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在学中のもう一つの旅~フィリピンへの旅(1)~

 前回のヨーロッパへの旅は、4年生になる前に10か国を40日で駆け巡る慌ただしい日程だったので、次はテーマを決めて旅に出たいと考えていた。
1986年、テレビや新聞ではフィリピン大統領選にともなうマルコス政権の行方が注目されていた。それまでフィリピンについて全く知らなかったが、マルコス対民衆の対立構図の中、現地はどのような状況にあるのか実際の眼で確かめたいと思った。

 図書館で英字週刊誌『ASIA WEEK』を読んでいると、小さな囲み記事に目が留まった。それは16歳の少女が亡くなり、フィリピン国民がその死を悼んでいるという内容だった。彼女の名前はJulie Vega、歌やドラマなどで国民的に人気の子役だった。その頃、フィリピンをまともに扱った旅行ガイドブックはなく、数少ない情報を頼りに旅を計画した。格安航空券店で航空券を購入した際、「学生がなぜフィリピンに?」と不思議がられ、「治安が良くないので十分に注意を」とのアドバイスを受けた。

 卒業まで残り3か月を切った1月上旬、伊丹空港からタイ国際航空でマニラへと飛び立った。隣の席は50歳くらいの西宮の男性で、貿易の仕事で頻繁にマニラを訪れているという。現地の情報をいろいろと教えてくれたが、着陸直前になって「危ないから市内まで送ろう」と同じタクシーに乗せてくれ、中心部の高級ホテルでランチまでご馳走になった。

マニラのユースホステルにて

 その後、私は宿泊先のユースホステルへ向かった。同世代の若者がほとんどで、声をかけると自然と快く会話ができた。ドイツ人が多く、これから行くルソン島北部について尋ねると、地図を書いて親切にアドバイスをくれた。さて一歩外に出ると、スコール後の熱気で暑さもピーク。ジプニーと呼ばれるジープを改造した乗合車が大きな音を出して行き交い、喧騒そのものだった。観光スポットをまわり、大きな教会近くを通りかかったとき、大勢集まっていたので、いったい何かと近くの人に尋ねるとprocession だと言う。どうやら宗教的なお祭りの行列のようだった。

マニラ市内のキアポ地区にて

 そのとき、20代後半の男女に声をかけられた。「もしよかったお茶でも」と家に誘ってくれた。案内された家はいたってシンプルで、「汗もかいたでしょう」とタオルで身体を拭いてくれるという。荷物を置いて隣の部屋に移動し、横になってフィリピン大統領選などについてやり取りした。マニラの後はバギオに行く予定だと伝えると、宿を紹介するからとメモに書いて渡してくれた。「サラマット!」と覚えたてのタガログ語で感謝を伝え、別れを惜しんだ。ユースホステルに戻り、さてカバンを開けてみると、いくつかの品物が抜き取られていた。そういうことだったのか、改めて自分の愚かさと無防備さに気づく始末だった。

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