国際政治学における政策提言のあるべき姿について

国際政治学の在り方をめぐって、(無用に)過熱した議論がツイッター上で見られた。

発端となったのは、多湖淳『戦争とは何かー国際政治学の挑戦』(多湖2020)を話題とした、田所昌幸教授、細谷雄一教授、小泉悠准教授の鼎談である。

例えばこの鼎談において、細谷教授は、

「事業欲」というのは、とにかく仕事をしないと気が済まない、目に見える結果をすぐに出したがるという習性です。学問的方法論を洗練させることによって人間活動のすべてを解明しようとするかのような姿勢も、一種の事業欲かもしれません。その行き過ぎた「事業欲」は、いわばナチスのホロコーストにも帰結したといえるかもしれない。

https://www.fsight.jp/articles/-/50208

とまで書き、洗練された方法論に基づく国際政治学には政治的な危険があると仄めかしている。読者としては、Wikipediaで確認できるだけで12冊の単著を出版している細谷教授もまた、一種の事業欲に突き動かされているのではないかと疑いたくもなるが、それはともかく、多湖教授と細谷教授の間の対立軸は何であろうか。すなわち、争点はどこにあるのだろうか?

学問方法論上の対立ではない


一つの見方は、これを学問方法論上の対立と捉えるものだろう。すなわち、歴史的な分析アプローチと、統計やフォーマル・モデルを用いた現代アメリカで主流となっている国際政治学のアプローチの対立があるとする見方である。確かに、多湖教授の『戦争とは何か』には、そうした解釈を許す、論争的な書きぶりがないでもない。例えば、次のように言われる。「ある一つの歴史的事件を取り出してきて、その事件が起きた状況と現在が似ているから今回も同じような帰結が生まれるとする論法」は、「印象論では成立したとしても、議論のよりどころとなる理由が定かでない。よく考えれば説得性を欠くものが多く、当然まっとうな政策議論をも不可能にしてしまう」(多湖2020: 28)。対して、多湖教授の従事している国際政治学は、「科学なので明確な方法があり、それは秘伝でもなんでもなく、透明性の高い手続きであり、分析結果も確率に基づいて表現される」(多湖2020: 194)。ここだけを読めば、多湖教授は、「統計至上主義」(上記鼎談における小泉悠准教授の表現)であるかに見える。

しかし、多湖教授は同時に次のようにも言うのである。「戦略的相互作用を記述し推計する意味では回帰分析の限界はあるし、目下流行している実験手法もその足しにはならないかもしれない」(多湖2020: 180)。実際、近日中に出版される教科書の目次を見ても、また、そこで国家建設にあたってスプルートの研究が紹介されているなど、統計分析とフォーマル・モデルだけを重視しているわけではないと言えそうである。そもそも、多湖教授が大きく依拠する戦争に関するCOWデータは、歴史研究の成果に依拠しなければ作成できない。

とすれば、多湖教授は、必ずしも方法論そのものを問題にしているわけではないとも言えそうである。では、対立軸はどこにあるのか。

政策提言の質に関する対立


とすれば、多湖教授は、必ずしも方法論そのものを問題にしているわけではないとも言えそうである。では、対立軸はどこにあるのか。
ごく最近更新された細谷教授のnoteの記事では、次のような多湖教授の発言が重視されている。すなわち、

『法学セミナー』2022年12月号で、「国家間戦争と法」という論稿のなかで、「著者(豊田注:多湖教授)が『法学セミナー』の読者にお伝えしたいのは、そういった「目立つ日本の国際政治学者」の情報発信に惑わされず、世界水準の国際政治学のまっとうな研究に目を向けてはどうかということである」と、「意見を述べることに使命を感じる『研究者』」を批判し、「まっとうな研究者」と「そうではない研究者」に二分しております。

細谷2024.

つまり、細谷教授の見るところ、多湖教授にとっての標的は、「意見を述べることに使命を感じる『研究者』なのである。

そして続けて、細谷教授は次のように問う。

だとすれば、「ある「研究者」が「まっとう」であるか否かを分ける基準は何なのでしょうか?それを判定する主体は誰なのでしょうか?

細谷2024.

この問いには、比較的、簡単に答えることができる。
まず、研究者のまっとうさを判定するのは、もちろん読者=公衆であろう。
そして、政策提言のまっとうさの判断基準として、筆者としてはここで二つを挙げられると思う。すなわち、①分析視角が安定しており、②政策提言が学問的な知見に基づいているか否かであろう。
そこで公衆の一人として、上の①②の基準に照らして、細谷教授が「まっとう」であるか否かを判定してみたい。

①分析視角は安定しているか?

細谷教授は、2016年に出版された『安保法制』において、国際政治を考える基本として、以下のような視角を取るべきであると述べている。すなわち、

他国には他国の国内政治的な論理があり、政策があり、歴史がある。他国が安全保障政策を展開する際に、日本の憲法九条の平和主義の理念や、安保法制を見て、それだけを理由にして重たい政治的決断を行うと考えることは、あまりにも非現実的である。
他国の国内政治のロジックを適切に理解することこそが、国際的な平和や安定を維持するための最低限に必要な条件であるはずだ

細谷2016: 129 Kindle 版.

国際政治は、相手のいることを扱うのであるから、他国の論理を理解しなければいけないというわけである。もっともな意見であり、筆者も、細谷教授のこの意見に賛同する。
だが、不可解なことに、直近の『中央公論』における鼎談では、細谷教授は次のように言うのである。

日本は世界的にも稀な、世界各国についての専門家が揃う国です。それは素晴らしいことですが、普遍的原理や価値より、その地域の特性、佐藤優さんの言う「内在的な論理」に寄り添うことを優先する人たちが多いということも言えます。国連憲章や基本的人権といった、普遍的に守るべき価値が広く共有されていないかもしれないという問題を、どう考えるべきでしょうか。

細谷・東野・小泉2024: 25.

ここでは佐藤優氏に仮託して、他国の内在論理を理解しようとする日本の研究者の立場が批判されていると言えよう。

さて、細谷教授は、自らが賛成する安保法制に際しては、他国の内在論理を理解しなければならないと論じた。他方、ロシアによるウクライナ侵略を批判する文脈では、そうした内在論理の理解ではなく、普遍的な価値を重視するべきだとしている。

素直に読む限り、筆者には、これらの発言は両立しないと思われる。現象に対する自らの政治的立場が先にあり、それによって、分析に際しての視角を変えているようにしか思えない。そして、この解釈を裏付けるのが、次に見る安保法制に対する細谷教授の態度である。

②政策提言は学問的知見に基づいているか?


中国の急速なパワーの増強に対して、2012年に出版された『国際秩序-18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ』の結論部において、細谷教授は以下のような政策を提言する。

重要なのが、東アジアで「均衡の体系」を回復することである。そのための鍵となるのが、アメリカの東アジア関与の継続と、日米同盟の強化、そして何よりも日本が十分なパワーを持つことである。日本がパワーを低下させ、日米同盟が衰弱し、アメリカが東アジアへの関与を削減すれば、それはこの地域に「力の真空」が生まれることになり、よりいっそう国際秩序は不安定となるであろう。

細谷2012: 332.

この本が出版された翌2013年、安倍政権の下で、細谷教授は「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」と「安全保障と防衛力に関する懇談会」という二つの有識者会議の委員に就任される(細谷2016: 219 Kindle 版) 。その後、安保法制をめぐる政治的対立が激化した後、2016年には安保法制賛成の立場から、『安保論争』を公刊される。そこでは、引き続き次のように言われている。

どれだけ脆弱であったとしても、われわれは勢力均衡の論理を基礎として、平和を構築することが必要である。
この場合に、勢力均衡を回復するためには、アメリカが東アジアにおいてこれまで通りの軍事的関与を継続して、同盟関係が維持あるいは強化されて、日本が自主的にある程度の国土防衛を可能とすることが不可欠である。近年の日本における安全保障政策と安全保障法制の進展は、そのような認識をひとつの背景としている

細谷雄一2016: 71 Kindle 版.

しかし、多少なりとも日本の安全保障政策を学んだ者であれば、これらの政策提言からは、戦後日本の安全保障政策を大きく規定してきた「サボタージュ平和論」の観点が抜け落ちていることに気づくだろう。ここでサボタージュ平和論とは、「憲法第九条を最もいい盾として、米国の再軍備の圧力に抵抗して、経済復興を達成する、という暗黙の了解」のことである(永井1967: 174)。

そして、このサボタージュ平和論を支えていたものこそ、

「大衆のなかにある「戦争はいやだ」「命あってのモノダネ」「核戦争時代に武装しても役に立たない」「戦争にまきこまれたくない」という厭戦感情や、つよい戦争憎悪の感情、さらに、反軍国主義から、反米=反帝国主義的信条に根ざした「草の根ラディカリズム」の平和抵抗論」であり、「この広範な大衆の戦争体験に根ざした実感に支えられた平和ムードは、保守=革新を問わず、これを無視しえないところの強力な力として、戦後日本の正教の中核をしだいに占めるに至った」(永井1967: 174).

その結果、「弱者の恐喝」として、「保守=革新は、暗黙の共闘関係にたつことで、米国の再軍備の圧力に抵抗してきた」(永井1967: 175)。

つまり、いかに安倍氏の推進した安保法制に対する反対派の主張が、「あまりにも多様であり、あまりにも不明瞭であり、あまりにも抽象的で、あまりにも混沌として」いたとしても(細谷2016: 35)、その漠然とした平和愛好ムードが、日本政府の手を縛ることを通じて、アメリカに対する交渉力を引き上げ、結果として日本はその安全保障のコストを安く上げることができるという側面があるのだ。

安保法制に対する反対運動が事実、無意味ではなかったことは、安保法制を推進した安倍晋三氏じしんが、田中明彦教授とのインタビューで語っている。トランプ前大統領との首脳会談において、「もし米国がある国から攻撃されたら、日本は何もできないんだろう?」と「チャレンジ」された安倍氏は、「だから平和安全法制をつくり、憲法の解釈を変えて、日本とアメリカはお互いに助け合える同盟国になったんだ。おかげで私は一〇(10)ポイントも支持率を落とした」と説明した(安倍2020: 10)。すなわち、反安保法制運動の高まりと、それに連動した10ポイントもの支持率の低下を、安倍氏は「盾」に使って、トランプ前大統領による圧力に抗しているのである。これこそ、戦後日本のムード的な平和論がもっている現実的な効果なのだ。

細谷教授は、当然、以上のような「サボタージュ平和論」を知っていた筈である。実際、2018年に細谷教授が出版した著書において、吉田茂とダレスの交渉について述べられているし、また「サボタージュ平和論」を命名した論文が収められている永井陽之助の『平和の代償』も引用されている(細谷2018: 191-206; 218-219)。

とすれば、2012年の『国際秩序』においても、2016年の『安保論争』においても、細谷教授はこの論点になぜ触れなかったのであろうかという疑問が湧く。
その動機はもちろん推測するしかないが、しかし、「サボタージュ平和論」に触れることは、アメリカとの同盟強化という自らの政策的立場に対する、有力な批判として機能したことは間違いない。であるならば、そのことを知っている細谷教授は、「サボタージュ平和論」に意図的に触れなかったのではないかと推測しても、不自然ではないだろう。
少なくとも、安保法制の議論に際して、「サボタージュ平和論」に触れないのは、学問的な態度とは言えないことだけは確かである。

以上から導かれる筆者の結論はこうである。①分析視角、および②政策提言の学問的根拠という二つの点において、細谷教授は、自らの政策的な立場を優先させることで、学問的な誠実さを犠牲にしているのではないか。

終わりに


永井陽之助は、かつて次のように書いた。

われわれ研究者は、金もなく力もない。ただ、学者(認識者)は、ウソをつかず、公正であり、少なくとも不偏不党たろうと努力している、真理への奉仕者であるという読者の期待とイメージだけが、その言論のもつ力の源泉である(永井1967: 138)。

いま見てきたような細谷教授の発言は、こうした読者(=公衆)の信頼を損なうものだと筆者は考える。

従って私は、日本の安全保障政策の議論が、学問的な知見に立脚していないという多湖教授の苦情に賛成する。こうした状況を変えることは、急務といえよう。

参考文献


安倍晋三(2020)「日本復活の礎となった日米同盟再強化-安倍外交七年八ヵ月を語る(連載・上)」『外交』64(Nov/Dec):6-15.

多湖淳(2020)『戦争とは何かー国際政治学の挑戦』中央公論新社.

田所昌幸・細谷雄一・小泉悠(2023)「「50年以上前の本なのに、まったく古さを感じない」――なぜ高坂正堯の本は、令和の大学生にも読まれ続けるのか|田所昌幸×細谷雄一×小泉悠 特別鼎談」新潮社Foresight(https://www.fsight.jp/articles/-/50208).

永井陽之助(1967)「国家目標としての安全と独立」『平和の代償』中央公論社.

細谷雄一(2012)『国際秩序-18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ』中央公論新社.

細谷雄一(2016)『安保論争』筑摩書房.

細谷雄一(2018)『戦後史の解放Ⅱ 自主独立とは何か 後編-冷戦開始から講和条約まで』新潮社.

細谷雄一(2024)「Positivismは唯一の「適切」で「まっとう」な政治学の方法論か?」(https://note.com/yuichihosoya/n/na1f455e75fff?sub_rt=share_pb).

細谷雄一・東野篤子・小泉悠(2024)「ウクライナ戦争が変えた日本の言論地図-SNSという戦場から」『中央公論』138-4: 18-29.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?