愛知県複合選抜制導入時の謎

1989年に導入されて以来30年以上、愛知県公立入試の独特な制度である複合選抜制だが、個人的にこの制度が導入された際に生じた現象にはいくつかの謎があるように思う。その明らかな正解は解明できないのではないかと思うが、個人的な仮説とともに紹介していきたい。

1. 千種高校の没落

前身の学校群制度が1973年に実施された際に、名古屋2群で旭丘高校志願の生徒を半分受け入れる学校という地位を得て以来、愛知県のトップ進学校の一角に成り上がって、その後学校群制度の実施された15年の間に名実ともに名古屋最強の進学校へと成長したのが千種高校である。しかし、千種高校は複合選抜開始によってものの見事にその地位を追われ、群を組んでいた旭丘高校はおろか、はるかに下の実績に落ち込んでいた明和高校にも追い抜かれ、気がつけば数年のうちに名古屋市内公立校5位にまで沈んでしまった。

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1992年に東大京大名大のいずれにおいても合格実績が低下している。その後名古屋大学については93年に盛り返すも、98年くらいまでかけて実績の低下が進んでいったように見える。

学校群制度の場合、群の受験生が機械的に半分に割られるので、ある程度説明が簡単にできる一方で、複合選抜の場合には自然な生徒の受験傾向の分析になるので実は難しい。ただ、複合選抜制度初年度入学者が卒業した92年度の段階で、東大や京大といった難関大学に合格できる受験生が半減しており、評価は難しいが、学校群制度での名古屋第2群に相当する水準の生徒の引き留めには失敗していることが見て取れる。では、なぜ失敗したのだろうか。また、千種高校が上位進学校として生き残る道はなかったのだろうか。

これに対する明確な答えはないが、92年度の段階では前年度の半数程度の合格者数が東大京大名大のいずれにもあることや、93年度には名古屋大学の合格者数がやや増加したことが一つのヒントではないかと思うに至った。すなわち、89年の複合選抜制度初年度の段階では、まだ名古屋2群レベルの受験生がある程度残っていたのではないか。どのような受験傾向になるのかはわからないので、千種高校が一定の地位を保てるという予想をしている生徒や教師が少なからずおり、そこで入学した成績優秀者が92年の実績を作ったのではないだろうか、という考えである。

もし仮にそうだとすれば、名古屋2群の生徒を旭丘が完璧に吸い上げ切ったのではなく、少なくとも1年目の段階では一定の争いがあって、何らかの理由で不利だった千種が負けた、と考えることができる。さらにもし争いがあったというのであれば、地理的な条件で弱い千種が負けたんじゃないか?というのが私の意見である。すなわち、千種高校は名古屋市でも東端にあり、それより東側は当時は今以上に交通網も貧弱で、人口も少ないため、より広域から受験生を集めなくては成り立たない超進学校としての地位を保つのは、旭丘高校に比べて交通面からして不利なのである。それでも十分通いやすい地域もあり、お膝元の名古屋市東部は進学校が育ちやすい土壌がある。だから、初年度は千種に賭けた受験生がいたのだが、彼らだけでは千種高校の定員を埋めることは当然できなかったことで、学力面で及ばない受験生で穴埋めをせざるを得ず、それによって受験ボーダーが下がったことで、翌年以降「超進学校ではなくなった」という認識が徐々に広がっていき、その結果として本当に上位の受験生が来なくなってしまったということなのではないだろうか。

2. 名古屋市内公立校の90年代

千種高校の没落と同様に、学校群で地位を上げたものの、没落した学校は数多くある。例えば中村高校である。

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中村高校は明和高校と名古屋6群を組んだことで地位を上げたのだが、中村高校も同様に地位を落としている。しかし、千種高校や中村高校が没落した一方で地位を向上させた学校は実はそれほどない。学校群で勢いを削がれた学校が復活するように思われるかもしれないが、旭丘高校も復活したとは言えない。一応、京都大学の実績はやや復活したようには見えるが、それほど冴えるものではない。

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もっとも復活したように見えるのは明和高校だが、明和高校とて、以前の名古屋大学の合格者数の勢いを取り戻してはいないのである。

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東大と京大で傾向が異なることもあって、東大と京大についての合格者数を旭丘と千種の2校分を合計した数が学校群前最終年の1975年から2000年までその推移を調べてみた。

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結果を言えば、学校群の最初の数年は旭丘が群以前に挙げていた90名前後の実績をキープし、その後千種の成長とともに80年台に増加し、80年台はダブル合格可能年前後の複雑な挙動を除けば、100から110付近で推移していた。それが学校群廃止前後から低落を始め、2000年ごろには60付近まで低迷してしまった。

結果から言えば、学校群廃止直前からなぜか実績が下がり、複合選抜の初期といえる90年台前半は80前後、一巡した95年以降はさらに下がって70前後というところで推移するようになる。複合選抜が直接的な原因とは言えなさそうだが、旭丘がお世辞にも学校群時代の千種の地位を吸収しきれたとは言えない状況なのである。

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東大と京大の合格実績を旭丘、千種、明和の3校について合算してみたところ上の図のようになる。学校群開始時に一度下がるものの、千種の伸びが効いて80年代は高い水準をキープした。また、複合選抜制度初期は93年や95年にこの期間の平均を超えていた。このことから、東大や京大の合格者数として表現されるような意味での千種高校の地位の低下は、少なくとも複合選抜制度初期の時期には、旭丘と明和によって吸収されたと推測される。もっとも、それ以降は平均値の110に到達できておらず、流出が発生していた可能性がある。(実際、郊外の一宮高校の伸びがこの時期に見られるようになる)

したがって、名古屋2群の受験者は旭丘に一本化されたとみるべきではなく、2〜3年かけて、千種の持ち分が旭丘と明和で折半されたとでも見るべきだろう。だとすれば、複合選抜制度の議論でよく言われる、「明和を復活させ、また、同時に旭丘を牽制して一校だけ突出した状態にしない」という目標をうまい具合に実現させたことになる。だが果たして、そんなうまいことを最初から狙い通りにできるものなのだろうか?これは大きな謎である。

3. なぜ明和高校は復活できたのか?

学校群時代、千種、旭丘のみならず、菊里、中村にまで後塵を拝した明和高校がなぜ復活できたのだろうか?学校群時代は15年も継続され、15年前の中学生は30の大人になっているという時期に、そんな昔を取り戻そうとして果たして取り戻せるものなのだろうか?

この疑問はやっぱり完全には解決できないのだと思う。千種高校の没落で紹介した通りに、複合選抜初年度から名古屋2群の受験生の7割くらいは旭丘が取ったのだろうが、千種が保持していた分があったとしてもおかしくない数値があることも示した。弱体化した明和高校で持ち堪えられる保証が果たしてどこにあったのだろうか。

ただ、いくつかやはり考えられる理由はある。

i. 名古屋6群は安定的に成績上位層を集めており、群時代終末期でも有力校の一角から脱落したわけではなかった。

ii. もともと好立地であり、市東端の千種や菊里よりも広範囲からの生徒集めに優位であった。

iii. (複合選抜制度で旭丘や千種には不可能な、旭野、五条、瑞陵、桜台と併願できるようにしたことで)郊外の上位成績の受験生を集まりやすくした。

iv. 名古屋1群の受験生にとって構成校である千種や菊里である必要性がない。

まず、iから説明するが、確かに東大京大の合格者数は半分以下に減ってしまい、中村高校の後塵を拝する水準にまで低迷してしまったが、東大と京大の合格者をいずれかについては絶やすことなく出し続けた他、名古屋大学についても毎年40-50人程度は維持し続けていた。この数字は現在の菊里高校と同程度であり、多くの受験生からすれば十分高い地位である。

次に、iiの点だが、名鉄瀬戸線東大手駅から徒歩3分、地下鉄市役所駅から徒歩8分という駅からの近さや、そもそも名古屋市中心部にして最高級住宅街白壁にあるという立地のよさは旭丘と比しても優れている。遠方からの生徒を集めるという観点では名鉄瀬戸線や地下鉄という性質上、大曽根駅からJR中央線を使える点でやや旭丘に劣る部分もあるが、地下鉄名城線は金山駅で郊外路線と接続しており、郊外からのアクセスは不可能ではない学校である。

そして、iiiは、i、iiとの兼ね合いもあるのだが、学校群最末期の明和高校の置かれた立場から見てもギリギリ地位的には低い旭野、瑞陵、桜台は複合選抜の性質上明和の滑り止めの位置に行くことが確定的である。旭野は尾張旭市にあり、瀬戸線沿線の受験生にとって手頃な滑り止め校として機能する。瀬戸線沿線民の場合、千種や菊里に行くには一旦大曽根に出て中央線で千種に行き、東山線で東に移動するという複雑な移動を強いられるため、旭野を滑り止めにできる明和は(一応瀬戸線沿線にある)旭丘と比較しても受験しやすい学校になる。瑞陵や桜台は南方に名鉄本線の沿線にあるが、周辺は住宅街として整備が進んでおり、この地域の住民の志望先の一校とすることができる。

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これらの条件を考えても明和が千種を上回る保証は当然ないわけだが、千種や菊里を支えていた偏差値ナンバーツーの名古屋1群の受験者にとっては千種や菊里というのはそれほどこだわりがないと考えられる点も効いているだろう。というのも、名古屋1群が上位群になっているのは名古屋2群構成校である千種の裏口であることと、群制度の下ではもっとも構成校間の距離が近く、同じ鉄道路線の隣の駅が最寄駅というような点が利点となり得たが、学校群がなくなればもはやただの名古屋市の東の端っこの近いところにある2校に過ぎない。旭丘でも千種でもトップ校に比較的低リスクで入れる可能性のある受験の選択肢を用意しておけば、名古屋1群は崩れる。そこに来ての複合選抜であり、旭丘-菊里や、明和-千種は名古屋1群が果たしていた機能を持ち、千種第一志望になりがちな名古屋1群受験生を分散させることができたのではないか。無論、明和-千種ではなく千種-明和という受験が生じない保証はないのだけれども、成績上位者だけで千種の定員が埋まらないように持ち込み、89年の初年度でも、入試のボーダーラインだけでも明和が上になるようにできた、というのが真相ではないか。

実際、東大京大の合格実績は92年時点では千種を抜かせなかった。とはいえ、かなり近い水準まで持ち上げることに成功し、93年には東大京大でも名古屋大学でも千種を上回ったのである。

学校群からの復活は地方では標準的で、愛知県でも一宮、岡崎、刈谷、時習館の4校は群終了で復活するが、都市部では復活失敗例も少なくない。東京都の場合学校群制度廃止後により深刻な都立離れが生じており、愛知県でも名古屋西高校のような例を見れば、学校群制度終了後ますますレベルが低下してしまった場合があることがわかる。明和高校の復活事例は数少ない都市部での事例であり、しかも旭丘に比べて低迷が激しいだけに復活できない可能性も少なからずあったと考えられる。

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