コロナ

こんな見出しを打ったけどコロナについて書きたいわけじゃない。
コロナウィルスにかかって外出を自粛している間に出てきた考えを整理したいだけ。
大学編入を諦めて以来、自分が必要としているものについてようやくはっきりとしてきた気がする。
正直学歴とかいい会社とかそんなにいいものなのかずっと疑問を持ちながらも、まあみんなが必要とするということはいいものなんだろうと自分をだましだまし生きてきた気がする。こんなこと書いている自分は偏差値の高い中学や高校、大学に行ったことがないのだけれど、偏差値が平均から少し上くらいの自分がいる生活圏内では、そこそこ頭がいいと期待されてきた。でも勉強を頑張った記憶はなくて、良い結果の時も悪い結果の時もあって、テストの成績なんてくじみたいだなと思うようになった。くじには努力の要素が含まれないから勉強の成果に努力の結果を感じたことがない。勉強ってやる甲斐ないなと思いながらも高校受験、大学受験もなんとなく流されるままにやっていた。高校受験は中学の内申が悪かったからテストを頑張ったらいけるぎりぎりのラインを受験して、大学受験はまったく勉強に身が入らなくて滑り止め以外落ちた。それでも心の片隅では、自分の生活圏内では頭がいいとされていることに強いこだわりを持っていた自分はかなり落ち込んだ。そして浪人に自信がなかった私は滑り止め大学に進学することになった。それからなんとなく編入に執着するようになったのだけれど、そもそも勉強をしない。行きたいと思っているのになんで私は勉強しないんだろう。ずっと意味が分からなかった。最近あの時感じていた感覚や今の感覚を振り返ってみたら、そもそもいい大学に行くことに意味をそこまで感じていなかったということが見えてきた。点数を取るために机に座って参考書を見たり問題集を解いていると、勉強ってこういうものだっけと違和感が襲ってくる。勉強って知りたいことのためにするんじゃなかったっけ、良い大学行くために、良い点数取るためにやるものじゃないよな、と。勉強をすごく頑張ってきた人からしたらこいつなんだよと思われても仕方ないし、自分もそんなことは無視して勉強に没頭できればどんなに良かったかと思う。あの時、知ることや成果が出ることを楽しめなかったのが残念だったなと思う。
今例に出した学歴や勉強のようにこんなこと言ったらなんか怒られそうだなって思うようなことが割とある方だ。
もしかしたら、怒られるようなことでもないのかもしれないけど、みんなが無視しながらうまくやっているところに水を差しちゃうようなときがあるな、と。
私が人と違うと思うのはその違和感を無視できないところだと思う。
社会で生きるのがうまい人は、ほどよく無視して生きているんだと思う。自分でもいろんな考えを持った自分が人間ひとりの中に沢山いるような感じでつくづく面倒臭いなと思うことが往々にしてある。
自分で自分っておかしいのかもって思い始めてから自分のことを人に話さなくなった。自分の意見があっても言わなくなった。理解してもらえるとも、共感してもらえるとも思えなかったから。自分なりに大事にしたいものはあるはずなのに無視して、人が大事にしているものを同じように大事にして生きてきた。たくさんの違和感に息苦しくなる毎日。
でも、コロナウイルスにかかって休養している間に色々考えを巡らせてたら、自分の中である程度考えがまとまってきた。
私が大事にしたいものは多分そんなにない、これはなんとなく直感的にそう思う。じゃあ、なにを大事にしたいかを一生懸命見つけて、それだけを見つめて、大事にして生きていこうと。
それに私は、なんとなく生きていきたくない。どうせ生きるなら一生懸命生きたい。自分の考えが人とは違くても自分では否定したくないし、何も考えずに目の前のことに忙しくしてたらいつの間にか時間が過ぎていた、っていうのも嫌だ。自分の人生に向き合って自分に問いかける時間は絶対欲しいし、一生懸命になれるものを追いながら生きている実感を得ながら生きていきたい。いまは5日間も外に出れてなくて、いよいよ現実感が消失し始めたころだけど、これからまた大切にしたいものが出てくればいいな。
若干、頭がふわふわするから文章とか流れとかよくわかんない感じだけど今思ったことをここに書きました。
2023年10月5日 22時22分


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