濁浪清風 第50回「場について」⑳
そもそも浄土は、第一に「罪悪の衆生(しゅじょう)を摂取(せっしゅ)するための大悲の場」であり、第二に「愚(おろ)かなる衆生に仏法の救いを具体化するための場」である、と言った。
そして、第一の点について、一切衆生を摂取しようとする大悲が、特に、罪業の衆生たる阿闍世(あじゃせ)に一切の「煩悩等を具足(ぐそく)せる者」であると呼びかける『涅槃経(ねはんぎょう)』のことを出した。これはいうまでもなく、親鸞聖人が取り上げているものである。『涅槃経』の教説の意味は、阿闍世だけが罪業の身なのでなく、一切衆生は宿業(しゅくごう)因縁の深みに、同じ罪業の背景を担(にな)っていると見通している大悲の眼がある、というのであろう。その一切の衆生を摂(おさ)め取ろうという願心が、選択(せんじゃく)摂取して、浄土の教法を生み出した、ということである。
第二の点について考えてみたい。特に、この浄土の教説は、「本為(ほんに)凡夫、兼為聖人(けんにしょうにん)」と言われている。こう言うと、人間に二類あって、その一方に重点がかかるというようだが、それはさておいて、「本為凡夫」ということの意味を押さえておきたい。
親鸞は「凡夫というは、無明(むみょう)煩悩われらがみにみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』『真宗聖典』545頁、東本願寺出版部)と言われている。朝から晩まで、起きてから寝るまで、いな、眠っていても夢の中にまで、煩悩と共に生きているのが、われら衆生であるというのである。「煩悩具足」「煩悩成就」の衆生と言われる所以(ゆえん)である。この凡夫を目的として開示されたものが、浄土の教えである、というのである。智慧も浅く、心は煩悩で汚(よご)れており、広大で清浄(しょうじょう)な仏陀の功徳には、まったく触れることさえできない、という深い慙愧(ざんき)の自覚が、一切の煩悩等を具足せる凡夫よ、と呼びかけている如来の言葉に震撼したのである。「一切善悪の凡夫人」(「正信偈」『真宗聖典』205頁)という言葉もある。凡夫にも、「善・悪」の機類がないわけではない。しかし、表面の生き様には差違があっても、深い宿業の因縁に気づくとき、「罪業深重」の意味は衆生の普遍性だと頷(うなず)けるのである。悲しくも、愚かにして罪のこころを拭(ぬぐ)うこともできない、有限なる生き物なのである。この愚かなる衆生に開示されたものが、浄土の教えであるというのである。
(2007年7月1日)