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ルックバックは「描く苦悩」の話ではない。

ルックバック、みなさんは見ただろうか。

見ていない方に1つ言っておきたいことがある。

ルックバックはクリエイターのトラウマを刺激しない作りになっていると思う。

もし、ルックバックが、漫画を描くことを何らかの理由で挫折したとか、絵を描くことが辛いとか、そういう辛い気持ちを増長させる作品かもと不安になっている人は逆に是非見にいってほしい。

絶対にこれを見ると漫画を描きたくなるから。

ルックバックのようないわゆる「漫画家を題材にしたマンガ」など、クリエイターを題材にした漫画は多々あると思うんだけど、その中でもルックバックは見ていて苦しくならない方だと思う。

個人的な話になるが、こういう題材だと「ブルーピリオド」は結構心に来る。

もちろんブルーピリオドは「描く苦悩」に焦点を当てているから絵をなんらかの形で描いている人にとって、絶対にどこかしらのトラウマに塩を塗りたくってくるのは当たり前だ。それでも面白いから悔しい。

でもルックバックが1番伝えたいことは、「漫画を描く苦悩」ではないのだ。

だから、安心して見にいってほしいし、むしろ今絵で辛い人に見にいってほしい。

ここからはネタバレを容赦なく交えて話をしていくのでまだ見にいっていない人は記事を閉じてほしい。

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話が変わって、このアカウントではこの記事が初投稿だ。
これからアニメや漫画のことの感想だかあれそれ投稿していこうと思うのだが、ルックバックは初投稿に相応しい傑作だった。

自分はファイアパンチを見れていないという欠点を除くと、藤本タツキのファンを名乗っていいと思っている。
チェンソーマンと、さよなら絵梨と、17-21と、22-26と、艦蹴りと、ムリゲーと、テッテレポサンヌと、フツーに聞いてくれと、あと他の「長門は俺」名義で上がっている漫画もほぼ全部読んだ。もちろんルックバックも読んだ。

なぜファイアパンチを見れていないかわからないくらいには藤本タツキに執着を見せている。

少し前に「私、藤本タツキくんと高校の頃同級生で、昔よく一緒に遊んだよね」みたいなすごい文章をネットで見つけた時には「生まれ変わったら藤本タツキの同級生になりたい」と思っていた私はそれが嘘だかなんだか疑う前に純粋に「いいな〜!!」と心の底から羨ましがった。(結局は全てフィクションだったのだが)

そんな藤本タツキファン待望の初藤本映画がルックバックである。
心の奥底から歓喜だ。しかも数多のタツキマンガを読んできた私の中でタツキとのファーストコンタクト作品が「ルックバック」である。チェンソーマンではなかったのだ。

もうそれは見に行く前からワックワクだった。私の生活はハッピーで埋め尽くされていた。

そして念願の映画館にいざ行ってさぁ始まったぞ藤本タツキのルックバックが。開始5秒で泣いてしまった。それほどまでに心にぶつかる映画だったのだ。

そこからは全てのシーンで泣いたり笑ったりしていたと思う。
藤野の4コマが映画のスクリーンで動き、「やったね藤野先生アニメ化じゃん!」などと考え、藤野の京本の絵を見たときの反応に笑い、京本の明らかに人と普段話していないのだろうという喋り方に感激し、そして漫画では音がないから直に感じづらかった山形の訛りに感激し、藤野の嬉しくてたまらないスキップで一緒に嬉しい気持ちになり、帰宅後すぐに漫画を描き始める藤野にネームを正月でもいつでもほぼ毎日編集に送った(とあるインタビューより)藤本タツキを連想しひとりでにニヤけ、そこから仲を深めていく藤野と京本に微笑ましさを覚え、描き終わらないね、と話す姿に共感し、東京に飛び持ち込みをしに行く2人を見てすごいなぁと思い、大雪の中2人でジャンプを小さなコンビニへ買いに行く2人を見て、そして賞を受賞した2人を見て、あぁ、すごいなぁとため息を吐く。

そこから藤野にとって京本と一緒に見るもの全てが、漫画の糧になっていった。
そして、京本に描いた漫画を藤野はいつだって見せていた。

「往生際の意味を知れ!」という漫画を描いている米代恭を思い出した。彼女も「セブンルール」という番組で、「担当編集に喜んでもらいたくて漫画を描いている」と語っていた。ただ、あくまでも彼女はそれを「仕事の上での関係」と捉えていたから、藤野と京本はもっと深い、友情も含まれていたと思う。

そして2人は違う道を歩むことになる。藤野は漫画家に、京本は美大へと。
ここで「リズと青い鳥」を思い出し、また「そういうえばタツキは京アニ好きだったな」とか思ってしまった。こういう風に私は作者と漫画を結びつけてみてしまう。

「私といれば全部上手くいくんだよ!」

藤野のこの、ストレートに「一緒に漫画描いてよ!」と言わないところがキャラをよく表している。

「でも、絵、もっと上手くなりたいんだもん…」

これは、藤野の漫画に出会う前の京本では出てこないセリフだ。
藤野の漫画に触発されて、もっともっと絵が上手くなりたいと思う京本と
京本の絵に触発されて、もっともっと絵を上手くならなきゃと危機感を覚える藤野。
この関係性が、きっとルックバックの1番描きたいところなのだ。

漫画家になった藤野、美大に通う京本。

藤野のアシスタントについての話し合いでイライラしているシーン、多分頭の中ではずっと「京本だったら良いアシスタントになってくれるのに」と思っているのだろう。あと、この電話に表記された編集の名前が平林で「これは藤本タツキの担当編集の林士平からか?」などとまた考える。

そしてその時はやってくる。

一瞬の沈黙。
藤野の焦ったような足取りでウロウロする描写力の高さ。
そして知らされる、京本の死。

初めて映画でルックバックを見た人は、この展開をどう思ったのだろうか。

京本の家に行く藤野。
そこで呟く。

「なんで私描いてるんだろう…」

創作ってやっぱり誰かがいないと成立しないもので、そこに否定的な意見も肯定的な意見も、まぁまぁって曖昧な意見も全部が入り混じってる。そんな中で、自分の作品をずっと側で肯定してくれた、彼女はもういない。

ここから藤野のもしものストーリーが展開していくのだが、ここで何より嬉しいのが、藤野が素直に京本に「アシスタントしてね!!」ってお願いするシーンが見られるところだ。きっと、藤野は京本とまた一緒に漫画を描きたかったはずなのだ。

そしてパラレルワールドから飛んできた京本の4コマ。それは、藤野が4コマ漫画で京本を救ったように、藤野は今度は京本に救われたのだ。

京本の部屋にあったはんてんの後ろのデカデカとしたサイン。
「ルックバック」
背中を見て

卒業証書を置いて出ていく藤野の背中を追いかけた京本、京本の背中を追いかけて絵を描いた藤野。

「ルックバック」、このタイトルに全てが詰まっている。

そして、藤野はまた漫画を描き始める。京本という原点を永遠に忘れないようにして。

入場者特典としてルックバックのネームが配られたが、それを読んで私は「長門は俺」時代の筆致を感じた。

藤本タツキにとって、このルックバックは「原点回帰」という意味合いを込めた漫画だと思う。

そして、絵を描く人はこの誰もが通る原点を思い返して、「あぁ、描こう」とまた筆を取るのだ。





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