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チーフ

以下は本来2008年に書いた文章なのだが、あらためてここに留めておこうと思う。

その年は、私の中でも多くの記憶の重なる年となった。
同級生より2年遅れて大学生になっていた私は、この年の春から出版社でアルバイトをはじめ、生まれて初めて仕事としての記事を雑誌に書いた。
夏には同い年の親友2人が私の郷里・神戸で開催されたユニバーシアード大会にサッカーの日本代表として出場し、私の家族たちは嬉しい興奮に包まれていた。

その渦中には幼なじみで学校の後輩でもあったM君が急逝した。
甲子園を夢見ていた球児だったが、突如発症した難病は彼の夢も未来も奪っていった。
暑い盛りの葬儀会場で、彼のお父さんがきちんとモーニングを着ていた光景を、なぜか今も鮮明に覚えている。

この頃、私は先述したサッカー日本代表の友人たちと毎週のようにつるんでいて、会えばたいていは渋谷にある飲み屋に入り浸っていた。
その店は、席にホステスが付いて接客してくれるいわゆる〝クラブ〟ではあったが、銀座のそれのようではなく、くだけた感じの女の子をウリにしていた。
それでもけっして安い店ではなかったのに若い私たちが入り浸れていたのは、サッカー狂の経営者がわれわれだけ特別料金で遇してくれていたからである。

行けばたいていビールが数十本とウイスキーが2本ほども空いた。
しかし、それの大部分は2人のサッカー選手の肝臓に入っていて、もともと体質的に酒が強くない私は、もっぱら痩せの大食いで料理ばかりに集中していた。
料理を作っているのは店の奥の厨房にいる「チーフ」と呼ばれている青年で、何を注文しても絶品の料理が出てきたものだった。

店の女の子たちの話では、チーフはミュージシャンの卵で、この店のバイト代で生計を立てていたらしい。
深夜になり他の客が退けて内輪だけになっても、彼はけっして厨房から出てくることはせず、いつも物陰で静かにしていた。
チーフが歌ったらホントに上手いんだから、と女の子たちは絶賛していたが、私は一度も彼の歌声というものを聴いたことがなかった。

それどころか、私は一度も彼と口をきいたことがなかった。
ただ、ときどき厨房の中で見え隠れする横顔が、すさんでいるように見えながら思いがけず端正なのに驚いた。
寡黙でまるで人嫌いのように奥から出てこないのに、彼の発している空気は柔らかで人間的で、猥雑な店内の雰囲気を浄化しているかのようだった。
〝チーフ〟としか名前も知らないその年長の若者に、私は人間として好感を抱いていた。

羽田から伊丹に飛び立った日本航空123便が群馬県の山中に墜落したのは、この年の8月12日のことだった。
乗員乗客524名のうち520名が死亡。単独の航空機事故としては史上最多の犠牲者となった。
事故から1日か2日たった頃、渋谷のクラブの経営者から友人の選手に連絡があった。「チーフが亡くなった」と。
123便に乗っていたのである。

どうやらチーフは盆休みを利用して大阪にある実家に帰省しようとしていたらしい。チーフが大阪出身であることなど、もちろん私は知らなかった。
店の経営者や親しかったホステスたちが、葬儀に参列しようと大阪に出向いて驚いた。
チーフがさる財界人の子息だったことを、そこで初めて知ったからである。
寡黙な彼は、自分の素性を店の者たちにも黙っていたらしい。

それからしばらくは、皆で店に繰り出しても、どこか通夜の酒のような空気が絶えなかった。
深夜になって常連ばかりになり酔いが回ると、誰もがチーフのことを口にしてしんみりした。
私は、1人の人間の死がかくも多くの人々に悲しみを与えるのだと知った。1人の死の周辺で100人も200人も、否もっと大勢の人々が悲しんでいる。
いったい、520人の死の周辺には、どれほどの悲しみが溢れているのだろうかと考えた。

その店に行かなくなって、もう20年ほどになるだろう。今も店があるのかどうか、それももはや知らない。
ただ、毎年8月12日になると、私はあのチーフのことを思い出すのである。
一言も言葉を交わしたことのない、今では顔すら思い出せない、あの青年のことを。
あの青年の最期の悲しみと、彼を送らねばならなかった人々の悲しみを。

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