スペクタクルなき世界を生きることができるか:映画『窓ぎわのトットちゃん』評

年の暮れも押し詰まった昨年の12月末、アニメーション映画『窓ぎわのトットちゃん』を観た。ツイッター上での肯定的な言及に背中を押されてのことである。結論から言えば、観てよかった。思考を喚起された。

おそらく映画の興行には必ずしも正の影響を与えなかったであろう、トットちゃんをはじめとする登場人物の顔に赤みが差しているキャラクター・デザインであるが、確かに私も予告編で見る限り、気になったが、動く絵として提示されると、全く不自然な点はなかった。一つのアニメーション表現の様式として、唯一無二の世界を描き出す上で、あのキャラクター造形は成功していた。

先ほど調べたところ、まだ劇場でかかっているようなので、未見の方はぜひ一度、鑑賞されることをお勧めする。

以下、ネタバレを交えつつ、感想を書いてみたい。

まず特筆に値するのは、現代日本におけるアニメーション表現の到達点とでもいうべき、その鬼気迫る時代考証・背景美術・そして芝居である。私はもちろん、戦前の裕福な家庭で使われていた家具や電気製品がどのようなものであったかを知らないが、(何故か)ここで描かれているものは、まさに当時の暮らしを再現しているという確信をもてた。それだけ説得力のある美術であった。パンフレットによると、時代考証と美術設定のために一年を要したという。確かに、それだけの時間をかけた価値はあった。

アニメートも素晴らしい出来栄えであった。トットちゃんの動きがすこしデフォルメされすぎていた点がはじめ、少し気になったくらいである。「ここ数年のアニメのなかでも屈指の作画枚数と作業時間を費やした作品」だとやはりパンフレットにあるが、さもありなん、である。

特に、物語の終盤、『雨に唄えば』を彷彿とさせるシーンから後、小児麻痺を患うトットちゃんの友人・泰明が死に、悲しみに暮れるトットちゃんが駆け抜ける街並みが、軍国主義日本のそれへと変貌していることを描写する辺りは、全く素晴らしかった。そう。悲しいシーンであるにも関わらず(であるが故に)、大変に美しかった。

しかし、にもかかわらず、残念ながら、このアニメーション作品は、例えばツイッター上でしばしば語られたような、『この世界の片隅に』のような「誰もが知っている傑作」という位置を占めることは、まずないだろう。興行的にも、残念ながらそれほど成功しているとは言えないようである。制作に要したであろう時間と労力を想像すると、損益分岐点に到達できているか心配である(だから皆さん、ぜひ映画館で観てあげて下さい!)。

しかし何故、『窓ぎわのトットちゃん』は『この世界の片隅に』に興行的にもアニメーション史的にも、比肩する作品足りえないのか。

この問いに対する答えは、筆者の考えでは、単純素朴である。「スペクタルの欠如」。これに尽きる。『窓ぎわのトットちゃん』は、我々の感情を揺さぶる(陳腐な)劇的ドラマを全く欠いているのである。

確かに、トットちゃんのよき友人、泰明は死ぬ。トットちゃんの暮らした素敵な家は呆気なく引き倒される。小林先生の理想を体現したトモエ学園は、焼夷弾によって焼き尽くされる。だが、劇中で描かれる悲惨は、それだけである。作中のほとんどの時間は、トットちゃんをめぐる世界が(たとえ障害のある泰明との触れあいが主となるプロットであったとしても)いかに優しいものであるかを描写するために割かれている。

要するに、この世界では、悲惨が描写されることがないのである。

同じ戦争を扱ったアニメーション映画と比較してみよう。『この世界の片隅に』はどうだったか。『この世界』では、作中で逐一、日付が示され原爆が投下される8月6日が、刻一刻と迫ってくる緊張感があった。また、米軍による空襲シーンは、それまでの牧歌的な日常の描写から全く離れて、それ自体にフェティッシュな美しさがあった。あるいは、例えば高畑勲『火垂るの墓』についても、明らかな悲惨が描かれていた。戦争そのものを描写することは拒絶した宮崎駿の『風立ちぬ』の場合には、メイン・プロットを次郎と菜穂子のメロドラマにしていた。

しかし、トットちゃんの世界からは、分かりやすい悲惨やメロドラマは徹底的に排除されているのである。実際問題として、泰明との触れあいが映画の大部分を占める。そこには残念ながら、映画的なスペクタクルというものはなかった。

悲しむべきことは、そうしたスペクタクルの欠如が、どうしても映画を退屈なものにしてしまったということである。私は、退屈な映画が嫌いではない。芸術的な価値の高い映画には、退屈なものは数多い。しかし、退屈な映画は興行的に成功することはない。そして、膨大な手数をかけたアニメーション映画は、どうしても興行的に成功しなければならないのである。その意味で、『窓ぎわのトットちゃん』のアニメーション映画化は、最初から(少なくとも興行的な)失敗を宿命づけられていたのかもしれない。

ここには、大きなジレンマがある。戦争の時代に突入しつつある現代において、戦争を批判し、戦争に反対するためには、戦争の悲惨をある意味で、「美しく」「劇的に」描かねばならないのである(例えば、戦争の悲惨を体現する特攻隊員と現代の女子高生の恋物語を描く現在公開中の『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』は、「戦争の悲惨」「恋愛物語」を結び付け、大ヒットしている)。

私は、自問せざるを得ない。「戦争の悲惨を感得するためには、戦争の悲惨をさえ美しく描く必要があるのだろうか?」。「我々は、実は悲惨が好きなのだろうか?」

なるほど、戦争という「悪」に反対するという「善」のために、戦争の「美」を描かねばならないとしても、別に矛盾はない。真・善・美は、それぞれが独立した価値だからである。

それでも、戦争を批判するためにさえ、戦争を美しく描かねばならないという事実は、私を不安にする。もしかすると、我々は結局、戦争や対立や紛争が好きなのか?戦争や対立や紛争の中にこそ、我々は美と生きる意義を見出すのか?

インターネットを通じて克明に報じられるウクライナやガザでの戦争の悲惨は、我々に不思議な力を与える。少なくとも、私はそうである。それが「この悲惨を何とかしなければ」という形であったとしても、その悲惨を目の当たりにしてようやく生きる気力が亢進してくるというのは、不穏な感情の動きであることは否定できない。

『窓ぎわのトットちゃん』は、恐らく、そうした不穏さに気づき、意図的に戦争を描くこと(それは戦争を魅力的に描くことに等しい)そのものを回避した。その判断は、戦争を批判するためには、全く正当なものだった。しかし、その代償として、映画として幅広い層にリーチすることに失敗してしまったのである。

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(政治)哲学には、「歴史の終わり」という概念がある。ヘーゲルの哲学を独自の観点から解釈したアレクサンドル・コジェーヴの概念である。詳細を述べることはできないが、「承認をめぐる、命をかけた闘争」から始まる人間の歴史が、「普遍等質国家」に至って完成することが、歴史の終わりである(と私は解釈している)。

私は、この「歴史の終わり」という考え方を魅力的なものだと思う。
しかし、我々が戦争と紛争の中にスペクタクルを見出そうとしてしまうという事実は、歴史の終わりに到達できるという私の確信を揺るがせる。「主人と奴隷の弁証法」が終わるところ、承認をめぐる命がけの闘争が停止した世界に、その「退屈」に、我々は耐えられるのだろうか?普遍等質国家に至った我々は、単に退屈のために、また殺し合いを望むのではないのか?

『窓ぎわのトットちゃん』は、こうした恐るべき可能性を、逆説的ながら提示していた。私は、鑑賞後、深く考え込んでしまった。


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