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『蜘蛛』を読んだよ。

本当は読んだことを記事にするつもりはなかった。
書くのが難しい。何を書いても幼く、予想の範疇、持たないオタク側すぎるから。「文体に影響を受けてる」と予防線を張ってから言うと、多分目が滑りまくる文章になる。

でも蜘蛛を読み終わり、新たに別の本を読もうとして、これはあまりに消費がすぎると感じて文字にしようと思った。多量の供給がある現代だからこそ、雑に消費を繰り返すオタクにだけはなりたくない。


というわけでにゃるら氏の『蜘蛛』を読みました。
「ニディガとはあまり関係なく、まぁあったとしてもてんちゃんがインターネットの天使としてちょこっとゲスト出演するくらいかな?」と予想していたら、帯の時点であめちゃんが登場してビックリ。

いままで見たことない、「一般のオタク」から見たあめちゃんの姿。
あめちゃんの苦悩や不安定さを知らず、表の情報だけで勝手なイメージを作る。
私は読みながら光景を想像する人間なので、圧倒的顔の良さで動くあめちゃんを空想するのは楽しかった。メリーゴーランドを見つめるあめちゃん、礼拝堂に指を指して天使を説くあめちゃん、魅了されるのもわけないし実際された。

本編だが、まずかなちゃんが現状の自分すぎて笑った。途中からを笑い超えて何か得体のしれない感情のまま読んでいた。口角はあがったままだが笑いとは言い切れない、そんな微妙な顔をし続けていたと思う。

何者かになりたいと願い、内心なれないことはないだろうという思いを抱えながら、いざその何者かと接すると弱腰で完全にモブAであることを自覚する。
知人(友達とは呼ばない)の言葉を受け、別に言われてもない言葉の裏を想像し勝手に傷ついたり、冷笑したりする。こいつらクソすぎると言うかなちゃんに(でもそんな君が一番くそなんだよねぇ!!)と予知共感し、まさに無産一般アニメアイコンだった。

だから、毒かわ二次元スパイダーちゃんとしての活動を開始して終わったのは意外だった。腐って終わる、または安定して終わるものだと思っていたから。

まぁ蜘蛛に美しさを見て飼えるような感性を持つ人間は、もともとそちら側に半身ほど浸かっていたのかもしれないが。(これは私視点)
それでもあめちゃんに言われた通り、1を成すため全てを切り捨てるが実行できたのはすごいと思った。私は親には結構支えられ(母子家庭ではあるが)、大切にされていることを改めて思い出し、安定進路で就活するべきなのだろうなとか考えてたので。

それだけあめちゃんという存在は刺激的で、一時的にでも自分を騙せてしまっただけなのかもしれない。けど割れたガラスを超えていくところまでは完全に近かった共感も、あんな静かで強烈な別れの後に独立したかなちゃんには及ばなかった。

その理由を、ガラスを超えた先のかなちゃんは以前までの一般アニメアイコンのままでなく、進路を自己決定し始めたオタクになっているからだと考えている。いまだ迷走を極めている自分では、感じ入ることができない。
5年後この本を読み直した時、自分は共感か羨望のどちらに振れるのか若干の興味がある。
「興味がある」とか他人事に書いたが、自分で決断を下さなくてはならない自分事だ。


ここまで明確に迷走中のオタクを描けるにゃるら氏は、きっと似たような時期があったのだろうとか思った。でもこんなにそっくりな思想が本のキャラクターに収まるのなら、私が普段必死に悩んでいることも独自の個性から発したものなどでは全く無く、過去多くの人間が通ってきた道の一つに過ぎないことを教え込まれた気分だ。

私はこの本を完全に現実の自分から切り離したフィクション作品として読まなかったため照らし合わせるような感想を持ったが、ニディガというコンテンツの一部としてもこの本は楽しめると思った。

私は普通に、毒かわ二次元スパイダーちゃんというキャラクターが好きだ。
正史という概念があるのならばきっと二度と2人が交わることはないのだろう。でも数多あるENDの1つには、その大きく広がった蜘蛛の巣に、蝶がかかる未来があって欲しいと思った。その時はてんちゃんになんて言われるんだろう。

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