。それで包帯のマスクマンになった。
 ちなみにこの寮では体に障碍がある学生もない学生も一緒に生活しており、自然と相手に配慮するライフスタイルがみんな身についていた。日常生活では同等の人格として口喧嘩もした。でも不思議と後を引くことはなかった。
 新潟のミイラ男も、多少の不自由さはあったろうがその生活には何の問題もなかった。また周囲の寮生も、彼の受けた損傷やそのいきさつについて冷静に、むしろ冷淡に受け止めていた。

七 健康ソフトボール
 大学の寮は男子48人、女子24人で、1フロア―4つの部屋があった。
 廊下の突き当りが4人部屋、その間に2人部屋が2室あった。部屋割りは1年生から4年生まで先輩と後輩が組む形で行われていた。
 先輩たちはとても親切でやさしく、私の入寮への不安は一日で吹き飛んでしまった。さらに寮に住む人たちの奇人変人ぶりを知る日々を送るにつけ、私は底なし沼に引きずり込まれていった。
 ある日、角の4人部屋に同じフロアーの新入寮生が集まって話をしていた。
 寮生活の印象や施設のこと、例のミイラ男事件や球技大会での集団食中毒事件などで盛り上がっていた。
 食中毒事件とは、ふだんろくに運動もしていない不健康な先輩たちを外に連れ出し、運動をさせようという企画である。新入生が多かった文化局という係が先頭に立って立案し、食堂委員会も共催として昼食の準備を手伝ったあの忌まわしいできごとだった。実はその文化局にわたしもいた。どうしてか私の周辺ではいろいろな事件が勃発した。 
 私たち新入寮生は、昼はドラキュラのように太陽光を浴びるとまぶしそうにふらふらあるき、夜満月を見ては狼男のように力を漲らせ、意味もなく宴会をしたがる不健康な寮生活を送る先輩たちの健全化を図るために立ち上がったのだ。
 文化局には私以外にも中・高と大阪でバレーボールにあけくれたMがいた。また食堂委員会には甲子園でも有名な長崎の甲子園常連校のサードのOがいた。こんな筋肉の塊たちがじっとしていられるわけがなかった。
 種目は男女関係なく、障害のある寮生も参加しやすいソフトボールに決まった。
文化局員は手分けして大学のグランドを借り、道具一式の借用書を書いた。また当日は早朝からラインを引いた。
食堂委員会は前日までに買い出しを済ませ、田舎から送られてきた誰かの米が無償で提供され(たぶん)、それを食堂の巨釜で炊いた。
 食堂を使用するため、食堂の頑固なおばちゃんを説得したのは、毎朝、食堂にあるキリンレモンとバヤリースオレンジの自販機の前で、
「一日の始まりである朝食を規則正しく食べましょう」
「朝食を摂り、健康的な生活を送りましょう」
「朝食は地球を救う!」
朝食が神様の贈り物といわんばかりにみんなを啓蒙していた長崎のOだった。彼は食堂の申し子だったに違いない。
 大会当日はみんなひさびさの運動で気持ちよくお腹がすいたのか、食堂での昼食会は大変な盛況であった。水道の水をがぶ飲みし、テーブルの上に置かれたおにぎりを口いっぱいにほおばり、大皿に次々と放り込まれるシシャモを丸のみにした。みんなの食欲に焼き魚の供給が追い付かず、中には生焼けのシシャモがあったかもしれないが後の祭りである。たまに健康的な生活を送ろうとしたがために起きた出来事だった。人は普段と違うことをすると必ずつけが回ってくるものだ。
 「禍福はあざなえる縄のごとし」だ。
 翌日、男子寮のトイレはどこも満室で貸し切り状態だった。上品な女子はしっかりシシャモに火を通して食べたのか被害者はいなかった。焦げたあまりものを食べた私も無事だった。筋肉の塊だった仲間たちは個室に籠りきりだった。

八 卒業できない
 世間知らずの私は寮生活だけでなく、大学でもいろいろなトラブルに遭遇した。そのほとんどは自分で惹き起こしたものだが。
 大学というのは高校と同じで、四年間通い、定期テストで赤点を取らなければ卒業できるものだと単純に思っていた。
 たしかに寮にも5年、いや6年いると言われている先輩がいると大阪のバレー青年Mが話していた。すると新潟のミイラT(すっかり包帯が取れたが、顔に残る火傷を気にして1日中レイバンのサングラスをしていた)は投げやりな口調で、
「寮に棲みついているか、引きこもりになったんじゃないの」
といった。
 私たちもどうしてそんなに長く寮にいるのか不思議ではあった。
 私は大学には卒業するために、必要な単位というものがあることを知らなかった。しかも124単位も必要だった。単位というものを知らなかった私は単に124コマもの授業を受ける必要があると思った。やっぱり大学は違うなと変に感心したのだった。
 124コマを4年間で割ると、1年では31コマの授業。週6日(まだ週休二日制ではなかった)通うとすると1日5時間とどこかで6時間必要ではないか。これはあんまりだ。 「責任者出てこい!」と叫びたかった。これでは大学構内に棲みついた方がいいではないかとさえ思った。このときはどういうわけか寮の先輩にも聞けなかった。あまりに初歩的な質問のような気がしたからかもしれない。
 しかたなくカリキュラムを提出する学生課の窓口に行った。
 高校の教室を2つ付けたような広さの中に十名程度の男女の職員がいた。立って働いているのは若い職員たちが多かった。
 小窓と正面のガラス壁を交互に見て、やさしそうな職員を探した。すると30前後の黒縁のメガネをかけた職員を発見した。彼は色の白いまじめそうな男だった。女子職員には鼻先で笑われそうだったので避けた。この人は短気で途中で怒鳴り出すような単純な男でないことは本能的に感じた。小・中・高校と通ってみて、知的でやさしい先生にこのタイプが多かった。
「すいません」
と声を出した。みんな自分の仕事に夢中である。メガネ男に向かって、今度はやや声を張って
「すいませえーん」
と声をかけた。すると、
「何か御用でしょうか」
とメガネさんは返事をした。
 学生課の窓口である。大学生が遊びになんか来ない。何か御用なのだ。でもその優しい口調に「やっぱり」と少しほっとした。そして恥を忍んで尋ねた。
「卒業に必要な124単位とは何ですか」
 ふつうは(そこからかよ!)と怒り出してもおかしくない。
 でも、
「124単位取らなければ卒業できないということです」
 よほど無知だと思ったのか黒縁メガネの職員は、慈愛に満ちた目を私に向けて分かりやすく説明を始めた。
「語学以外は、1年間授業を受ければ4単位になります。語学も前後期制というだけで通年は4単位になります。ですから単純に4で割ればいいのです」
 単純という言葉に反応して、私は周囲に目を配った。自分のことを言われているのではないかと思わず確認した。
 付け加えるように説明が続いた。
「ですが、4年生になると卒論、つまり卒業論文があって10単位になります。しかしこれの製作は大変で、芸術学科の人は卒論のみを残して、3年生までに残りの単位を取得するようです」
 わかりやすい! 私は感激して、
「わッかりました。ありがとうございました」
私は天から神が舞い降りてきた気がして、飛び跳ねるようして寮に戻った。
 さっそく4階にある自分の部屋でカリキュラム作成の作業に戻った。2人部屋だったので一人になれることが多くありがたかった。もう一人の住人は4年生だった。
 私はさっそく計算をした。124単位から4年生で取る卒論の10単位を引くと114単位。残りの114単位を1授業の4単位で割ると授業数(コマ数)が28、5。28,5コマを残りの3年間で割ると9、5コマ。つまり1年間10コマ程度か、楽勝だぜ! などと思ったのがいけなかった。
 なんと2年生の終わりまで卒業に必要な単位の半分どころか三分の一にもいっていなかった。あまり大学に行っていなかったからだ。アルバイトや自主的な(好き勝手な)活動によって学生生活を送っていた。しかし自主性はあっても自律性が欠如していた。
 3年生になった私はただひたすら二宮尊徳のように教科書を目の前にかざして学業に励んだ。麻雀牌や酒の瓶、ましてや女子大生たちからひたすら目を逸らすことに励んだ。
 手にはペンを固く握り、一心不乱にレポートや卒論を書き続けた。苦手な語学のテストは、私より3つも年上で入学してきた語学に堪能な後輩(長期入院で何年か入学が遅れたが大学に入りたい一心で努力してきた尊敬すべき男)に平身低頭して教えを乞いクリアした(英語のテストのとき教室にはたまに私の影武者もいたらしい)。
 そして何とか卒業した。
 さまざまな危機を乗り越え、ようやく社会人になった。
実際は周りに助けられ、表面的に社会人になっただけだった。
 翌年、運よく静岡のS市の公立中学校の国語の非常勤講師の口があり勤めた。翌年、採用試験に合格し、偶然にも同じ中学校に勤務した。

9 野球部の顧問
 教員には日常の業務として、三つの柱がある。学業指導、生徒指導、部活動だ。他にも特別活動や事務処理など重要で大変な仕事はある。しかし先の三本柱がとても重要だと諸先輩から教えられ、励んできた。
 教科は国語だったが、部活動は野球部だった。
 野球をやるのは北海道にいた高校一年以来であった。監督なので自分でやるわけではないが守備練習ではノックがある。バッティング練習ではピッチャーも必要だ。まだ若かった私はノックにもピッチングにも精力的に取り組んだ。
 私はキャプテンだった中学時代の自分に戻った気がした。
 スター揃いの1級上の先輩たちが予想外の1回戦負けだったことは前述した。私たちが最上級生になったとき3年生はたった二人しかいなかった。
 スター学年には野球部員が多かった。そこにレギュラーになれない下級生教育係がいた。彼は自分の存在感を示すかのように、部活動での下級生の問題点を毎日飽きもせず、むしろ情熱を注ぐかのように説教? を続けた。そのせいで私たちが二人になったともいえた。
 卒業生たちが最後の部活動で、2年生の自分たちに声をかけてくれた。
 「お前ら二人しかいないけどめげずにがんばれ」。
 「俺たちみたいに変に期待されない方が力を出せるかもな」。
 「誰も優勝なんか期待してないから気楽にやれ」。
 励まされたのか、けなされたのか分からなかったが先輩たちのやさしい気づかいに感謝した。もともと優しい人たちだった。例の教育係の先輩は部活動に顔を出さなかった。
 二人しかいない自分たちはバッテリーを組んでいた。自分がキャプテンになったので、下級生への指導の時間はなくした。その時間はみんなで素振りした。
 もう一人の彼は4番で、エースだった。長身のサウスポーでコントロールもよく、クレバーだった。私は3番か5番を打っていた。
 私たちは点さえ取れれば守り切る自信はあった。だからみんなでひたすらバットを振った。
 雪解け道を必死に走り、しもやけの手でバットを振り続け、教室の前の長い廊下で彼はピッチングや牽制を、私はキャッチングとブロッキング、スローイングのフットワークを磨いて春を迎えた。
 春の大会では得点不足と下級生のエラーの連続で隣町のF中に1点差で負けて準優勝だった。
 だが確かな手ごたえはあった。

10 私の中体連
 わたしがキャプテンとなったY中学校の野球部は夏の大会でもある中体連を迎えた。
 北海道の夏休みは7月末ごろから始まる。7月25日の自分の誕生日に近かった気がする。
 私は何年も使い続けられてきたであろう手垢にまみれて黒く汚れたキャッチャーミットを携えて試合に臨んだ。
 そのキャッチャーミットはもうよれよれだった。1年生のとき、
「お前は不器用だけどまじめだからキャッチャーをやれ」
と当時の正捕手である3年生から譲り受けた。先輩もその上の先輩から受け継いだものだといった。
 キャッチャーミットを実際に手にしたのは初めてだった。元の色が分からなくなるほどいろいろな人の手垢とグランドの泥土とオイルのせいで、表から見ると大型の鳥類の頭の標本みたいに見えた。
 手に取って、友達とキャッチボールをしようと部室のドアに手を掛けた。すると先輩捕手が、いつもおっとりしているのに、まじめな目つきで
「いいか。普段のキャッチボールもそれを使うんだ。自分の手になじませろ。部室にあるオイルを持って行っていいから心を込めて磨け」
「はい」
 多少緊張して、返事した。声はかすれていたかもしれない。
 何人もの若者の体臭を浴びたミットは臭かった。練習後は石鹸を使わなければその匂いは取れなかった。
 それから私は家でも学校でも油を塗っては磨き、磨いては自分なりの型をつけようとお尻に敷いたり、紐で縛ったり、ミット以外は目に入らなかった。
 中体連ではめったに雨は降らなかった。北海道には梅雨がなかったからだ。
 予選では相手の失策や下級生の活躍で決勝まで順調に勝ち進んだ。わがチームはここまで無失点だった。
 そして決勝は春の大会で負けている隣町の難敵F中学校野球部だった。相手チームには右の本格派が2人いて、2人とも競うように球が速かった。決勝戦まで、やはり無失点だった。
 わがチームはサウスポーのエース一人しかいなかった。下級生に小学校でピッチャーの経験があった者が二人いた。しかし彼らは1番と2番で、サードとファーストのレギュラーだった。練習試合でもほとんど投げたことがなく、戦力としてあてにはできなかった。
 会場は春の大会と違って(春は自分たち中学校のグランドだった)、相手学校のグランドだった。
 クッションボールもライン際のボールの転がり方も分からない。ゴロの跳ね方にも気を遣わねばならなかった。
 試合はきっと一点差を争うに違いないと考えていた。一瞬のスキも許されないと思った。
 試合はF中先攻、U中後攻で始まった。案の定、中盤までは0対0の投手戦で進んだ。
 だが最終回、さすがにピッチャーも疲れたのかファーボールとバントで1死2塁の場面を迎えた。相手打者はカーブにタイミングが合っていなかったので、変化球でバッターを追い込み、アウトローのまっすぐで仕留めにかかった。だがちょこんとバットを出して、センター前に打ち返した。ついに1点を先取された。
 しかし相手は真っすぐを狙っているのが分かったので、外のまっすぐと変化球でカウントを整えつつ、勝負は今までとは逆に「インハイのボールでもいいから作戦」に切り替えた。後続のバッターはみな振り遅れて三振となった。
 1点差のまま、最後の攻撃を迎えた。
 相手ピッチャーは何としても抑えてやろうという闘志が表情に表れていた。
 私はこんなとき、漫画の星飛雄馬(注:「巨人の星」私が小学校高学年に夢中になったTVアニメです)のように目の中に炎が見えたら相手の心理が分かりやすいのにななどと下らないことを考えていた。
 キャッチャーというのはすぐに相手の心理を探りたがるポジションなのかもしれない。
 相手投手が投球練習を始めるとボールが力みのために勝手にあちこち行きだした。これはチャンスとばかりに、1番バッターで後輩のAを呼んで耳打ちした。
「相手は力んでいるから、始めは様子を見ろ。むりに打とうとするな。じっくりと行こう」
と告げた。
 1番のAは、足が速いがプルヒッターだった。そのせいでバットが遠回りし、真っすぐに詰まらされ、カーブで打ち取られていた。だが後輩の中ではいちばん運動神経がよく、足も速かった。
 案の定、先頭バッターが四球を選んだ。2番バッターがAをバントで送った。
 そして次の打者は私だった。

11 天国と地獄
 それまで私は相手ピッチャーの球速に押されて空振りばかりしていた。だが打席では不思議なことにいつものようにプレッシャーで膝が震えることはなかった。
 緊張するより、どのポイントでバットをボールにぶつけるか。そのためにはピッチャーのどの動作で左足を踏み出すか。ボールの中心を見ながら踏み出して、バットが出るまでに1秒程度か。正確には分からないから、投手の踏み出しに合わせて自分も踏み出そう、とかいろいろ考えていた。
 空振りだけは避けたいし、フライもまずい。振り遅れることだけは注意しないと。
 バットにボールを当てることに必死で、タイミングのことしか考えていなかった。
 まっすぐ一本に絞って、初球から狙った。ボールが上ずっているから上からたたくのだ。その方がバットも早く出るだろう。
 相手がセットポジションから投球動作に移り、ボールを投げるために左足を踏み出した。自分もそれに合わせて、右打者なので左足を踏み出し、バットをボールにぶつけた。
 するとやや詰まった感じがしたがしっかりボールにバットが当たった。
 軟球ではこの方がむしろ打球が伸びることを体感的に知っていたので、私はすぐに全速力で走った。前のランナーの姿はまったく目に入らなかった。ただ目の前のベースとコーチャーの姿だけを追った。2塁を回ると3塁コーチャーはグルグルと手を回していた。必死に3塁ベースをけって、ホームに頭から滑り込んだ。
「……、セェ-フ」
 主審の声が聞こえて我に返った。
 ホームベースから立ち上がるとベンチではみんなが万歳していた。
 振り遅れながらも芯にあたったボールは、外野の頭上を越えて転がり、ランニングホームランになった。これが決勝点となってU中が優勝した。
 思わず監督、チームメイトに感謝した。それに右中間がU中よりも広かったF中のグランドにも。
 キャプテンの自分が打ち、エースが抑えて優勝。これ以上はない結末だった。
 試合後の監督の言葉が心に沁みた。
「努力に勝る天才なし。三年生の地道な努力を下級生がよく支えた。みんな! ありがとう」
 夢のような地区大会が終わり、優勝旗を中学校に持ち帰り校長先生に報告をした。学校でも、町でもその朗報に沸いた。
 だがU町の炭鉱は、何年も前から、石油を中心としたエネルギー革命の波に大きく影響されて、回復できないほどの不況に陥り、閉山の危機を迎えていた。数年前には大きな爆発事故があり出炭を中止していた。
 八月に入ると東部地区大会がK市で行われた。A地区代表はわがU中学校野球部だった。

12 天国から地獄
 中学校からは、中体連で地区優勝を果たし東部大会に進出をした野球部にバットや野球道具が贈呈された。
 廃校の噂もあり、この後使うあてなどもないかも知れないのに、何かをせずにはいられなかったのかもしれない。それほど喜ばしい出来事だったのだろう。
 その中に真新しいキャッチャーミットもあった。野球雑誌やカタログでしか見たこともない美しいキャッチャーミットだった。
 全体が黄金色で、茶色の革ひもでポケットの部分やグローブのふちが覆われていた。革は厚くいいにおいがした。
 ところどころ破れ、泥だらけの薄汚れた足袋一足で地面を走っていたランナーが、急に厚底の高級ランニングシューズに履き替えてトラックを走るようで背中がムズムズした。
 新しいミットは革本来のいい匂いがした。ミットを外した後も、もう石鹸で手をこする必要はない。今まで新しいグローブを手にしたことのない私にも、それが新品の匂いだと分かった。
 今まで私が使っていたのは、こてこてに黒光りし、オイルと汗にまみれたキャッチャーミットだ。ところどころ裂け目があり、紐が切れる度に部室にあった古いグローブから抜き取ったいろいろな革紐で補強されたカラフルなキャッチャーミットだった。だが何よりも自分の手の一部のように馴染んでいたキャッチャーミットだった。労苦をともにした大切な相棒だった。
 しかし次の大会まで数日しかないので、必死に新しいグローブにオイルを塗って柔らかくした。ボールを挟み、どこへでも持ち歩き、とにかくパカパカと腹話術のパペット人形の口のようにミットを開閉させた。新しいミットに夢中だった。
 東部大会を目前に控え、しだいに野球部の緊張も高まっていた。学校から贈られた真新しいミットもその出番を待ちかねていた。
 当時のキャッチャーミットは丈夫が取り柄のような分厚い皮を使用し、ピストルの弾さえ弾くのではないかと思わせる頑丈な代物だった。多少は馴染んできたもののミットの芯で捕まえたボールはミットから跳ね返り、きれいに正面に飛び出した。
 当日はバスを借り切って1、2時間程度移動した。遠足以外で、これだけ長距離を移動するのは初めてだった。
 夢見心地で迎えた本番の大会でもエースの速球は冴え、バッタバッタと三振の山を築いた。だが、ときどきボールがミットから飛び出そうとするので、キャッチと同時に右手を被せなくてはならなかった。若い弾力のある厚い肌は何と罪なことだろう。
 試合は地区の決勝戦と同じで投手戦となった。0対0のままついに延長戦に突入した。
 延長十回表、相手K市代表の北中の攻撃が始まった。さすが開催地の代表だけあって、相手チームにはつけ入る隙がなかった。
 先頭バッターがボテボテの内野安打で出塁した。思わぬピンチを迎えたが、内野ゴロ二つで何とかツーアウトまでこぎつけた。しかしランナーは思い切りのいい走塁で三塁まで進んでいた。
 当たりそこねでもヒットになれば失点する。そこで私は地区大会決勝を思い出し、例の「インハイのボールでもいいから作戦」で三振を狙った。
 ピッチャーはわたしのサインにうなずき、インコースに迷いのない速球を投げ込み、見事空振り三振を取った。
 しかし、あろうことかボールがミットの芯に当たり、ピッチャー前に跳ね返ったのである。
 バッターは目の前に転がるボールを見て、何が起きたのか分からず驚いたように一塁に走り出した。ツーアウトなので三塁ランナーは既にホームに滑り込んでいた。
 わたしははっとしてボールを追いかけ一塁に送球した。だが間に合わず、それが決勝点となってしまった。
 裏の攻撃は地区大会のときのように逆転することができなかった。人生そんなに甘くない。
 キャプテンである自分のせいで負けてしまった。悔やんでも悔やみきれない。ボールを後ろに逸らすことはなかったが前にはじくエラーを冒すとはなんということだろう。
 天国から地獄とはこのことだ。大会の後、真新しいミットは後輩に譲り、二度と自分の手にはめることはなかった。

13 姉の死
 母と兄夫婦に続いて、上の姉夫婦が墓前に手を合わせた。
 線香の煙は幾筋もの川を描き、生き物のように形を変え、天に向かって伸びていった。
 次に私たち夫婦がお参りし、その後は孫たちが倣った。
 私は父とともに下の姉の冥福も祈った。
 今日は父の命日であったが、27歳の若さで夭折した下の姉の墓参りも兼ねていた。
 30年前に家族と分かれ、たった一人残った北海道の札幌で、家族のだれにも看取られずに亡くなっていた。
 成績優秀な姉はプログラマーとして就職した。当時聞きなれないその名前が何をするのか私には分からなかった。だがそのネーミングがモダンで、友だちに自慢するように言いふらした。
 札幌に出て行ってから姉とはあまり逢うことがなかった。私たちの住んでいたU町と姉のいた札幌は、たやすく行き来できるほど近くはなかった。
 姉が就職してから六年後、六つ下の弟の私が大学へ行きたいと言い出したとき、真っ先に賛成してくれたのは姉だった。入学の足しにしなさいと小遣いまでくれた。
 しかし皮肉なことに、いちばん伝えたかったその姉にだけ、私の大学卒業も、就職が決まったことも伝えることができなかった。
 姉は愛してはいけない男と出会い、自殺した彼の後を追って命を絶ったのだった。
 姉の葬式のとき、いつも静かで感情を表に出さなかった父が、お通夜が終わったその夜に何かを思い出したかのように突然号泣した。
 家族は父が声を上げて泣くのを初めて目にした。そのせいか今でも記憶に鮮明である。父は大学にも行かせてやることができず、たった一人で逝ってしまった娘が不憫でたまらなかったのだろう。
 私は最大の理解者を失って、ひどく落胆した。
 父の法要を終え、予約してあった精進料理の店に、みんなで向かった。母は父の墓参を終えてほっとしたのか、帰りの車の中で珍しくぽつりぽつり父について語りだした。
 父は北海道のK市生まれで、勉強がよくできた。だから貧しいながら尋常高等小学校まで進学させてもらった。その後、中学へは進学させてもらえなかったが、東京で宮大工も務めたことがある有名な棟梁のもとへ弟子として入った。
 毎日、毎日、サシガネなど手直にある大工道具で頭を小突かれ仕事を覚えたという。さすがにトンカチはなかったと笑いながら話した。
 その後、生まれた場所に戻って、母とお見合いをして一緒になったらしい。結婚のことは詳しく話さなかった。恥ずかしかったようだ。
 やがて兄の家族を乗せた車と姉夫婦と私の息子たちを乗せた車、そして母を乗せた私たち夫婦の3台の車は予約してあった店に到着した。
 店は切妻屋根で、朱色の土壁に覆われた落ち着いた雰囲気だった。ところどころレトロな調度品を用いて、古民家風にアレンジしてあった。
 私たちは二階の和室に通された。そこでやっとめいめいがくつろいだ格好になった。
 兄夫婦と上の姉夫婦はもうリタイヤしていたせいか、孫の話題で盛り上がっていた。しかし料理が運ばれてくるととたんに言葉が少なくなった。
 孫がいない私に気を遣って姉が近況を尋ねた。そこで私は昨年野球部の監督をしていて初めて全国大会に出場した話をした。私は優秀な選手たちに恵まれ、中体連で県大会や東海大会で優勝し、全国大会に出場したのだった。

14 初の全国大会出場
 N町の少年団3チームのエースで4番と隣町の県内屈指のサウスポーが集まったチームは誰がやっても勝てただろう。
 さらにN町の役場には、夏の高校野球大会で県の決勝まで一人で投げ抜いたという伝説の職員がいた。残念ながらあと一歩で甲子園の切符をつかめなかった。だがこの経験こそ貴重な財産だと私は思った。
 すぐに私は校長を通じて、役場に彼のコーチを依頼した。
 はじめ彼は、教える自信がないと断った。なんと謙虚であろう。謙虚な分、でしゃばることもない。
「そんなことは教えてみないとわからない」
「俺がいろいろサポートするから」
などと甘言をささやいて私は必死に説得した。その甲斐あって承諾を得た。 
 彼がピッチングコーチを務めてくれたおかげで、私は攻撃面や試合での作戦に専念できた。これほど楽しいことはなかった。周囲は「勝って当たり前のプレッシャー」を心配してくれたが、そんなものはほとんどなかった。
 それがあったといえばいえるのは、全国大会出場をかけた最後の関門、ブロック大会の準決勝の試合だった。
 最終回1点差で負けていた。自分の中体連の地区大会や東部大会と同じだ。地区大会のように逆転できるか、東部大会のように負けるのか。私の口はカラカラに乾き、心臓はバクバク踊っていた。この緊張感がたまらない。選手たちも始めのうちはロボット野球少年団のように固かった。
 だが相手のピッチングの意図が見え、選手たちも球筋を見切り始めた。
 四球とヒットで1アウト2、3塁のチャンスを作った。ここで私は相手投手のコントロールに掛けた。バッティングカウントでエンドランをしかけたのだ。何度もこんなピンチを勝ち抜いてきた強者だ。ストライクをしっかり取るだろうと思った。投球はアウトコースの真っ直ぐだった。読み通りの配給だ。
 バッターはエンドランなので空振りはできない。だからボールを引き付け、逆方向へ思い切り叩いた。高く跳ねたボールは1、2塁間を抜けた。逆転サヨナラ勝ちだった。
 ついに念願の全国大会出場を果たした。午後に行われた決勝は全国大会出場の呪縛の鎧が解けたのか猛打爆発である。コールド勝ちを納めた。
 私はみんなが食事を終えるまで夢中になって全国大会のダイジェスト版を話していた。
 すると姉は妙なことを言った。
「あなたの中体連のときと同じね」
「えェッ」
と思った。
 なぜ姉は私の中体連の試合のことを知っているのだろう。
「なんで知ってるの」
「あのとき試合場が遠くて見に行けないから、みんなでラジオを聴いていたのよ。ねえ母さん」
 姉が母の方を向くと母が黙ってうなずいた。兄も一緒にうなずいていた。
 私の中体連の試合がラジオで放送されていたのだ。私は30年以上経って初めて知った。

15 父のキャッチャーミット
 孫たちはさっさと食事を終えて外で遊んでいた。姉の旦那も
「景色を見てくる」
といって、子供たちの後を追った。私たち家族に気を遣っていたのかもしれない。
 高齢の母を一人にできないので、兄夫婦と姉と私たち夫婦は残っていた。
 母は思い出したように、
「父さんも昔、高等科で野球をやっていたんだよ」
といった。続けて兄も、
「そういえば俺が小学生のとき、たまにキャッチボールをしてくれたなあ」
といった。
 なんだ、なんだ、この新情報は。私の頭は混乱し始めた。
 病気と戦っていた父の姿しか見ていない私には想像もつかなかった。テレビで大相撲とプロレスを、体を戦慄かせながら見ていた父しか知らない。そんな父が野球をやっていたとはとても信じられなかった。
「結婚したときに父さんが持ってきたものは大工道具一式と固い布でできた大きな手袋みたいなグローブだけだったよ」
と母が懐かしそうにいった。
 すると兄も姉も、
「布製のグローブなんて知らない」
と不思議そうにいった。
 母は、グローブを買って与えてあげられない祖母が、綿の生地を何重にも縫って、その中に古くなった綿や布の余りを詰め込んで、懸命に作ったものらしい、それは父にとっては母の形見でもあったのだろうといった。
 「でも邪魔だから捨てっちゃったよ」
と明るく笑いながら、母は残酷なことをさりげなくいった。やっぱり母は母だ。あっけらかんとしている。
 父が野球をやっていたことも、私と同じキャッチャーだったことも、今の今まで知らなかった。
 父は私が中学で野球をやっているときも、地区優勝した時も、何も言わなかった。もちろん試合を見に来たことなど、一度もなかった。当時はそれが当たり前だった。
 私の中体連があった日、家族みんなで地元局のラジオの中継を聴いて、応援してくれていたのだと知ると私は何ともいえない気持ちになった。
 尋常高等小学校を卒業し、単身で弟子入りし、大工として修行を積んでいた父が肌身離さず大切に持っていたキャッチャーミットには、祖母のどんな愛情が込められていたのだろうか。また父のどんな青春の一コマがつまっていたのだろうか。 
 私が通った中学校が地区優勝を果たした翌年にY炭鉱は閉山した。それからまもなく家族は寒さの厳しい北海道から、気候の温暖な静岡に移り住んだ。
 中学の時、私のミットからは勝利の女神がするりと抜けていったと思った。だがそこには父の青春を謳歌できなかった記憶も夢もあったのだろう。
 私の家族がラジオで静かに聴いていた北国の短い夏の大会が、わが中学野球部の最後の試合となった。
 父と姉の墓参りを終えた私たちは、富士の麓にある霊園を背に自宅に向かった。
 私の胸は涙であふれていた。


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