Regalia感想

標題の通り。
今更だけどRebellion前に自分がぐちぐち考えてきたことを整理したくなったよねっていうだけ。

Regaliaを通じて見えたもの

始めに

 あんまりそういう語り口を見ないけど、端的に言うならシークフェルト音楽学院中等部の物語は今までのスタァライトとは違う描き方をするぞっていうこの上なく明確な宣言だったと思ってる
 少なくとも聖翔音楽学園の、愛城華恋の物語とはまるで違う

メタフィクション的な話

 それはメタ的なところを浚うだけでも見て取れる。もちろんそれはこの記事の本質ではないのだけれど、メタ的な話と解釈的な話を行ったり来たりしていると往々にして醒めてしまうので先にメタ的な話を終わらせてしまいたい。
 一番わかりやすいところで言うと、スタート時点のメンバー構成。
 一言で言うなら、今の中等部に三森さんほどのアイコンっているっけ?っていう問いかけ。
 だって響が、あるいはブシロードが抱えている一番集客力のあるキャストって今も昔も三森さんでしょ?
 ブシロード作品だけじゃなく、いわゆる「一般的な」アニメーション作品でも引っ張りだこの三森さんを引っ張ってきた時点で、スタァライトって内容云々と関係なくキャストの力で集客をする方針だったのは間違いないと思っている。
 もちろん三森さんだけじゃなくて、セラミュで実績のある小山さんがセンター。舞台方面――その中でも2.5次元的(この言葉を使うとテニミュ等の女性向けのニュアンスが出ると思っていたりする)な、オタクコンテンツとの隣接領域――だと他には富田さんも改めて実績を語るまでもない。
 アニメ方面に目を向けるならブシロード周辺コンテンツですでにかなりの集客実績がある響声優である相羽さん・伊藤さん。すこし時期の認識が間違ってるかもしれないけど、それぞれすでにバンドリの主要メインキャストとしての地位を築いていたはず。
 ラブライブで、主人公グループではなかったけどすごく重要な役どころを演じていた佐藤さんをどう位置づけるかは難しいけど、スタァライト九九組の少なくとも半分は出演しているという事実だけで客を呼べるキャストで構成されていたと思っている。
 個々人の持つ歌・ダンス・殺陣・芝居の要素が舞台として昇華されたことで、「スタァライト、なんだかよくわからんがすごいものを見られるぞ!!」という感覚を喚起するよねというニュアンスで、九九組の ♯1は物語として純粋に評価したときに一発で腑に落ちて楽しめる物語ではなかったと評価している。
 そして「なんだかよくわからんがすごそうだ」となった時に次の展開――すなわちテレビアニメへの興味を持続させる要素として「キャストも出てるし」という演者のオタクが一定層確保されていたという要素は極めて大きかったのではないか、と個人的には思っている。
 じゃ、中等部は?
 公表時点での主な実績は大体こんな感じ。

  • 青木:なし

  • 松澤:子役時代に偏り直近目立ったものなし

  • 深川:D4DJ

  • 久家:セラミュ

  • 佐當:なし、脱サラ直後。

 三森さん並みに集客力ある人、誰かいる?
 たしかに佐當さんのスタァライトに憧れた舞台創造科が舞台少女を目指し、そしてその地位を射止めたという物語は確かにスタァライトのファンを引き付けるけど、それだけ。
 つまり端的に言うなら、中等部って「キャストがいるから」といって物語への妥協を許してくれる客が一定層存在すると見込むことが出来ない状況からのスタートでしょ。
 もちろん、九九組と違ってスタァライトというコンテンツによる下駄を履いた状態でのスタートであったこともまた事実。
 でもスタァライトのオタクって「生き恥晒すぐらいならさっさと自害してくれない?」っていう狩りのレヴューマインドの人、多くない?
 
スタァライトというコンテンツの下でスタートできたということは、同時にクオリティが担保できなくなるとむちゃくちゃ「ファン」から石を投げつけられるという枷を背負わされたということでもあると思っている。

物語についてのお話

 そこそこ(大体1500字ぐらい)の分量を使ったが、今少し前置きを続けようとおもう。物語の話といっても、ここでとりあげるのは愛城華恋の、聖翔音楽学園九十九期生に関する物語の構造についてであり、先に触れたメタフィクションの話とは違う話。
 特筆すべき最大の特徴は劇場版まで愛城華恋という人間の物語は徹底して描かない選択をしていたこと
 キャストに「劇場版まで実在しないのかと思っていた」と言わしめたことや、小山さんが「華恋が理解できなかったが劇スでやっと理解できた」と言わしめたことがそれを端的に表している。
 主人公についての描写をぼかせば、どうしても物語としては「よくわからないもの」になる。それでもコンテンツとして、商売として成立させられたのは、これまで長々語った通り九九組のキャストに集客力があったからじゃないの?
 でも、中等部でその戦略を取ることはとはできない。だって泡沫のようなキャストを選抜しているから。だから一部で見かける「中等部を九九組にしたいと思っている」という言説は噴飯モノだと思っているがそれは余談。
 話を戻すと、舞台Regaliaでコンテンツとしてのシークフェルト音楽学院中等部は、その物語の魅力で人を集められなければならないという問題に直面していた。
 それは、Regaliaの舞台に一つの大きな特徴をもたらした。
 本家スタァライトでは5年もの歳月を費やした主人公の物語。それをたった一つの舞台でしゃぶり尽くす。
 ある程度高い角度の『噂』だが、中等部は舞台Regaliaの興行成績次第では見限られてもおかしくないコンテンツだったらしい。それゆえ、後にネタを取っておく必要がないという判断が働いたのかもしれないがそれはどうでもいい話。
 舞台Regaliaはどこまでも徹底的に高千穂ステラの物語として描き出されているのは間違いないと思ってるので、それについて掘り下げたい。

ステラの物語としてのRegalia

 しつこいが、私の目に映ったRegaliaの物語はステラがシークフェルトという名前に立ち向かい自分の人生を歩みだすまでの物語。
 第一弾の舞台で「シークフェルトという名前を持つ意味」に向き合わせている時点でシークフェルトという名前に対するリスペクトがどれほどのものかわかっていない一部の声は余りにも浅薄だと思うが、それもまた別の話。
 舞台Regaliaについて、「シークフェルト家を巡る物語」と「シークフェルト音楽学院の物語」という二つの軸に分けられる。
 話を分かりやすくするため、それぞれに分けて話をしたうえで最後にまとめることにする。

シークフェルト家を巡る物語

 シークフェルト家を巡る物語は、シークフェルト音楽学院中等部を巡る物語として展開されていく。
 中等部5人の物語中における役割を整理すると以下の通り。異論については最後まで聞いてから判断してほしい。

  • ステラ:主人公

  • 詩呂:親のメタファー。父権と母性の象徴。呪いを齎すが故に、ステラがこの物語で成長したことを明確化する存在。

  • 良子:ステラの鏡像。それゆえ、ステラに救済されることによってステラに救済をもたらすという倒錯したかのような事象をもたらした。

  • みんく、クイナ:シークフェルト家の物語とシークフェルト音楽学院の物語をつなぎ合わせるためのハブ。

ステラと詩呂:最大の障害、無二の友

 繰り返しだけど、Regaliaはとことんまで高千穂ステラがシークフェルトという名の重みを受け入れ、自分の道を歩みだすまでの物語。そしてその物語において、詩呂が果たすのはステラをシークフェルトという呪いの虜とする役割
 ステラの苦しみは、根本的には「シークフェルトの名にふさわしくない」という思いだといっていい。
 今の自分ではシークフェルトの名にふさわしくない。
 だからこそ、シークフェルトの娘として失敗は認められない。
 なぜなら失敗するとシークフェルトにふさわしくないと思われてしまう。   
 延々とそんな悩みに苦しんでいるのに、代々シークフェルトに仕えてきた大賀美の娘たる詩呂が従者として庇護している限り、すなわちシークフェルトに仕える従者である詩呂に守られている限り、シークフェルトの一人娘だからみんなから特別扱いされてしまうという思いを忘れようがないじゃん。
 最後の良子とステラが打ち解けるシーンでも描かれていたけど、ステラの悩みを解決するためにはシークフェルトのお嬢様ではなくステラを見てくれる存在がいる。
 ステラに本当に必要なのは、シークフェルトに至らない自分を肯定し、シークフェルトにふさわしい存在になるよう前を向くために一緒に歩いてくれる友だち
 なのにステラが失敗しないよう、「シークフェルトのお嬢様」のイメージを崩さないようにステラとクラスメイトのコミュニケーションは基本的に詩呂というフィルターを通してしまうから、ステラはますますシークフェルトというイメージの中に囚われてしまう。
 このシークフェルトという名がステラにかけた呪いは、何回か繰り返されたステラが頭を抱えて蹲るシーンを見るとより見えてくる。具体的には、作中の時系列に従って以下の3つのシーン。

  1. ドイツ時代、舞台上で怯えて歌えなくなったステラ・シークフェルト

  2. 文化祭を巡って起きた騒動を通じて「シークフェルト」の名から逃れられないことを悟って絶望する高千穂ステラ

  3. オーディションの開催を告げられた時、雪代晶の「シークフェルトの名も堕ちたものだ」によって舞台に上がれない自分と直面させられたステラ

 このうち3については良子とのかかわりの中で見た方がよいので後に置くとして、ここでは1と2のシーンを語る。
 どちらのシーンでも、止まってしまったステラの時間は詩呂が「お嬢様?!」と駆け付けるまで動き出さないが、ドイツのステラは詩呂に依存することを選択し、詩呂に縋りついた。
 一方、大切なシークフェルトの名字を封印してまでやってきた新天地ですらシークフェルトのお嬢様であることから逃れられないことを突き付けられた日本では、「ステラ・シークフェルトであることからは逃れられない」という絶望の言葉を、従者としての詩呂がかけた「ゆっくりでいいのです」「わたくしと一緒に」という言葉を拒絶し、詩呂に苛立ちをぶつけた。
 落ち着きを取り戻した後、ステラは「一人にして」という言葉をかけて退場してしまうが、それは詩呂と一緒にいる限りシークフェルトから逃れられないことを認識してしまったためでしょ。
 その後の出番で歌われた『未完成な私たち』で白鳥になれないアヒルの子という悩み。周囲に蔑まれてきた醜いアヒルの子が、成長したことで本当は白鳥の子であったという物語を踏まえれば、「白鳥の子供でありながら、アヒルのまま白鳥になれない」という、シークフェルト家に生まれながら、それにふさわしくない自分への悩みを吐露していたものじゃないかと思っている。
 ここまでステラから見た詩呂を見てきたが、詩呂に視点を移すと詩呂に悪意があったわけではないのはわかってる。
 もう一度失敗すればステラがまた立ち上がれなくなることがわかっているから、ステラが『失敗』しないよう守る。
 でも、失敗したことでステラが抱いたシークフェルトにふさわしくないという絶望が癒されない限り大好きなステラが本当の意味で立ち直ることはないというところまでは見えていないが、それはどんなに頑張って、大人ぶろうとしても中学生は中学生だったというだけのこと。
 だって、詩呂が歌ったのは、魔法のランプになってステラの願いを叶えたいという思いだから。
 日本で最も広く受け入れられたランプの魔人の物語であるアラジンにおいて、最終的にランプの魔人であるジーニーと無二の友になる。
 詩呂はステラの願いを叶えたいと心の底から願っているが、シークフェルトの従者である限り頑張れば頑張るほど。ステラにシークフェルトの名前を意識させ、ステラの哀しみを思い出させてしまう。
 要所要所でステラが口にした「友達がほしい」「友達になりたい」という願いを踏まえると、詩呂はステラにとってニーベルングの指輪なのだと思う。ニーベルングの指輪は、ざっくり言うと、持ち主の願いを叶えるが最終的に滅びをもたらす魔法の指輪を巡る物語で、ロードオブザリングの下敷きとなった物語。
 ステラを庇護し、困難から遠ざけることでかえってステラを絶望に追いやってしまう姿は、誤った母性の象徴として語ることもできる。 
 しかしステラの失敗しないようにしなくちゃという願いを叶えれば叶えるほど、むしろシークフェルトに自分はふさわしくないというステラの絶望を意識させてしまう詩呂は、持ち主の願いを叶える代わりに呪いを齎す、魔法の指輪と呼ぶのがふさわしい。
 しかし、その呪いはステラが目覚めたことで反転する。
 詩呂が晶に嬲られる姿を見て、それでも詩呂が自分を守ろうとしてくれたこるのを見たからこそ、ステラは刃を交えることすらできなかった圧倒的な強者・雪代晶にもう一度剣を向けられた。
 自身の弱さを受け止めて、それでもなお前に進みたいという強さでもって詩呂を求めたことで、ふたりがかりでなら晶と切り結べるまでに一瞬で成長できたのは、これまで敢えて触れてこなかったが、ステラにとって詩呂がかけがえのない存在だったから。
 長い時間を一緒に過ごして信頼関係を築いてきたからこそステラは詩呂になら甘えていいと思っていたのだろうし、逆に近くにいる詩呂の実力をよく知っているからこそ自分に忸怩たる思いを抱いていたのだろう。
 ちなみに、ここまで延々と語ってきた通り舞台を通じてステラにシークフェルトという名前の重みと向き合わせていたのだから、中等部がシークフェルトに敬意を払っていないなんていうのは寝言でしかないと思っていたりする。

鏡合わせのステラと良子

 というわけで、ステラにとって詩呂は絶えずシークフェルトという呪いをかける存在であり、その奮起に欠かせない無二の友だったのだと長々語ってきた。
 なら当然、次に見るべきはステラの鏡像である良子。この2人の共通点はわかりやすい。
 2人とも「家族」のことが大好きだけど、だからこそその期待に応えられない自分に強い「劣等感」を抱いていて、「もう後がない」と思っている。
 良子はプレコールの「良い子と書いて良子です」がすべてを現してるといっても過言ではないぐらいに優しい子。
 だって、「どんな手を使ってでも!」って決意してやれることがオーディションに参加することなんだよ?!
 手段を選ばないって宣言した良子がやったのってせいぜいステラに取り入ろうとか、ステラが傷つきそうなことを敢えて口に出して優位に立とうとするぐらい。手段を選ばないって、もうちょっと殺伐とした世界だったらシューズに画鋲入れるぐらいのことはするよね(ガラスの仮面とかそんなイメージ。)
 話が横道に逸れたが、先ほどまとめた要素を順に追っていく。
 まず第一の要素・「家族」。
 2人とも家族を大切にしていて、それが大きなモチベーションになっている。
 良子については語るまでもない。あの深川さんの声優としての本領を見せつけてくれた電話のシーンを改めて語りたいけど。
 「家族の期待に応えたい」という願いの強さは、中等部で唯一自分だけの力でレヴューに臨む決意を固めさせたほど。芯の強さでは、日替わりゲストの助けを借りて自分の道を見つけられたメイファンにすら負けていない。
 ステラの家族への想いは良子ほどわかりやすくは描かれてない。でも自己紹介とロミオとジュリエットのシーンの直後に、「おばあさまのためにもがんばらなくちゃ!」というセリフが自然と出てきたり、なにより「シークフェルト」という家がステラにとって価値がないものなら、そもそも理想と現実のギャップに苦しむか?
 次に「劣等感」という部分。
 もちろんステラはシークフェルトの家に生まれ、名門の跡継ぎとしての理想に対するギャップを感じていて、良子はダメ元で名門シークフェルトを受 験して周囲との差に苦しんでいるという違いはある。
 でも、生まれてきた環境の違いがあるからこそ鏡像として成立する。
 中等部最初のレヴューで、ステラは良子の言葉を聞いて奮起した。
 もちろん、スタリラで描かれていたように良子がピルエットできるようになるまでステラと特訓を行っていた可能性は否定しない。
 でも個人的には、いまだ詩呂がレヴューに登場していないスタリラと、早々にレヴュー服となった中等部舞台シリーズはパラレルな時空と解釈していて、スタリラで描かれていることが省略されてはいるが同じことがあったという前提に立って解釈するべきではないと考えている。
 ステラは「家族が大好き」で、だからこそ、シークフェルト家の跡継ぎとしての理想に至らない自分の現実に「劣等感を抱いている」。そして、日本にきたときもう失敗できない、もう後がないと「思いつめている」。
 良子も、「家族が大好き」で、大好きな家族のためにスタァになりたいからこそ自分の現実に「劣等感を抱いている」。そして自分がシークフェルト学院に残るためにはもう七不思議で語られる不思議なオーディションに縋るほかないと「思いつめている」。
 立場や環境はまるで違うけど、自分とよく似た良子が追い詰められていることをステラにありありと見せつけた。
 「何のとりえもない」「何のきらめきもない」「結果がすべて」「負けたら終わり」「これが最後のチャンス」。
 ついさっきまでの蹲って動けなくなった自分と同じ、引き裂かれそうな気持ちを、たった一人で悩んできた良子がぶつけてくれた。
 だからこそ、友達のために力になりたいと願い、そのために立ち上がったことで初めてステラはシークフェルトの呪いを打ち破ることが出来た。
 あの舞台から解釈すべきは、そういう物語だと思っていたりする。

シークフェルト音楽学院の物語

 ここまで、シークフェルト家を巡る物語としてのRegaliaの物語を振り返ってきたが、みんクイナの物語について語る前にもう一つの軸であるシークフェルトの物語を語りたい。
 なぜなら、この二つの物語を縫い留める二人の物語を語るためには、シークフェルト音楽学院の物語について語らなければならないから。

王と滅びの定め

 エーデルが登場する場面で進展するシークフェルト音楽学院の物語を一言で言い表すと、定命の存在であることを受容した英明なる王による後世への種蒔きの物語
 滅びの定めを受け入れ、覚悟を決めた王の物語で、舞台少女として今まさに生まれたステラの物語とは正反対の物語。
 雪代晶が王者として――フラウプラティーンとして――強い自負と誇りをもって行う、後継選定の儀式。
 などと大袈裟に言ってはみたものの、個人的な体験として非常によく理解できる。
 名門と呼ばれる中高一貫で6年間を過ごすと、中学の卒業と高校の入学に出会いや別れの要素は一切含まれない。(まあ、通っていたのは1流にはなれない2流の完全中高一貫校だったけれど……。あと、高校から新たに生徒を受け入れるタイプの学校だとまた別なんだろうなとは思う。)
 それでも、高校の3年間が残っているせいか、いつまでもどこまでも可能性が広がっているような感覚があった中学3年間と、毎回のイベントがまるで卒業までのカウントダウンをされているかのように過ごしていく高校3年間はまるで別物になる。
 イベントのたびに自分たちと近い世代の先輩が中心的役割を果たしているのを補佐して学び、自分たちの番が回ってきたらその役割を果たし、後輩に受け継いでいく。
 けれど、王者・雪代晶はそんな凡百とは違う。
 当たり前だから、そうしてきたからと、なんとなくやっていたそのバトンを託す行為を明示的に行って見せる物語。
 そして、この雪代晶という王が次代に託していく過程があるからこそ、この舞台は「Regalia」たりえる。
 
Regaliaとは、日本で言えば3種の神器に相当する、王権を象徴する宝物の事であり、そこから転じて王権そのもの。
 わざわざいうまでもなく、エーデルの物語を語るにあたり王というのは欠かせないキーワードだろう
 では、王の責務とは?
 ――跡継ぎを絶やさないことだ
 洋の東西を問わず、王朝が長続きする秘訣はいかに後継問題を引き起こさないかという点に尽きる。現在、日本やイギリスが採用している立憲君主制にしたって、王の後継問題を政治問題化しないために王を権力から隔離する方策でしかない。
 そのわりに、王権を巡る物語としてRegaliaを捉えた論評をあまり見かけないが、この要素を見落とせばRegaliaの舞台を神髄まで味わえないとすら言っていい。
 というわけで、ここからは王権の行き先を見ていくことにする。

Regalia:3世代先を見通した物語

 では、Regaliaを与えられたのはだれか?
 高千穂ステラも当然その一人だが、その答えでは不十分。むしろ、それだけだとエーデルへの敬意を欠いている答えにすらなってしまう。
 この物語において、晶の悩み事は大きく2つに分けられる。
 1つは、自分の跡を継ぐメイファンを次代の王として目覚めさせること。
 晶という王者の威光はあまりに強く、メイファンに自身を騎士として定義させてしまった。本来、メイファンはやちよと共にフラウプラティーンの座を担うべき存在であるはずなのに。
 メイファンは、王を輔弼する存在であることに満足してしまっていて、晶は当然そのことに気が付いている。なればこそ、あえてメイファンがいる場で「脇役でもいいというものは自分の人生すら脇に置くのか?」と中等部を締めてみせたのでは?
 だが、晶は自身が選び育てたメイファンの実力を知悉し、そして信頼してもいる。
 事実、メイファンは他校の偉大な先輩たちの力を借りて、自身を見つめなおし舞台少女としての覚悟を決め直した。
 ちなみに、良子について語るときに自分一人で決意を決められたという点だけをとればメイファンよりも強いと評したが、王者としてみればこれは別に劣った資質ではない。他人の優れた資質を活用できることは上に立つ人間として極めて優れた資質なのだから。
 だからこそ、自身が直接口を出すべきは第2の悩み。
 それは、3世代先の王を巡る問題。
 歴史上スパルタのように二人の王が並立する体制が存在したことを考えれば、次代の王としてはメイファンとやちよがいれば不足はない。
 さらにその次の世代にも中等部から栞を抜擢済み。もちろん、まだ語られていない実力者がいないと考える方がおかしいだろう。
 では、その次の世代は?
 ミチルの「焦っている」という言葉を素直に信じるならば、物語開始時点では晶の眼鏡にかなう存在は見つかっていなかったことになる。あるいは、ドイツからの転入生が実力者だという話を聞いてそこに布石を打つことを決めたという可能性もある。
 いずれにしても、晶はRegaliaを通じて後継者を選んでいく
 中世ドイツ、神聖ローマで行われた皇帝選挙とおなじように、オーディションの場はまさに候補者を選定する儀式として機能する。
 候補者は5人。
 絶対に脇役になんて甘んじるものかという気骨を見せたクイナ。 
 たった一人、誰の力も借りず舞台に挑む意志を固めた良子。
 ミチルによって、舞台に向き合う覚悟が決まったみんく。
 ステラと詩呂に関して、個人的にはステラはあくまでも詩呂の添え物に過ぎなかった、と解釈している。
 晶が詩呂の実力を認めていたことは間違いない。優れた舞台少女を尊重する晶にとって、高い実力を持つ詩呂が舞台少女に覚醒すれば、これよりふさわしい後継者は存在しない。
 というか、ステラと良子においていかれた詩呂に話しかけるあのシーンまで、晶の中でフラウプラティーンの最有力候補は詩呂だった、思っている。
 だが覚醒したステラが晶に対して自分は詩呂と覇道ではなく王道を歩んでみせるのだと答えたことで、王権の行く末が定まった。
 晶にとってのミチルやメイファンのように、自分がステラを支えていくという詩呂の答えを王は笑って受け入れたが、何もなしにその答えを受け入れるほど晶という王は甘くないのだから。
 高千穂ステラにはシークフェルト音楽学院において第4位相当の王位継承権が与えられた。だが、その王位継承権は詩呂によって決定づけられた。
 Regaliaとは本来、王権を象徴する宝物であり、その宝物を授与されることによって王位は継承される。ことヨーロッパにおいて、世俗の最高権力者である王や皇帝の地位は神聖なる領域の最高権力者である教皇によって承認されて初めて認められる。
 そう考えると、『Regalia』の物語とは、大賀美詩呂にステラを王にするためのRegaliaが託された物語だと言えるのではないか?
 個人的にはそんな風に思っている。
 あ、これは完全に余談だけど神聖ローマ帝国がローマと神聖を名乗っていた根拠って究極にはローマ教皇によって戴冠がなされていたことによることを考えると、Regaliaに登場したエーデル3人がアルカナで演じた役どころが晶が「皇帝」、ミチルが「女教皇」、メイファンが「女帝」なのってエモいよね。ミチルがいないと晶もメイファンも皇帝になりえないってことだし?

王と騎士

 閑話休題。Regaliaの話に戻ると、王と騎士の関係性が重なることでステラを巡る物語には新たな輝きがもたらされる。
 シークフェルト音楽学院の物語は、雪代晶という王が宰相の鳳ミチルとともにメイファンを次代の王として殻を破らせる物語だった。
 最後のシーン、詩呂は晶に向かって「晶にとって宰相や騎士が必要なように、お嬢様には私が必要なのです。」と宣言する。
 「主を守る盾となり、主を導く矛となる」という口上を上げた詩呂がどちらかといえば騎士を自認しているのは想像に難くない。
 これは極めて個人的な要因が強いが、私にとって騎士という言葉は物語に出てくるような忠義に生きる存在ではなく、必死に生き残ろうとする封建領主のことになる。
 王と騎士の関係とは、優れた王に騎士が忠義を捧げることで成り立つものではなく、対等な王と騎士とが双務的な契約を結ぶことで成立するもの。
 
ここで、ステラが口にしたセリフをいくつか思い出したい。
 「日本ではたくさん友達を作りたい」というささやかな願い。晶からの「従者のために怒りを露わにするか?」という嘲りに対する「詩呂は私の大切な友達です」という答え。
 従者と主、守るものと守られるものという関係を脱し、騎士と王、対等な関係になって見せるという決意の言葉。
 本来、王は騎士の領地に対する支配権を承認し、その引き換えに騎士は王に軍事力を提供する。騎士にとって、、自身の領地を守ってくれない王になど意味はない王の力が及びにくい辺境の騎士はコロコロと使えるべき君主を変えるが、それも自身を守れない王など、命を懸けるに値しないというだけのこと。
 ステラが晶に放った「強くなるから……詩呂を守れるくらい強くなるから!」というセリフはつまり、詩呂が仕えるにふさわしい王になってみせるという意思表示。このセリフでもって、ステラは晶から王位継承者として認められたし、詩呂は何度跳ね返されようとも晶に挑み続けられたのだと解釈している。

みんくとクイナ:2つの物語の結節点

 シークフェルト家の物語において、みんくもクイナも物語の当事者ではない。ステラの鏡としての役割が与えられ、ステラの仮面を剥がしてみせた良子以外の中等部に、ステラが抱えていた悲しみは明かされないから。
 シークフェルト音楽学院を巡る物語でも、2人を巻き込むだけでメインに据えることはなく進む。クイナが晶にあこがれていることを考えれば残酷にさえ見える。
 でも、晶を見て舞台を志したクイナだからこそ、あくまでのシークフェルト家のお嬢様ではなく超えるべきライバルとしか見ていないクイナだからこそ、2つの『シークフェルト』を繋げられる
 シークフェルト家の物語に必要なステラとシークフェルト音楽学院の物語に必要な晶が最初に出会うのは、転入生の噂を聞いたエーデルが中等部の見学に訪れるタイミング。
 クラスメイトから一目置かれる実力者であるクイナが呑まれることでステラの実力が披露され、ステラと詩呂が演技を始めると同時に背景にバルコニーが浮かび上がる。
 こうすることで、詩呂も実力者であることと、ステラと詩呂の間にある強い信頼関係が効率的に描写される。
 その結果、詩呂が徹底的にステラを守ることで日本での新生活がうまくいくかもしれないという脆く儚い希望を2人に抱かせ、同時に晶が詩呂の実力を見出すきっかけとなり、この場面が2つの物語の起点としての役割を獲得する
 次に2つの物語が合流するのは文化祭に向けたオーディションのシーン。
 周囲から特別扱いされることで、ステラが「周囲からシークフェルトのお嬢様だから特別扱いされているのでは?」という不安を抱いたまさにそのタイミング。
 クイナから「絶対に主役を演じて見せる」のセリフが放たれる。晶が「馴れ合いがしたいものはシークフェルトから去れ」の言葉で追撃され、ステラはもう一度自分の抱えていた問題に向き合わざるをえなくなる。同時に、晶を敵と認識させることで詩呂はオーディションに引きずりこまれる。
 2つの物語が交わるためには、ひたすらにフラウプラティーンを目指し、余裕を失っているためにステラがシークフェルト家の令嬢であることすら眼中にないクイナが必要不可欠。
 でもそうすると、2つの物語を接続するにはクイナがいれば十分だということになるならみんくの役割は?
 ――もっと大きな2つの物語を繋げている

 幼い頃に誓いをかわした2人。互いに認め合い、競い合うライバル。腐れ縁の幼馴染。
 他にも挙げればきりがないが、私にとっては関係性の美しさ・残酷さ・尊さを軸に物語とキャラクターを展開したのが聖翔音楽学院の物語であり、スタァライトの物語。
 そういう意味で、スタァライトとは関係性の物語だと表現できると思っている。
 そんななか、シークフェルト家を巡るステラ・詩呂・良子の物語は個人の問題として展開し、オーディションが始まるまで関係性を描かれない。一方で、クイナとみんくが描くサブの物語は常に二人の関係性の中で描かれる。
 その意味では、この2人の存在がRegaliaの物語をスタァライトらしくしているとさえいえる。 
 それが端的に示されるのは『未完成の私たち』におけるモチーフ。

  • ステラ…「醜いアヒルの子」

  • 詩呂…「魔法のランプ」

  • 良子…「シンデレラ」

  • みんく…「アリとキリギリス」

  • クイナ…「北風と太陽」

 ステラ・詩呂・良子の3人と違い、みんくとクイナには「AとB」形式の、片割れが不在だと成立しないモチーフが割り当てられている。内容も、今の自分の無力を嘆く3人と違い、みんくとクイナは変わってしまった関係性を嘆き悲しむ
 みんくとクイナが関係性の中で描かれていることを点検すると、ステラと詩呂が転校してくるシーンにおいてクイナはみんくの道化じみた振る舞いに苛立つあまりクラスメイトに厳しくあたる。そのせいでクイナが孤立しないよう気遣ったみんくはクラスメイトのフォローに奔走する。そんなみんくがいうから、「クイナが呑まれた」というセリフがステラの実力の裏付けになる。良いお芝居を純粋に楽しんだみんくが無邪気に喜ぶせいでクイナが苛立ち、それをあらわにしたことで、詩呂とステラの芝居のレベルの高さがより強調される。
 文化祭オーディションでも、「主役はステラと詩呂で決まり!」という雰囲気のなか、クイナの輝きを知るがため受け入れられないみんくがクイナに「誰が主人公になると思う?」と聞いたことが、ステラを絶望に追いやるセリフが放たれるきっかけになる。
 みんくとクイナが関係性の物語を描いているために、2つの物語はより強固に接着されるが、そのために徹底的にみんくとクイナは対照的に描かれている
 台本を暗記し自分の用意していた演技をしたが憧れの先輩の前で醜態を晒したクイナと、台本を読んで生まれた自身のインスピレーションを信じた結果自分のファンであった先輩から思いがけず高評価を得たみんく。
 絶対に主役を演じたいという覚悟を持ち、エーデルの前でもブレることなくその意思を口にして見せたクイナと、ミチルに諭されるまで選抜が行われるという事実の意味に向き合えていなかったみんく。
 舞台に挑もうとのめりこみ過ぎるがあまり観客の存在を忘れているクイナと、舞台に挑む覚悟を決めきれずにいるがアイドル時代から観客の存在を常に意識してきたみんく。
 徹底的に対として生み出された2人が2人とも、相手への本音をさらけ出せないせいで、2人の根幹にある『約束』を巡って決定的な破局を迎える。
 ちょうど、ステラがシークフェルトのお嬢様としての体面を保とうとするがために苦しみから逃れられないように。
 みんくとクイナはシークフェルト家とシークフェルト音楽学院の物語の中心から外れたところで関係性の物語を展開することで2つの物語をリンクさせ、また中等部の物語をスタァライトの物語に繋げている。
 そうでなければ、レヴューでも覚悟を決めたみんくがクイナに真正面からぶつかって本心を引き戻すことで絆を取り戻したことでレヴューが決着するかたちにはなりえないでしょ。

RegaliaからRebellionへ

 長々語ってきた通り、私にとってRebellionとはステラがシークフェルトに向き合い、もう一度舞台に上がる覚悟を決めるまでの物語だった。
 それを踏まえてRebellionへの期待という名の妄想を書きなぐって結びとしたい。
 Rebellionで一つ、明かされているのは、ステラに良子という友が出来たことを受けた詩呂の苦悩が中心にあることと、「叛逆の物語」だということ。  
 Rebellionという言葉には元々「何らかの抑圧に対する反抗」の意味があることもあり、最初は王位継承者となったステラに対し、詩呂が蓄積した不満をぶつける形で『Rebellion』となるのだと思っていたが、甘かった。
 Rebellionの試聴動画で、ずっと一人で歌う詩呂が絶望や悲しみを歌うのに対し、他の4人が語り掛けていた。
 おそらくは、晶から『Regalia』を預かっている詩呂に対して、ステラたち4人が挑むからこそ『Rebellion』。
 
そんな物語になると、個人的には予感している。

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