弁明:何をなすべきか?


弁明:何をなすべきか?


はじめに


ある社会学を専攻とする方のツイッター上の呟きを目にして、以下のように呟いた。


これはそうかもしれない。昔、RAの業務で日本社会学会の報告を分類・整理した時、「弱者」に対する関心が突出している一方で、例えば起業家やホワイトカラー、あるいはマジョリティに属するような「恵まれた人」に対する報告はほぼ絶無で驚いた


そして、マイノリティを好んで取り上げる社会学者は、実はみずからのマジョリティ性にあぐらをかいた、強者の余裕の現れに思えた


実はそこに、社会学者の傲慢さと、現代の社会学に対する反発の根っこを見た気がした。あまりにマイノリティと弱者に目を向ける振る舞いは、それ自体が、弱者に同情する強者の傲慢さの現れでもありうるのだと思う


この一連のつぶやきは、私のアカウントにしては大きな反響を得ることになってしまった。様々な方にRTされ、多くの批判的な感想を頂いた。あるいは、目にした。

確かに我ながら、本来ならば言う必要のなかったことを言ったと思う。失言であった。

 とはいえ、それは実際に私が常々、思ってきたことであったという意味では、本心から出た言葉であったし、今でもそうである。その意味で、撤回することはできない。

 そこで本note記事では、私が上記のように考えるその理由についてより詳しく説明してみたい。

恐らく、以下で述べるようなことは、私の「裏返しになった正義感」の発露であり、一種の道徳的潔癖症の症状なのであろう。とすれば、以下の私の意見は、ある病の典型的サンプルとして見ることもできるだろう。様々な「バックラッシュ」に心を痛める人びとにとって、参考になる面もあるかと思う。

 本noteは、3節から構成される。まず、第1節で、社会学者は本当にマイノリティに興味関心を集中させる一方で、マジョリティを分析していないのかという「事実」の問題を明らかにする。次に、第2節で、マイノリティに興味関心を集中させることが、いかなる意味で「傲慢」であると私が考えるのか、その理由について書く。第3節は、私のつぶやきに関する弁明から話題を変えて、「マジョリティ/加害者」を理解することは、その加害を免罪することになるのかという、方法論的/哲学的(さらには神学的)問題についての私見を述べて、何がなされるべきか論じる。


1.「事実」の確認


 まずは、事実を確認したい。社会学会で「マイノリティ研究」は多いか。「マジョリティ研究」はほぼ存在しないのか。この点を明らかにするために、2022年度日本社会学会の全報告317件を対象に、マイノリティに関する質的研究の報告件数とマジョリティに関するそれの数を比較した。


1-1.2022年度日本社会学会の報告の分類


 焦点になるのは、「質的研究におけるマイノリティ/マジョリティ」研究の報告数である。この数え上げのため、日本社会学会の報告を以下のようなスキームに沿って分類した。

①まず、全報告を「経験的事象を対象とする研究(経験的研究)」と、「それ以外の研究(すなわち、純理論・学説史・純方法論的)」に分ける。

②その後、経験的研究を、「もっぱら量的方法を用いる研究」と、「もっぱら質的方法を用いる研究」の二つに分ける。ここで、もっぱら量的方法を用いる研究とは、「統計的仮説検定」を用いる研究や「世論調査」「家計調査」を用いる研究を指す。対して、「もっぱら質的研究を用いる研究」とは、聴き取り、参与観察、文字・音声・映像資料を用いて、分析対象の内面あるいは心理過程あるいはそれらの表出について、分析者による解釈を含むような研究とする。具体的には、歴史資料を使った歴史社会学的研究も、生活史研究も、グラウンデット・セオリー・アプローチも、エスノメソドロジーも全て質的研究と分類される。この量/質研究の分類は、いわゆる「データセット観察」と、「因果プロセス観察」という分類に、一部対応している(コリアー・ブレイディ・シーライト 2014: 201-214))。つまり、エクセルのようなスプレッドシート上で管理できる情報を用いて研究するものを量的と呼び、そうでないものを質的と呼んでいる(なお、QCAは量的研究に分類する)。量的研究と質的研究を併用した混合研究については、質的研究とした。

 以上の基準に従うと、2022年度日本社会学会の317報告は、以下のように分類された。

・経験的研究は255件。報告317件に対して80%が経験的研究である。

・質的研究は156件。報告317件に対して、50%が質的研究。経験的研究255件に対する質的研究は61%。量的研究に対して、質的研究の割合が上回っている。

1-2.マイノリティ/マジョリティ概念の定義について


次に、質的研究156件を、その研究対象によって、「マイノリティに関する研究」「マジョリティに関する研究」「それ以外を対象とした研究」という3つのカテゴリーに分類する。この作業において問題になるのは、「マイノリティ」およびそれと対となる「マジョリティ」概念の定義である。


マイノリティ/マジョリティの定義について


 「マイノリティ」という概念について、そしてそれと対となる「マジョリティ」概念について、以下のように定義しよう。すなわち、マイノリティとは、単なる少数者集団を意味するのではなく、


自らの努力・意思によっては変更できないある社会的属性や特性によって、そうした社会的属性や性格特性を有さない人々によって、不利益を被る集団に属する個人


 を指すものとする。

 このマイノリティの定義は、一般的な直観によく合致するものであろう。例えば、北田暁大はマジョリティ/マイノリティの区別について次のように語っている。すなわち、「ジェンダー、クラス、エスニシティといった社会的な差別におけるマイノリティってのはさ、ちょっと意味が違う(岸・北田2018b: 74)」。ここで、「クラス(階級)」はマイノリティの定義要件から外されているが、ジェンダーやエスニニシティをマイノリティを表すとする北田と、私の定義はほぼ合致している。

さらに、北田氏の発言で見逃せないのは、「社会的な差別」がマイノリティの標識になっているということである。この点は、岸政彦によっても共有されている。「実は日本の社会学、特にマイノリティや差別といったものを対象とした社会学的研究は、この二〇年ぐらい、極端にいえばかなり停滞している部分があります」(岸・北田2018a: 18)。マイノリティと非差別者が並列して語られていることから明らかなように、マイノリティ概念と差別とは、密接に関連している。

このように差別と関連する概念としてマイノリティを把握することの利点は、岸政彦・北田暁大の対談で論じられているように、社会の単なる少数者は、マイノリティではないものとして排除できる点にある。具体的には、「アーティスト」という存在は、美大に進学する程度の文化資本を持っているのであるから、マイノリティではないとされる(岸・北田2018b: 72)。アーティストをマイノリティから排除するという概念化の在り方という点で、私のマイノリティ定義と合致している。

 マイノリティがこのように定義されるならば、マイノリティの対概念となるマジョリティの定義もおのずと定まる。つまり、マジョリティとは、単なる多数派集団に属する個人を指すものではなく、


自らの努力・意思によっては変更できないある社会的属性や性格特性によって、他者から不利益を被ることのない個人


 このようにしてマイノリティ/マジョリティ概念が定義できた。

しかし、このような定義に対して異論を持つある方もあるかもしれない。そこで、次にありうる異論を取り上げよう。


マイノリティ/マジョリティ概念に関する異議について


第1に、そもそも、マイノリティ/マジョリティという区別そのものが便宜的であるという批判があるかもしれない。確かに、マイノリティ/マジョリティ概念は、その便宜性のために使われている言葉であろう。しかし、それを言うならば、全ての概念(および分類)は、特定の便宜のために発明されたものである。「哺乳類」や「民主主義」や「セクシュアル・ハラスメント」といった比較的、抽象的な概念から、「猫」や「家」といった概念まで、全ては何らかの便宜のために発明・開発され、それが特定の観点から認識価値を有するが故に、人々に受け入れられ、流通している。

従って、マイノリティ/マジョリティ概念は単なる便宜に過ぎないという議論は、それ自体では、マイノリティ/マジョリティ概念の有効性を棄却するものではない。被差別的な扱いを受ける集団を指す概念を我々は必要としているのだとすれば、マイノリティ/マジョリティ概念は依然として、有効である。

第2に、「平和で豊かな社会における社会的弱者としてのマイノリティは、マジョリティでもありうる」という指摘があるかもしれない。この言葉遣いは、マイノリティ概念の核にあった筈の、差別的取り扱いを受ける少数者集団という言葉の意味の核を薄め、強者/弱者という概念との混同を引き起こしうる用法になっている。経済的な困窮をもってマイノリティであることにならば、そして経済的に豊か/あるいは安定していることを持ってマジョリティとなるならば、そこでは、マイノリティ/マジョリティ概念と弱者/強者概念が混同されている。

確かに、マイノリティは体系的に不当な扱いを受けるのだから、社会的に見れば、経済的には弱者であることが多いであろう。つまり、マイノリティは経済的には弱者であることが多いであろう。しかし、経済的に弱者であることは、マイノリティであることを意味しないだろう。逆は必ずしも真ならず、である。

この点、私の元ツイート自体が確かに混乱を呼ぶものであった。つまり、


昔、RAの業務で日本社会学会の報告を分類・整理した時、「弱者」に対する関心が突出している一方で、例えば起業家やホワイトカラー、あるいはマジョリティに属するような「恵まれた人」に対する報告はほぼ絶無で驚いた。そして、マイノリティを好んで取り上げる社会学者は、実はみずからのマジョリティ性にあぐらをかいた、強者の余裕の現れに思えた。実はそこに、社会学者の傲慢さと、現代の社会学に対する反発の根っこを見た気がした。あまりにマイノリティと弱者に目を向ける振る舞いは、それ自体が、弱者に同情する強者の傲慢さの現れでもありうるのだと思う。


この一連の呟きは、マイノリティ/マジョリティ概念と(社会的)弱者/強者の混同を引き起こすものである。この点、お詫びして訂正したい。マイノリティ/マジョリティ概念と弱者/強者概念は、ひとまずは区別されたものとして扱われねばならない。しかし、この二つは以下で見るような操作的定義の段階では、やはり密接に関連してくる。次にこの点を見てみよう。


マジョリティ概念の操作定義について


ここでは、数え上げにあたってのマイノリティ/マジョリティ概念の操作定義を与える。

まず、「マイノリティに関する研究」については、それを特定するのは比較的、容易である。被差別集団に関する研究は、マイノリティ研究であると言えるからである。

確かに、「女性」をもっぱら研究対象する研究もまた、マイノリティ研究に含まれるかという問題がある。明らかに、女性という属性による社会的差別は存在する以上、女性を対象とする研究はマイノリティ研究と言える。他方、マイノリティの本来の意味であるところの「少数派」という意味では、女性を対象とする研究はマイノリティ研究ではない。

この問題は原理的には厄介ではあるが、実際的にはさほどの問題を引き起こすものではない。単に、二通りの方法で測定すればよいからである。つまり、第1の測定法では、女性を主な対象とする研究はマイノリティ研究ではないものとし、第2の測定法では女性に関する研究をマイノリティ研究だとすればよい。すなわち、


マイノリティの操作定義1:女性を対象とする研究は、マイノリティ研究ではない。

マイノリティの操作定義2:女性を対象とする研究も、マイノリティ研究である。


一方、「マジョリティに関する研究」が何を指すのかを捉えるのはより難しい。明らかに、明白な差別を受ける集団=マイノリティを対象とするものではない研究を全て、マジョリティ研究であると捉えるのは無理がある。例えば、「地下アイドルの研究」や「すし職人の研究」、「バンドマンの研究」は、マイノリティ研究とは言えない。しかし、マジョリティの研究であると言われても、それに納得する人は少ないであろう。そもそも地下アイドルやすし職人、そしてバンドマンが被差別集団に属する可能性を否定できない。地下アイドルは、上述のようなマイノリティ/マジョリティ概念の定義とは無関係だからである。

とすれば、この世界にはマイノリティ研究は存在しても、マジョリティ研究というものは存在しないのだろうか。

もちろん、そうとは言えない。

マイノリティ研究は、マイノリティ属性を有する研究対象を選び出すものである。であるならば、マジョリティ研究とは、マイノリティ属性を有さない人という形で、研究対象を選び出すものとなる。もしもマイノリティ特性を持たない人(一言で言えば「不当な差別を受けていない人」)という形で調査対象を選択する研究が存在すれば、それは当然、「マジョリティ研究」となる。これを、狭い操作定義によるマジョリティ研究としよう。


マジョリティの操作定義1:もし「マイノリティ特性を持たない人」を選ぶという形で調査対象を選択する研究が存在すれば、それは「マジョリティ研究」となる


ただし、一読して分かるように、このマジョリティ研究の操作定義は厳格である一方で、この概念化に当てはまる研究はほとんどなさそうである。

そこで、次善の策として、マジョリティにより緩い操作的な定義を定めることにしよう。

第2の操作定義として、以下を与えよう。


マジョリティの操作定義2:マイノリティに対する差別者を研究対象とする場合、それはマジョリティ研究となる。


この点については、それほどの異論はないだろう。特定の属性を持つマイノリティを差別する者は、マジョリティに属していると考えられるからである。マジョリティ全員がマイノリティの差別者ではないにせよ、差別する者はマジョリティに属する筈である。

さらに第3の操作定義を与えよう。繰り返しとなるが、マジョリティの定義とは、一言で言えば、不当な差別を受けていないことであった。そして、不当な差別を体系的に受けるならば、当然、社会的に優位なポジションを占めることは難しくなろう。社会的威信の高い職業についていること、関連して高所得であること、あるいは高学歴であることもまた、一つのマジョリティの操作定義と呼びうるだろう。これらの諸特性によって研究対象が選択されている場合には、これらを「マジョリティ研究」としよう。


マジョリティの操作定義3:社会的威信の高い職業、高所得であること、高学歴であるという社会的属性に着目して研究対象を選んでいる場合、それはマジョリティ研究となる


もちろん、これらの人々は、「エリート」あるいは「強者」とも呼びうる存在でもある。ここで概念の包含関係が問題となってくる。当然、不当な差別を受けていないマジョリティ全員がエリートであるわけではないからである。しかし、エリートは普通、マジョリティであろう。

ここで、操作定義を緩めることに伴う弊害が表面化している。マイノリティ/マジョリティ概念と、弱者/強者概念との混同が起きかねないのである。この操作定義3によっては、社会における「少数者」であるエリートがマジョリティとされている。もしこの点だけを取り出してマイノリティ/マジョリティの定義としてしまうと、社会の恵まれた層=エリート=マジョリティということになる。すると当然、社会の恵まれない層=大衆=マイノリティという概念図式が対立することになる。しかし、これは明らかにおかしい。大衆は、絶対に「少数派」という意味では「マイノリティ」ではないからである。

先に述べたように、エリートは、マジョリティに属することが多いであろう。しかし、マジョリティはエリートではない。概念の包含関係を意識しない場合には、大衆をマイノリティとみるような誤謬が発生するので注意が必要である。


1-3.社会学の質的研究におけるマイノリティ/マジョリティ/その他の研究件数


 以上で、一通りの概念的な準備作業を終えることができたと思うので、2022年度社会学会の質的研究156件を、その研究対象の観点から分類できる。

 第1に、「女性」を含まない狭い定義によるマイノリティ研究の件数は、29件であった。29件という数字は、全報告数317件に対しては約9%であり、質的研究156件に対しては19%を占める。

 第2に、「女性」をマイノリティに含む広い定義によれば、マイノリティ研究の総数は57件である。全報告に対しては17%、質的研究に占めるパーセンテージは37%であった。

 他方で、「マジョリティ研究」に当てはまる研究は、操作定義1、操作定義2、操作定義3のいずれによっても、その件数は0件であった。

 このように、日本の社会学における質的調査は、マイノリティ(および経済的弱者)を主要な研究対象とする一方で、マジョリティ(および経済的強者)を研究対象としていないと結論づけても差し支えないだろう。

 以上の数え上げを行うにあたって筆者が作成したデータセットは、エクセル・ファイル形式で保有している。ご興味がある方は連絡を下されば提供する。


1-4.問い


 以上の2022年日本社会学会の報告から明らかになった「事実」は、おそらくさほど驚くべきものでもない。例えば、岸の以下のような発言を見よう。

 

質的やってる研究者が共同で使えるような蓄積が欲しい。たとえば、在日コリアンのアイデンティティ、沖縄の労働力移動、セクシュアルマイノリティの家族、被差別部落の新しい社会運動、ホームレスの生活戦略……みたいに、異なるテーマで調査をやってるフィールドワーカーたちが共通で参照できるものって、そう多くはないんです(岸・北田2018c: 123)。


社会学における質的研究を知悉しているであろう岸が挙げる「質的研究」の事例は、やはり「マイノリティ」と「経済的弱者」研究を念頭に置いているものと読める。それは、自明なことであって、おそらく説明を要する事態ではないのである。

とはいえ、筆者はここには解くべき謎を見る。常識的に考えれば、個々の社会学者は、様々に異なる動機から研究に従事するものであろう。実際、「その他」に分類された研究成果は、社会における様々な人々を研究対象としている。

その一方で、集合的に見た場合、特に質的方法をとる社会学者は、マイノリティにより注意を向ける一方で、マジョリティを研究対象としていない。あるいは、弱者に目を向ける一方、強者を分析対象としてはいない。大学院生を指導する立場にある指導教官が、指導学生がマジョリティあるいは強者を研究することを妨害しているといった陰謀論的解釈を取らないのであれば、ここではやはり何か奇妙な事態が進行している。

端的に、マジョリティについて、日本の社会学者は解くべき謎を見出さないのであろうか。素朴に考えて、マイノリティに対する差別現象を理解するためには、差別を(意識的/無意識的に)する側のマジョリティを研究する必要はないのか。実際、アメリカ社会学会ではマジョリティに属する対象の研究もあるようであるから、日本社会学会に見られるパターンは、一体何に由来するのか。「ネオ・リベラリズム」や「排外主義」や「差別」や「ポピュリズム」を分析したいとすれば、当然、ネオ・リベラリズムを信奉あるいはその価値を内面化している人、排外主義者や差別者、ポピュリズムの支持者に関する分析を必要とするのではないか。「リベラル」な観点からすればいかに逸脱し、歪んでいるとしても、そうした逸脱あるいは歪みを分析することで、社会の在り方を逆説的に明らかにするというアプローチは、社会学の十八番であったのではないか。

マイノリティ研究は実際にはマジョリティ研究でもある(マジョリティの在り方に関する洞察を含む)という意見もあるかもしれない。それはそうかもしれない。とはいえ、そのような迂回的な方法をほとんどの研究者が採用している事態は、やはり謎である。

なお以上の指摘は、ただちに社会学に対する批判であるとは捉えて欲しくない。筆者の属する政治系学会にも、体系的にオミットされている研究対象は存在するであろう。その意味では、政治学会に対する同様の分析を通じて、見落とされている対象を明らかにする作業が行われるべきかもしれない。例えば、女性を除けば、政治学会ではマイノリティに関する研究は、ほぼ見当たらないように思われる。


2.マイノリティ研究についての一つの考察:「傲慢」について


 さて、多くの人に不快感を与えたのは、私の使った「傲慢でありうる」という言葉であったと思う。本節では、この傲慢という言葉を使った理由を説明する。

まず、率直に言って、私は当のつぶやきに大きな反響があったこと自体に驚いた。確かに、傲慢は侮辱語である。怒るのは当然であると思われるかもしれない。しかし、よく読まれているとされる、質的調査法の教科書『質的社会調査の方法-他者の合理性の理解社会学』(岸・石岡・丸山2016)の岸政彦の筆になる「序章」において、「周辺的な人びとやマイノリティ」に対する「軽々しく理解しようとするのは、暴力です」と書かれている(岸2016: 32)。

であれば、私が、調査者は暴力を振るいうると書けば、今回のようなハレーションはなかったのだろうか。「暴力でありうる」はよくて、「傲慢でありうる」はなぜダメなのか。あるいは、実際にマイノリティを調査している人が、自らの営みを暴力であると形容するのは許されるが、部外者にそうしたことを言われるのは許せないということなのであろうか。

本節ではまず、マイノリティ関する調査研究の何が「暴力」であるかについて考えてみたい。その上で、「傲慢」という言葉を使ったときに私が言いたかったことを敷衍してみたい。


2-1.暴力と不愉快について


マイノリティに対する調査研究がいかなる意味で「暴力」なのか。


 マイノリティ理解と暴力

 

まず述べておきたいことは、残念ながら、教科書『質的社会調査の方法』教科書においても、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』においても、また私が読んだ他の書籍においても、マイノリティ研究の何が暴力となるのかについて、説得力のある議論は展開されていないということである。

 というのは、『質的社会調査の方法』では、以下のように述べられているだけだからである。引用してみよう。


 私たちは、他者(筆者注:周辺的な人びとや、マイノリティの人びとのことをおおまかに指すものとされる)を「完全に」理解することは絶対にできません。そもそも私たちは、自分自身でさえちゃんと理解できているかどうかも確かではありません(岸2016: 32)


 岸は続けて次のように言う。


 たとえば、深刻な差別や暴力、あるいは大きな事件や事故の被害にあった人びとがどれほど辛い思いをしたか、どれほど「しんどい」毎日を送っている、ということは私たちマジョシティには計り知ることができません。それを簡単に「わかった」と言ってしまうのは、とても暴力的なことです(岸2016: 32)。


 たとえば、深刻な差別の被害者、あるいは大きな自然災害の被災者。または、過酷な労働条件で働く人びとや、孤立して生きる高齢者たち。こうした人びとを「合理的な存在」として描くことは、どこかしら不遜な、その経験やしんどさを軽々しく扱ってしまうことのような印象を受けます。そうした「経験そのもの」は、私たち第三者には、永遠に「そのままの形で」理解することはできないでしょう(岸2016: 33)。


あるいは、『マンゴーと手榴弾』中の「鍵括弧を外すこと―――ポスト構築主義社会学の方法」では次のように言われる。


 何らかの一般化をおこなう調査であれば、生活史でも参与観察でも、それは必ず暴力とな

 る(岸2018: 86)


次のようにも言われる。


 語り手の語りの引用符を外して、私たちが地の文で書く。語られた言葉を書かれた文字に翻訳することが、要するに調査する、ということなのだ。

  したがって、すべての調査は何らかの翻訳や解釈、あるいはカテゴリー化を含む。そして、調査者がマジョリティで、被調査者がマイノリティの場合は特に、その翻訳やカテゴリー化が、直接・間接の暴力を含むことがありうるし、あるいは場合によっては、それは暴力そのものでもありうるのである(岸2018: 108)。


 さて、岸の一連の記述は、ごく一般的なことを語っている。私たちは、私たち自身をも理解できない。私たちとは大きく異なる「しんどい」立場にある「他者」を理解することもできない。調査は、翻訳や解釈やカテゴリー化を含む。

しかし、全ての調査にそうした抽象化の操作が含まれ、また、そもそもしんどい人を理解するのが難しいというだけならば、被調査者がマイノリティであるか否かには関係がない。マジョリティに属していても、何らかの自然災害にあった人、交通事故で家族を失った人たちも当然、「しんどい」思いをしているからである。

換言すれば、マイノリティに属する者を、調査し、カテゴリー化し、理解しようとする場合に、何が暴力となるのかは、特定されていないのである。その特定の代わりに、単に、私たち自身を理解するのも難しく、また様々な不運に遭った人を理解するのは難しいというごく一般的なことが述べられている。マイノリティを理解しようとすることが、なぜ殊更、暴力的であるのかについては、解明されていないと言えよう。

 


マイノリティ理解の何が特段、暴力的なのか?


そこで、マイノリティを「理解」しようとすることが、なぜ殊更、「暴力的」になりうるかについて考えてみよう。

私が教師という立場で、教室で授業をしているとしよう。あるマイノリティ属性を持つ学生が授業を受講しているとする。もし私が、そのマイノリティに属する学生に対して、「マイノリティとして、特定の問題についてどう考えるか」を問うたとすれば、それは一つの、ハラスメントとまでは言わないにせよ、マナー違反とは見なされるだろう。この点は、今や広く合意があると思われる。

しかし、なぜマイノリティに対してそのマイノリティの立場からの意見を聞いてはいけないのか。

明白な理由は、当然、「マイノリティ」の代表として意見を表明する義務は有さないし、教師の側に学生にマイノリティを代表させる権利を持たないというものであろう。しかし、これではまだ敷衍が足りない。外国に行った日本人が、日本人を代表して話すといった場合には、そうした禁忌は存在しないか、弱いと考えられるからである。例えば、中国からの留学生に対して、「中国出身者としてこの問題をどう考えるか?」を問うことは、マイノリティに対してマイノリティを代表して意見を聞くことよりも抵抗感は少ないと多くの人は思うだろう。とすれば、なぜ「マイノリティに属することが周知されている場合であっても、マイノリティにマイノリティとしての意見を聞いてはいけないのか?」という問いが現れてくる。何故か?

私の考えでは、それは「差別」の裏返しになっているからである。

先に定義したように、マイノリティに対する差別とは、その個人の人格・性格・能力といった要素ではなく、先天的に与えられた特定の一つの属性にのみ着目して、不利な取り扱いを行うというものであった。差別の恐るべき点は、自分ではどうすることもできない点に基づいて、不利益を与え、またその結果として、その個人に対して「何をしても現状を変えることはできない」という絶望を植え付けることで、その生を荒廃させることにある。

ここで、マイノリティ属性に基づいて特定の個人に着目して、発言を求めるというその行為自体に、差別との類似性を見出せる。ある学生を、マイノリティ属性のみに着目して選び出し、発言を求めるという行為は、それが「不利益を与える取り扱い」をもたらすものでなくとも、やはり差別に類似してくる。

マイノリティに属するが故に発言を求められたその学生は、言いたくなるのではないか。「私を、一個の人格をもつ存在として遇せ。私のマイノリティ属性ばかりに注意を向けるな。それは差別者の眼差しである」。

私の理解するところ、自らの全人格ではなく、特定のマイノリティ属性のみに着目して注意を向けられることそのものが、「差別」を想起させる不愉快な経験なのである。

もちろん以上のことは、その学生と接するにあたって、そのマイノリティ属性を完全に捨象して接するべきであるということを意味しない。その学生にとっては、そのマイノリティ属性もまた、自らのアイデンティティを定義づける重要な一要素であるのはほぼ間違いないからである。その学生と親しくなり、相互に信頼が醸成されることがあったならば、その学生に対して、「マイノリティとしての」意見を尋ねることが許される状況はあるかもしれない。一律に何かを述べることはできそうにもない。

 このように考えてみると、マイノリティに対する「理解」、あるいは調査研究の対象とすることそのものが暴力的であるという先の一般通念の意味もよく把握できるように思われる。マイノリティの質的研究者は当然、調査対象を選び出すにあたって、特定のマイノリティ属性を有するか否かという基準を用いざるを得ない。そして、その接近の動機はマイノリティの「理解」であるのだから、個々の全人格ではなく、特定のマイノリティ属性によって、接近する対象を選択していることになる。このような種類の人間に対する向き合い方は、通常の(マジョリティどうしの)人間の接近の在り方ではない。むしろ、差別者によるマイノリティに対する向き合い方に、その本質において接近している。

 私の考えでは、これがマイノリティに対する調査研究の「暴力」の本質である。なお、私はここで、「暴力」という強い言葉を使う必要はないかもしれないと思う。そこで「不愉快な経験」であると言うことにする。マイノリティを調査研究の対象とするそのアプローチそのものが、相手に不愉快を与えるのだ。

 更に言えば、マイノリティ属性に着目して人びとにアプローチするという在り方は、それ自体が「その人の不幸」ではなく、「その集団の不幸」に対して目を向けたものである。このように考えていると、ハンナ・アーレントが批判する「憐れみ」という感情の動きに接近してくる。

 アーレントは、その主著の一つ『革命論』において、他人に対する「同情」と「憐れみ」という感情を区別している。筆者はアーレントには疎いのであるが、河野勝と三村憲弘が明確な紹介を行っているので、長くなるが、重要な指摘であるので、それを紹介しておこう。「同情」と「憐れみ」という二つを、アーレントは次のように区別する。


同情について、アーレントは、それが苦難を被っている他者との「共苦(”co-suffering”)」を通じて生じる感情であると定義している(・・・)アーレントは、同情という感情が「単一性(singularity)もしくは「個別(the particular)」志向性とでも呼ぶべき特徴をもつことを強調する。すなわち、同情の対象としての他者は、あくまで苦しんでいる個人にとどまる(・・・)同情という感情は、アーレントによれば、「一般化する能力(capacity for generalization)」をもたない(河野・三村2015: 67)。


これに対して、


憐れみは「感傷(sentiment)である(・・・)。一般に、感傷とは、他者をめぐる心の動きではなく、むしろ自分自身の空想の中で満たされる欲望に関係している。そこで、極端にいえば、憐れみを感じる者にとっては、他者が被っている苦難は(自分が描くシナリオの一要素として)空想上の欲望を充足するために利用されるにすぎない(河野・三村 2015: 68)。


さらに、河野と三村によれば、アーレントの同情と憐れみを次のような差異を有する。つまり、


不遇を強いられている対象との心理的な距離あるいは位置関係という点で、アーレントの区別する同情と憐れみとは、およそ対照的だといえる。同情が「共苦」から生まれるという時、アーレントは同情を寄せる者と苦しむ他者とのあいだの距離が一挙に飛び越えられると考えている(・・・)目を覆いたくなるような悲惨な境遇を強いられている人々をみると、われわれは自分自身も同じような苦難をこうむる可能性がある(あった)かもしれないと感じる。それは、いってみれば二人の立場が代替可能であるという感覚である。この感覚が自分を苦難の当事者として想像することを可能にし、アーレントのいう同情が成立する(河野・三村2015: 68)


他方で、憐れみはどうか。


アーレントのいう憐れみのもとでは、憐れむ側と憐れみの対象との間の位置関係は、あくまで非対称的である。そして、自分は苦難の当事者でなくそれを観察している者にすぎないという心理上の距離が前提となり、憐れみは一般化された集団―――「恵まれない人びと」や「貧しい者たち」―――に対しても向けられることになる。このことの延長として、アーレントは、憐れみという心の動きが、苦難を被っている人々を自らの力では変革できない無力な者として見下すようになる可能性を指摘している。つまり、彼らは、外部からの支援がなければ自己統治ができない存在であり、いつしか外部からの介入を求める者たちと見なされるというのである。ここに、アーレントは憐れみが「権力への渇望(thirst for power)」をうちに宿しているとして、その政治的危険性を嗅ぎ取っている(河野・三村2015: 68-69)。


 アーレントは、憐れみという感情には権力あるいは支配への渇望が潜んでいると述べる。インターネット上の「ポリコレ棒で殴る」といった形で寄せられる、リベラルの正しさに対する揶揄は、正しさを希求する人々の振る舞いに時に感じられる、その「力への意思」に対する嗅覚を表現するものであろう。

私は、マイノリティを調査研究する研究者が、実際には力への意思に駆動されていると言うつもりはない。それは、その性質上、個々の研究者の内面に深く踏み込まねば言い得ないことだからである。一面識もない人に対して、そのような判断を下す材料を私は持たない。ただし、自らの苦しさの源泉を理解するために、あるマイノリティ集団を研究対象として選んでいるならば、先のアーレントによる「憐れみ」に対する批判は当てはまるかもしれない。自らの苦しさの所在を知的に把握したいならば、自らを分析の対象とすることができるし、そうすることが推奨される。

とはいえもちろん、他人の内心を穿鑿して、誰が最も「道徳的」であるかを競争するのは不毛である。他人が偽善的であることを暴露し非難したとしても、その暴露者が、当の偽善を行った側より道徳的であるとは限らない。告発した側が、告発したことによってより善に近くなることもない。そもそも、労多くして現世的な益は少ない研究という営みに従事する以上、マイノリティ研究者は、マイノリティの置かれた状況に心底、心を痛め、彼ら彼女らに対して何らかの役に立ちたいと真摯に考えていると想定するのが自然である。私は、そのことを認める。

とはいえ、マイノリティを調査し、研究するという営み自身の中に、相手に「不愉快」を与える側面が存在するということは疑い得ないと私は思う。ここには、マイノリティを調査研究するという営みに原理的に潜む、乗り越え難い倫理的なジレンマがある。

岸は、次のように言う。


質的調査を長年続けていると、理解されることを拒否される、という経験が数多くあると思います。私たちも調査現場で、実際にそのような拒否に出会ってきました。安易な理解に傷ついたことのある人や、私たちに対して信頼関係を作ることを拒む人も少なくありませんが、そもそも調査される側に立つということに違和感を表明されることも、ほんとうにたくさんあります(岸2016: 35)。


ここで言われる調査される側に立つことの違和感の源泉について、私は一つの説明を与えることができたのではないかと思う。


2-2.傲慢と偽善について

 

以上のような認識から、筆者による「傲慢」という言葉が導かれてくる。調査研究がマイノリティに対して不愉快を与えるものであるにもかかわらず、自分はそこに潜む「暴力性」をよく理解し洞察しているが故に、自分にはマイノリティを調査研究して不愉快を与える権利があると思っているとするならば、その心性はやはり「傲慢」と呼んで差し支えないだろう。いったい誰が、研究者に他人に不愉快を与える権利を与えたのか、と問いうるからである。以上が、私が「傲慢でありうる」とツイッターに呟いた時に言いたかったことである。

なお、私の書き込みを「偽善である」という批判と解された方がいらっしゃったようである。以上から、私の趣旨が、「偽善」であるという批判ではなかったことが読者の方に納得して貰えていると嬉しい。もしアーレントに倣って、筆者がマイノリティ研究は研究者によるマイノリティの(アーレント的な意味での)「憐れみ」に駆動されたものであり、従って、「権力への渇望」をうちに宿しているという意味のものであったならば、確かにそれは「偽善」であるという批判である。

しかし、筆者の言いたかったことは、その手前、すなわち特定の人に対して、マイノリティという属性に着目して接近し、「研究」し、その研究成果をマイノリティに関する人間集団に関する知見として報告するという営みのうちに必然的に、人をその全人格ではなく、特定の一側面に即して把握するという働きが必然的に含まれるというものであった。ここでは、偽善は、適切な言葉ではない。傲慢こそが、やはり適切である。

なお、「偽善」について、一点補足しておきたい。私のつぶやきが「マイノリティ研究者は偽善者である」というものであったとしよう。そうだとしても、私が目にすることのできた反応は、違和感が残るものであった。というのは、一般に、「それは偽善だ」という批判あるいは難癖に対しては、「偽善だとして、それが何か?やらない善よりも、やる偽善である」というシンプルな応答がありうるからである。

アーレントの言う「同情」のような、やましい動機に駆動されているという意味で偽善であろうが何だろうが、その行為の結果が善であるならば、言われた側は平然としていられる。だが、積極的に検索したわけではないが、ツイッターのタイムラインを眺める限りで、そうした応答は見つからなかった。ということは、研究者たちは、マイノリティの研究を通じて研究費を国から支給され、あるいは生計を立てつつ、善をなしていると胸を張ることができないのだろうか?


2-3.マイノリティに関する調査研究の意義について


急いで付け加えておくが、傲慢であろうが何であろうが、マイノリティの研究が行われるべき理由はある。調査研究の営みが対象に不愉快を与えるものであらざるを得ないとしても、その成果が、調査研究が引き起こす不愉快を上回るような利益を与えるならば、その営みは当然、正当化される。例えば、岸は、時に「ブルジョワ」と批判されつつも、社会学者たちが地道に積み上げてきた調査を高く評価している(e.g., 岸・北田2018a: 15)。筆者もまた、そのような立場に同意する。自治体から委託されて行われたそれらの調査研究は、行政官が政策を立案・実行する際に依拠する、貴重な資料となったことは間違いない。

それらの基礎資料は、公共のものとして、差別是正を求める団体や人間にとって、また差別問題の教育者にとっても、重要な基礎資料になったであろう。例えば、辛淑玉と野中広務の対談本『差別と日本人』(辛・野中2009)において、辛は、差別に関する教育がしっかりしている地域とそうではない地域では、非差別者の子どもたちの顔がハッキリと違うと言っている。そして、そのような教育の実行にあたっては、研究者たちの地道な調査の貢献もあったと考えるのが自然である。

また、義務教育段階から人権教育が盛んな京都市の公立学校を出た身として、他地域の出身者が基礎的な知識を持っていないことに驚いたことがある。そういう学生に対して、大学レベルで基礎的な人権教育を行う上でも、研究成果の蓄積は有効であろう。要するに、マイノリティに対する調査研究は、それが与える不愉快を超える利益を与えうる。このことに、疑いの余地は全くない。

まとめよう。マイノリティに関する調査研究は、やはり非常に厳しい仕事であるこが分かる。常に、自らがマイノリティに対して不愉快を与えることを認識し、自らの動機がアーレントの言う「憐れみ」に堕するのを戒めつつ、しばしば辛い現実を見据えて、有益な成果を上げなければならない。そのような困難な事業に従事されている方に私は敬意を払う。

しかしここで、素朴な疑問が生じてくる。もしマイノリティに関する調査研究が高い道徳性と実効性を求められるのであれば、そのような難しい仕事に直接、挑む必要はないのではないか。具体的には、マイノリティではなくマジョリティを、被差別者ではなく差別者を調査すれば良いのではないか。マジョリティや差別者を調査研究するのであれば、マイノリティ研究ほどの高い道徳的・実効的なスタンダードを求められることはない。確かに、自らと根本的に価値観が異なる者を調査し、理解するのは、ストレスフルではあろう。しかし、マイノリティに対する差別を是正するという観点から見るならば、差別者がなぜ差別するのかという問題を明らかにすることでも、有益な知見を提供できるだろう。

こうして、前節最後の問いに戻ってくることになった。なぜ社会学者はマジョリティや差別者や現体制における強者を調査研究の対象としないのか?

ここで焦点になるのが、「理解」という方法の持つ特性の評価である。


3.理解に関する方法論的/哲学的/神学的な考察


第2節までで、冒頭に挙げた私のツイッターにおける呟きについての弁明は大方、終えることができた。これまで、いわゆる質的研究と「理解」という言葉を、その内実に触れることなく無造作に使ってきた。しかし、実はこの理解という方法の特性こそが、ツイッター上での激しいやり取りをもたらした原因であると私は考えている。本節では、この点について筆者の考えるところを述べていきたい。


3-1.「理解」の方法論的な特性


岸は、『マンゴーと手榴弾』の最終章「タバコとココアー「人間に関する理論」のために」で次のように書いている。


質的社会学にもしなんらかの意味があるとすればこの点においてである。私たちの人生は、再現不可能な一回限りの状況における、再現不可能な一回限りの行為や選択の連続である。こうした状況や行為をひたすら観察し記録することに意味があるとすれば、それはそれらの状況や行為がすべて、なんらかのかたちで「人間に関する理論」を豊かにしてくるからである。

「人間に関する理論」とは何か。それは、そのような状況であればそのような行為をおこなうことも無理はない、ということの「理解」の集まりであり、あるいはまた、そのような状況でなされたそのような行為にどれほどの責任があるだろうか、ということを考えなおさせるような「理解」の集まりである(岸2018: 340)


ここでは、「人間に関する理論」として、少なくとも二つのことが述べられている。

①状況から行為を説明するという形での理解。②その理解がもたらす責任の所在の問い直し。

②の責任にまつわる倫理的問題は、次項で扱うことにして、まず、①の状況による行為の理解という方法の特性について論じよう。

状況に訴えることによる行為の理解という方法は、岸の独創ではない。例えば、ある国際政治史家は、ほぼ同じことを述べている。曰く、「徹底した実証主義歴史学者は、環境決定論者である。彼らは、みずからの発見した法則や理論を政策決定者たちの過去の行動と組み合わせると、個人の行動は選択の余地がないほどに限られたものになると主張する」(ペルツ2003: 83).


思考プロセスの追体験は、必ずしも直感的なものではなく、むしろ思考プロセスを実証的に再構成するものである。ここで歴史学者は、特定の情報、経験、期待、目的を持つ合理的アクターは同じような状況に直面した場合、似たように行動すると仮定しているのである (ペルツ2003: 85)


この国際政治史家が使う「追体験」という言葉は、当然、歴史哲学者コリングウッドの『歴史の観念』を背景とした表現であろう。コリングウッドは、その著名な一節で、次のように書く。「歴史家が常に銘記しておかねばならぬことは、出来事は行為であり、歴史家の主要任務は思考によってその行為内に自己を投入し、行為者の思考を見分けることである」(コリングウッド2023: 229)。


だが、自身が発見せんとする思考を、歴史家はいかに見分けるか?その可能な方法は唯一つ、つまり自身の心中でその思考を再思考することである(・・・)思考の歴史は、従って、すべての歴史は、過去の思考を歴史家自身の心中で追体験することである(コリングウッド2023: 231)


例えば、歴史家がテオドシウス二世法典を読み、また、ある皇帝が発したある勅令を前にしたとする。字面を読んで翻訳できるというだけでは、両記録が持つ歴史的意義を認識したことにはならない。これを認識するためには、その皇帝が対処せんとした事態を心に描き、皇帝が事態を直視したように、自身もまた、これを直視しなければならない、そして、皇帝の立場が自分自身の立場であるかのように、そうした事態への対処法を自力で見出さなければならない。考えうる選択的手段を見出し、また一手段が他の手段にまさると考えられる理由を見出して、前記の特定方針を皇帝が決定するまでの一貫した過程を自身で歩まなければならない。こうして、歴史家は自身の心中で皇帝の経験を追体験する。そして、かくすることによって初めて、問題の勅令に関して、いやしくも単なる文献学的知識ならぬ歴史学的知識を歴史家は獲得する(コリングウッド2023: 306)


 このコリングウッド『歴史の観念』の一節は、K・ポパーがその歴史方法論を論じる際に、相当程度まで同意すると述べた部分である(Popper 1969: 197)。ポパー自身の定式化によれば、「歴史的説明は、被説明項―――歴史家が説明しようとしている歴史的出来事―――へと導いた状況を再構成するという方法によって機能」する(ポパー2014: 167)。この方法を、ポパーは「状況論理の方法」と述べ、その自伝において簡潔に次のように表現している。


その主眼点は経済学的理論(限界効用理論)の方法を他の社会諸科学に適用できるように一般化する企てであった。私ののちの定式化では、この方法は、行為者の行為の合理性(ゼロ性格)を説明するような仕方で、行為者が行為しているところの、特に制度的状況を含む、社会的状況のモデルを構成するところから成っている。さらに、そのようなモデルは社会科学のテスト可能な仮説である(ポパー: 1978: 165)。


岸の理解の方法とポパーの「状況の論理」との近接性は、北田暁大によって既に指摘されている通りである(岸政彦・北田暁大2018c: 138)。


明示的にはコリングウッドやポパーの歴史方法論に言及することのない岸による「理解」の事例もまた、上で述べた構造を取っている。『マンゴーと手榴弾』の「爆音のもとで暮らすー選択と責任について」を取り上げよう。この章は、「軍機の離着陸に伴うすさまじい爆音が日常である普天間基地の真横に家を建て、住む」という行為を選んだWさん(42歳女性)に対するインタビューを記録したものである。

轟音で家が震え、夫婦仲も悪くなり、猫がストレスで体調を崩す普天間基地の隣に、その女性は、家を建てた。その選択は、「自己責任」ではないかという指摘されませんかという岸の問いかけに対して、Wさんは、「選択の可能性はもちろんある」(岸2018: 299)としつつ、自らの決定を次のように説明する。つまり、「蛍がたくさん出る」ことに加えて(岸2018: 293)、


いろいろな条件のなかで、私たちだったらひとり暮らしの母もいて、介護も間近になりそうだとかっていう状況があって、仕事も続けていかないといけなくて、そしたら、高速エリアっていうのはやっぱり最重要ポイントだったんですね。

 だからそういうこととか、猫のこととかを考えたら、みたいな感じの、そういう選択のしかたのなかで選んだんだけど(岸2018: 299)。


騒音のことについては、知らなかった。何故なら、不動産屋は、音のことについて一切、言わなかったし(岸2018: 294)、コザ(沖縄市)出身であったWさんにとっては、爆音は分かっているつもりであったからである(岸2018: 291)。


 それは暮らしてみるまではちょっとわからない。沖縄ってね、どこでもほんとに飛行機(軍用機)は飛んでるから、暮らしてみるまでわからないぐらいのものがあって。それは、自己責任だと言われると……やっぱり私たちの責任かなあ、って思ってるんです(岸2018: 300)


ここで、Wさんの普天間基地の隣に家を建てて住むという行為は、(Wさん自身によって)行為に先立つ様々な状況に言及することで、その騒音の激しいに関する情報の欠如を含め、説明されていることがわかる。このとき、その「基地の隣に家を建てて住む」という行為は、その行為に先立つ状況に言及することで説明されている。そしてまた、もし同じ状況に置かれ、同じ情報を持っていたならば、私も(誰でも)Wさんと同じことをしたのではないかと岸は暗黙のうちに述べているのである

そこで、この理解の方法を、もう少し図式的に表現してみよう。すなわち理解の方法とは、


①時間的に先行する諸状況

②行為者の情報・欲求・信念

③行為


という形で、2段階に分けて行為を説明するものである。

ここで、まず最終的に説明したい被説明項である③の「行為」は、行為に先立つものとして措定される行為者の心理的な状況、すなわち、②「入手しえた情報・行為者の欲求・行為者の信念」によって説明される。

そして、②の「入手した情報・行為者の欲求・行為者の信念」は、更に遡って、①の「先行する諸条件」によって説明される。

ここでポイントとなるのは、①の先行する諸条件によって説明される中間項②の「行為者の情報・欲求・信念」は、スキップ可能であるという点にある。すなわち、理解の方法は、①先行する諸条件→③行為者の行為という形で因果関係を短絡させるものだと言える。

ここから、重要な論点が導かれてくる。もう一度、岸の言葉を引用しよう。


「人間に関する理論」とは何か。それは、そのような状況であればそのような行為をおこなうことも無理はない、ということの「理解」の集まりであり、あるいはまた、そのような状況でなされたそのような行為にどれほどの責任があるだろうか、ということを考えなおさせるような「理解」の集まりである

 

このようにして、先に保留しておいた「理解がもたらす責任の所在の問い直し」という論点が導かれた。次にこの問題を扱おう。


3-2.理解という方法の倫理的な問題

 

岸は、理解の方法は、(それが成功した場合に)行為者を責任解除できるとする。


社会調査、とくに生活史やエスノグラフィーって、対象になっている人びとの行為の理解を通じて、「誰でもこの状況だったらこうするだろうな」という感覚を広げていくことで、「自己責任」を解除する働きがある(岸・北田2018b: 78)


この岸の議論は、上で見た理解の方法の特性から直接に導かれる。理解の方法は、行為者を免責する。何故なら、もし行為が、行為に先行する諸状況によって決定されているならば、当然、行為の原因は、先行する諸状況にあって、行為者にはないということになるからである。責任という概念は、当然に自由な行為可能性を前提とするが、行為に先立つ状況によって行為が決定されていたならば、行為者には行為選択の自由はなかったのであり、したがって責任もなくなる。

 ここから、岸の次のような議論が導かれてくる。行為を状況から説明するならば、行為者の責任を免除できる。しかし、全ての行為者の行為を状況から説明するならば、加害者の加害行為さえ免責してしまうことになる。


また一方で同時に、矛盾するようだけど、責任をそもそも負わなくてもよいとされる人びとに対して、いや直接の行為責任はないにしても、あるていどの「連帯責任」は、社会のなかで生きている以上は、発生するのではないか、ということも、言い続けていかないといけない。それもまた、社会学者の役目だと思うんです(岸・北田2018b: 79)


ほぼ同じことを、岸は次のようにも言っている。


「他者の合理性を理解する」というのは責任解除に必ずなるわけですよね(・・・)それはたとえば在特会でも理解できるわけ。在特会の人に会っていろいろ話を聞くと、それはいろいろ辛いわけですよ。辛いやつがいる、と。そういう状況でついつい自分よりも弱いやつに矛先を向けちゃってみたいな(・・・)それは同じ手立てを使ってできる。だけど、それをしないというのはどこで分けるのかというと、それは社会学者共同体の相場感覚というか倫理観ですよね。いや、そこは理解しちゃダメだろう、責任解除したらダメだろうと。(岸・筒井2018: 264)


実はこの点、岸自身も揺れているようである。上の発言が記録された座談会は、2017年5月であるが、2018年1月の座談会では、岸は次のように言っているからである。


 加害者の生活史を聞いたときに、加害者を理解してしまうかもしれない。だから、そういう人は研究対象には選びませんということでやってきているんだけれど、それがはたしていいのかどうかわからない(岸・北田・稲葉2018: 345)。

 

以上のような論点は、筆者にはよく分かる。理解の方法を適用する場合、必ず生じてくる問題だからである。筆者自身、岸と独立に、スターリンによる「大テロル」を調べた際、同じ問題に突き当たった。歴史家の研究を総合すると、スターリンの大テロルは、ナチス・ドイツの成立と共に極度に悪化しつつあった国際関係と、スターリン自身が始めた完全に準備不足の制度改革が組み合わさったものとして起きたという解釈となる。スターリンの大テロルの理解は、スターリンの行為を行為に先立つ状況に訴えて説明するものになる以上、ある意味ではスターリンの大テロルに対する責任を免罪するものにならざるを得ないのである。筆者もまた、この結論に大きく困惑した。

 また、理解に伴う論点として、岸は次のようにも言う。


僕は上間陽子のテクストはすばらしいと思うんですけれども、でもあれに反発する当事者もいるんですよね。要するに、責任を解除されたくない当事者(がいる)(岸・筒井2018: 267)。


つまり、理解の方法を通じて免責したいと考えているその当の相手から、責任解除を拒否されると言う。

理解の方法の特性を考えれば、その理由も分かる。繰り返しとなるが、理解の方法は行為者の行為を先行する諸状況(およびその諸条件の下での他行為可能性の否定)から説明するものである。それはある意味で、行為者からその「自律性」を奪う。

人間は誰しも、自らの行為を自ら選んでいると考えたいものであろう。しかし、理解の方法は、諸条件から行為を説明するが故に、行為者からその自由を奪ってしまう。一言で言えば、理解の方法を適用するとき、行為者を人間ではなく、単なる「モノ」と見なしていることになる。これは、端的に人間性に対する侮辱であろう。理解することで誰かの責任を免除することは、その誰かを責任を負うことができない存在であると見なしていることになるのだ。

この点、上間陽子「裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち」の次のような記述は示唆的である。やむを得ない事情から家出し、彼氏に強いられて少女売春で生計を立てざるを得なかった少女、春菜について、上間は次のように書く。「春菜は、友だちや恋人に知られたら、「汚いって思われる」という不安を繰り返し語った。その春菜に、家出した理由も、そのあと援助交際をして生活をしてきた理由も、私はよく理解できたといった」「そして、そうやってひとりでがんばって生きてきた日々を、いまの恋人に、全部話す必要はないと思うと私はいった。」「だけど私が春菜にいわないといけなかったのは、そういうことではなかったはずだ」「どこにも行けない子どもに、安心して過ごせる場所をつくりだすことのできなかったこと、十五歳から「援助交際」を続けたことをひとりで引き受けないといけないと思わされていること、それは子どものせいじゃないと、私はそう思っていたはずなのに、それを春菜に伝えることができなかった。」「私がそう話しても、春菜がそれを納得したわけではないだろう(上間2017: 249)

「他人を簡単に理解した気になってはいけない」というよく言われる格率は、このような意味でも解釈できるだろう。それはつまり、「他人をモノのように扱ってはならない」という格率と相通じるのである。

さて、岸が逡巡しながらおそらく暫定的に採用している立場は、(少なくとも社会学者は)加害者を理解してはならないというものになるだろう。

だが、この立場は、維持可能であろうか。というのは、加害者は免責されるべきではないから理解してはならないという立場を貫徹するためには、当然、岸は(社会学者は)誰が被害者で誰が加害者であるかを予め知っていなければならない。誰が義人であり、誰が咎人であるかを、(理解する前から)予め知っていなければならない。

しかし、岸は(社会学者は)、何故そのような特権的な立場に立てるのだろう?


神学的解決


・理解は責任解除をもたらす

・従って、加害者を理解してはならない


これが岸の立場であった。

私は、「誰が加害者であり、誰が被害者であるかが、何故あなたに分かるのか?」を問う。

この問いはもちろん、ただちにそれを問う者に跳ね返ってくるだろう。では、お前はどう考えるのか?私は、次のように答える。


我々にできることは、全ての善行と悪行、全ての加害者と被害者を、それをもたらした原因を理解することを通じて、推定無罪とすることのみである。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(親鸞)。誰が義人であったか、誰が咎人であったかをご存じなのは、ただ神のみである。


この立場のみが、「理解」と「善人と悪人の実在」を両立させられる唯一の解決策である。義人と咎人を全知ならぬ人間の身で知り得るとする態度は、私には神をも恐れぬ「傲慢」の罪を犯すものだと私には思われる。

なお、私は「誰が義人であったか、誰が咎人であったかをご存じなのは」という形で、過去形を使った。それは、過去は決定されているが、未来は常に決定されていないからである。


3-3.何をなすべきか?


岸は、『マンゴーと手榴弾』の最後を、次のように書いて締めくくっている。


私たちは人間についての理論をつくりあげようとするのだが、その作業に終わりはない。それは無限に続く。社会学者にできることがあるとすればそれは、それぞれ一回限りの歴史と構造のなかで、その状況において行為者たちはこの行為を選択したのだという事例の報告を、無限に繰り返すことだろう(岸2018: 341)


ここで湧いてくる疑問は、当然、「何のために?」というものであろう。岸が被害者であると見なした人びとの行為を理解し、その責任を、しばしばその行為者の意思に逆らってまで、無限に解除していく必要はどこにあるのだろうか?

先に見た、春菜に少女売春を強いた春菜の彼氏であった和樹に、上間はインタビューを行って、次のように書いている。


インタビューで、和樹についてわかったことは多かった。和樹は父親に殴られて大きくなっていて、母親にお金をたかられていて、いまは父親にお金を送っている。

だったら和樹は許されるのだろうか?和樹は春菜を使い、生きてきた。春菜が仕事をしたくないと泣いているときも、和樹は春菜を優しく促し仕事に行くように仕向けてきた。

インタビューを書き起こしたデータをみながら、書くことによって、和樹のそうした日々が肯定されていいのだろうかと私は迷っていた。だが、取材した話を書かないことも違うように私は思う。

和樹のインタビューの記録を、データのまま出してみようと思う。これは、沖縄で殴られながら大きくなった男の子が、恋人に援助交際をさせながら数千万以上稼ぎだし、それをすべて使いはたし、その恋人に振られて東京に出て、何もかもを利用しながら新宿の喧騒のなかで今日も暮らしている、そういう記録だ。

いつか加害のことを、そのひとの受けた被害とともに書く方法をみつけることができたらいいと、私はそう思っている(上間2020: 69-70)


このインタビューで、和樹は言う。春菜のことは、


 もともと別に好きではないです。全然タイプじゃないし、もともとは。僕が春菜に化粧教えたし、服装も「こういうの着なさい」って言ったし、髪の毛も僕が選んだし、僕が理想の女に仕立てたんすけど(・・・)でも別れるってなったときに、「あ、これって好きなんだ」って思いました。そのときに、やっと。「あ、俺って春案のこと好きなんだ」って。そのときに、実感っていうか。「あー!」ってなって(上間2020:87)


上間の手になる春菜と和樹に関する報告を読んだ者は、二人の関係は、売春を強いる加害者と被害者として記述できると同時に、不幸な結末を迎えざるを得なかった幼い恋であったとも記述できることを知るだろう。

遺憾ながら、彼らに対して、我々にできることは、ほとんど何もない。それは既に起きてしまったことであり、それを変えることはできないからである。

しかし、あり得た可能性を考えることはできる。


・もし、少女売春をする必要がなければ

・もし沖縄に安定した、実入りのよい働き口がもっとあれば

・もし和樹がそうした仕事を見ることができていれば


二人の恋は、もっと幸せなものでありえたのではないか?

この想定を、「歴史未練学派」(EHカー)といって嗤うことが誰にできるだろうか。哲学的な観点から見て、いかに多くの難しい論点を抱えていようとも、我々に、そのような反実仮想を考えることができることは、誰にも否定できまい。

では、そのような反実仮想を想定できる我々、大人がすべきこととは何か。

二度と再びそのようなことが繰り返されることのないよう、全力を尽くすこと以外ではありえない、と私は考える。そのような我々の努力がもし実を結ぶ日が来るならば、春菜と和樹についてはもはや取返しはつかないにせよ、春菜のような子と和樹のような子が、より幸福に生きられる世界になっているだろう。

そして、より幸せな二人という反実仮想を未来において現実化するためには、被害者とならざるを得なかった春菜についても、加害者とならざるを得なかった和樹についても、そのあり方を理解しなければならない。それが春菜のモノ化につながるとしても、また和樹の免罪につながるとしても、そうなのである。

その営みの最終的な善悪の判断は、神さまに任せよう。


沖縄について


最後に、もう一点。沖縄について。

岸は次のように言う。


そこで、その「マジョリティやねんで」って言うことって、じつはひとつの呪文であって。「マジョリティなんだよ」って言うとき、ほんとはなにを言っているかっていうと、「なんかの罪を背負っているんだよ」みたいなことをほんとは言いたいわけでしょ。「お前は現場で、なんかの暴力を振るっているんだよ」ってことをほんとは言いたい。たとえ直接何かをしなくても、内地に住んでいる以上は、沖縄に米軍基地を押しつけて、平和に暮らしているわけやから、「何もしていない状態でも、沖縄に対して何らかの暴力を振るっていることになるんだよ」っていうことを言う(岸・北田2018b: 76)


上間は、『海をあげる』最後の章で、次のように言う。


この海をひとりで抱えることはもうできない。だからあなたに、海をあげる(上間2020: 241)


 これらは果たし状である。私は、確かに果たし状を受け取った。

だからお返しに、私も問いを贈ろう。


 秋田のひとの反対でイージス・アショアの計画は止まり、東京のひとたちは秋田のひとに頭を下げた。ここから辺野古に基地を移すと東京にいるひとたちは話している。沖縄のひとたちが、何度やめてと頼んでも、青い海に今日も土砂がいれられる。これが差別でなくてなんだろう?(上間2020: 240)。


そうだろうか?例え、日本国の首相に、沖縄に対する差別意識がない者がついていたとして、土砂の投入を止められるだろうか?

私はそうは思わない。

ここには、極めつけのハイ・ポリティクスが横たわっている。この問題は、日本の安全保障や、日米安全保障条約や、憲法9条や、日本の一国平和主義と深く関わっている。そのような日本が置かれた「構造」によって、沖縄に米軍基地を押しつけ、海に土砂を投入するように強いられている。

(国際)政治学者ならぬ社会学者に、何ができるかと反問されるかもしれない。私は、たくさんあると答えるだろう。例えば、沖縄防衛局の職員は、現在の国政政治情勢をどう見ており、なぜそのような見解に至ったのか。そうしたことは、沖縄防衛局職員の生活史調査によって明らかにすることが可能であろう。

そしてその知識は、苛烈な収奪の対象とされ、先の大戦で筆舌に尽くしがたい悲劇を経験し、戦後には差別され、日本国の安全保障のための負担をほぼ一手に引き受けさせられ、今再び国際政治の最前線に立たされ、一歩間違えれば再び戦争の悲惨を全面的に負担させられかねない人びとのために、何ができるかを考える上で有用であろう。

あるいは、振り返ってみた時、この海からの出口はなかったことが明らかになるだけなのかもしれない。だが、脱出のための努力はせねばならない。それは、未来に向けて生きる我々に課せられた義務である。


終わりに


以上、今回のツイッター上の書き込みに関連して,私がここ30年ほど考えてきたことを絡めてつらつらと書いてきた。もちろん、現時点の一つのごく暫定的で断片的な考えである。

一連の問題は、おそらく人類の記録が残る限り、数千年以上は続いてきたものである。であれば、私たちが生きているうちに、納得のいく解答が出される見込みは薄い。なされるべき仕事は多い。

今回の一件で、私も色々と考えを深めることができた。有益な意見を寄せて下さった皆様に感謝いたします。ありがとうございました。


参考文献


上間陽子(2017)『裸足で逃げる―沖縄の夜の街の少女たち』太田出版.


上間陽子(2020)『海をあげる』筑摩書房.


岸政彦(2016)「序 質的調査とは何か」岸政彦・石岡丈昇・丸山里美『質的社会調査の方法-他者の合理性の理解社会学』有斐閣.


岸政彦(2018)『マンゴーと手榴弾-生活史の理論-』勁草書房.


岸政彦・北田暁大(2018a)「社会学はどこから来てどこへ行くのか」岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎『社会学はどこから来てどこへ行くのか』有斐閣.


岸政彦・北田暁大(2018b)「社会学は何に悩み、何を伝えたいのか」岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎『社会学はどこから来てどこへ行くのか』有斐閣.


岸政彦・北田暁大(2018c)「社会学は何をすべきで、何ができるのか」岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎『社会学はどこから来てどこへ行くのか』有斐閣.


岸政彦・北田暁大・稲葉振一郎(2018d)「再び、社会学はどこから来てどこへ行くのか」岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎『社会学はどこから来てどこへ行くのか』有斐閣.


岸政彦・筒井淳也(2018e)「データの正しさと<相場感>」岸政彦・北田暁大・筒井淳也・稲葉振一郎『社会学はどこから来てどこへ行くのか』有斐閣.


河野勝・三村憲弘(2015)「他者への支援を動機づける同情と憐れみ―サーベイ実験による道徳的直観の検証―」『年報政治学』66(1): 61-89.


コリアー、デヴィッド、ヘンリー・ブレイディ、ジェイソン・シーライト(2014)「因果的推論における説得力の源泉-KKVとは異なる方法論の構築に向けて―」ヘンリー・ブレイディ、デヴィッド・コリアー編『社会科学の方法論争-多様な分析道具と共通の基準』(泉川泰博、宮下明聡訳)勁草書房.


コリングウッド、R・G(2023)『歴史の観念 新装版』(小松茂夫・三浦修訳)紀伊國屋書店.


辛淑玉、野中広務(2009)『差別と日本人』角川グループパブリッシング.


ペルツ、スティーブン(2003)「新しい外交史の構築へ向けて-国際政治の方法論に万歳二唱半」コリン・エルマン/ミリアム・フェンディアス・エルマン編『国際関係研究への-歴史学と政治学の対話』(渡辺昭夫監訳、宮下明聡、野口和彦、戸谷美苗。田中靖友訳)東京大学出版会.


ポパー、カール(1978)『果てしなき探求-知的自伝』(森博訳)岩波書店.


ポパー、カール(2014)「歴史的説明 インタビュー」ジェレミー・シアマー、ピアズ・ノーリス・ターナー編『カール・ポパー 社会と政治-「開かれた社会」以後-』(神野慧一郎・中才敏郎・戸田剛文訳)ミネルヴァ書房.


英語文献


Popper, Karl R. (1969)”A Pluralist Approach to the Philosophy of History,” in Erich Streissler, Gottfried Haberler, Friedrich A. Lutz and Fritz Machlup (eds.), Roads to Freedom: Essays in Honour of Friedrich A. von Hayek, Routledge & Kegan Paul.


補:怒ることについて


今回の一件では、「怒る」「怒られる」という言い回しが使われるのを目にした。この「怒る」という言葉は、社会学者の間では一般に浸透しているのだろうか。というのは、『社会学はどこから来てどこへ行くのか』においても、次のような発言が普通に交わされていたからである。北田暁大は、言う。


 たぶん私、少しぐらい怒られるぐらいのほうが、デフォルトになってるのね。上野(千鶴子)ゼミ以来。ツイッターで書くときも信念は持っているけど、怒られることは前提にしている(岸・北田2018b: 64)


あるいは、同じ文脈で「怖い」という言葉も使われている。


一九九〇年代の『クィア・ジャパン』とかで書いていたり、読んでいたりしたひとたちがいるわけですよ。書くものを読むかぎりむっちゃ怖いひとたちがいるのもわかっているし(岸・北田2018b: 65)。


 しかし、学術的コミュニケーションの文脈において、「怒る」や「怖い」という言葉が用いられていることに違和感を持つ。

確かに、事態が急を要する場合や、本人あるいは他人に危害を及ぼす可能性がある危険なことをしようとしているならば、それを止めるために怒る必要もあるだろう。だが、そのような怒りを発露すべき条件は、今回、存在したようには見えなかった。

先生や当事者が「怒るから」、それを言ったりやったりすることをやめるのだろうか。そうではないだろう。誤りであるから、それを言ったりやったりするのをやめるものだろう。「怒られるからそれをやめる」というのでは、理由を理解できていないのだから、少し違った状況では、またその誤りを繰り返すことになる。

怒る側が常に正しいわけでもない。怒っている側が、誤解に基づいて怒っている場合もある。怒っている相手が誤っていたとしよう。その際には、その誤解を解きつつ、誤りを訂正するよう努めるべきである。逆に、私の言いたいことが理解されていないと感じ、怒りの感情が湧いてきたとしよう。ならば、なぜ理解されないのかを考えるべきである。そうすれば、同じ間違いを犯している人に対して、その理由を丁寧に教えることもできよう。

確かなことは、怒る/怒られる場合には、相互の理解が達成されていないということである。相手が怒っている場合、あるいは私が怒りたくなった場合、それは理解が失敗している証拠と見なければならない。

 念のために言えば、そのように思考を積み上げるための時間や教育、様々なリソースを持たない人に対しては、この準則が適用されないことは言うまでもない。そうした人は、自らが感じる理不尽に対して直接、怒る権利を持つ。だが、今回の一件では、そのような事情もなかった。

研究者には、考えるという作業に専念するためのリソースが社会から与えられている。ならば、丁寧に説明しても、相手がなお、納得しないならば、説明する側にさらなる明確化が必要とされる。怒りながら、あるいは泣きながら、考えることはできない。

それでは、仕事に戻ります。



以上


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