【ネタバレ感想考察もどき】君たちはどう生きるか(1回目視聴時)2023.07.24.

自己満のメモなので誰も読まない気がするけど、
ネタバレしかないため未視聴の方は読まないでください。


君たちはどう生きるか
1回目観劇時(2023.07.24)の感想メモ
他の考察は一切見ていないので、
あくまでも自分が感じ、考えた妄想のようなもの

仕事の隙間で時間がある時に考察をして編集していく予定

■主題
自ら(宮﨑駿)の生み出したアニメーション世界に対する視点・告白・総括
をメタ的に作品に落とし込んだもの

■プロット
舞台は日本、東京大空襲の時期真っ只中。
工場の経営者として裕福な父を持つ息子(眞人)が主人公。

入院する母の居る病院が火事で焼けているのを目撃し、
父と共に現場に向かうが、母は助からない。

2年が経ち、疎開先(母の実家)へと向かう父子。
迎えに来たのは母にそっくりの女性。
父が新たに妻として迎えることになる女性であり、
既に父との子を孕っている。

屋敷に着くなり、アオサギを目撃する。
召使い(7人くらい?)の婆さん達は出迎えにも来ず、
父の置いた土産物の詰まったトランクの周りに、
早く開けたいといった様子で集まっている。

自室に通された眞人は疲労からかすぐ眠りに落ちる。
(以降思い出して書くのめんどいので一旦省略)

■登場人物、物体
・眞人
本作品の主人公
大叔父の子孫
当作品全体を視聴者に観測させるためのカメラのような存在

・大叔父
眞人の先祖
後述するピースを組み上げて絶妙なバランスで世界を保っていることから、
宮﨑駿本人であると思われる

・母(実の母の方)
本作品においての現実世界では死しているが、
新たな子(新たな作品の登場人物)が生み出されるのを阻害する存在(ペリカン)を駆逐している
→作品を生み出す上での障害から大叔父(宮﨑)の世界を守っている

・義母(夏子?実の母の妹)
眞人(カメラ)がアオサギによって別世界へ連れられるのを阻止しようとする。
当作品のような子供向けでない複雑な構造を持った世界を、年齢的にまだ子供である眞人に観測させることへのためらい

・アオサギ
大叔父(宮﨑)にとっての愚かな(後述)鳥
主人公を別世界(宮﨑の作った世界)へと誘う案内役

・石(黒い大きな物体の方)
あらゆる世界をつなぐ装置
本作の世界においては、隕石のように降ってきたもの

母が子を生み出す部屋に入ろうとするものに対して拒絶する
→別の作品が新たな作品に干渉することへの拒絶反応
→前作品からのオマージュや再利用を嫌うor引用、パクリへの当然の批判
→スタジオジブリのメタファーorアニメ作品という概念
(後者か…?両方かも)

・石のかけらみたいなやつ(白いパズル状の物体)
これを材料として絶妙なバランスで組み上げ、
少しずつ調整して世界を保っている
→作品世界を構築するための素材
大叔父と眞人によって使うことのできるピースが違うというのは、
クリエイターそれぞれで使うことのできる素材(題材)が違っていることを表している
悪意を持った素材があるというのも、現実世界のあらゆる現象や意思などと合致する

・わらわら
魚の内臓を栄養とし、空へと螺旋状(DNAモチーフ)に舞い上がり別世界の人間(登場人物)となる
魚の内臓は何を表す?
これがなければ登場人物と成れないなにか
 醜く、人が通常排除するもの
 人が摂取する対象の最も内側にあるもの(意味・概念など)
このあたりだろうか
わらわら→はらわた の韻からネーミング?
「はらわた」を幼児性ある見た目のキャラクターが発音すれば「わらわら」となるような気もするし


・墓
偉人の墓
アイディアやインスピレーションが眠っている
大事なものなので大叔父の世界に存在するが、大叔父がそれを暴いたり自分のものにすることはないはず

・ペリカン(?)
大叔父の世界(宮﨑の制作スタジオ)に連れ去られたはいいものの、自然の魚から栄養(アイディア、インスピレーション)を摂ることができない存在。
墓(自分から学んだら死ぬぞ=パクったらクリエイター失格)を荒らして栄養(アイディア)を得ようとしたり、
人の生み出した人格であるわらわらを食べることで自分のものにしようとする。
わらわらは、自然の魚のはらわた(苦く、通常人が避けて廃棄してしまうようなもの。けれど大事な中身が詰まっているところ)からアイディアになる要素を取り込んで人格を自家薬籠中の物とするのに対し、ペリカンは「えさになる魚が無い」などと被害者ヅラをしている哀れな存在

・父
父に大事な役割が付されているように今のところあまり思えない。
主人公(カメラ)の父、ってなんだろう
主人公の役割の解釈を自分が間違えてるんだろうか?
あえてこじつけ的に捉えるなら、
父はしきりに主人公を現実世界に連れ戻そうとする。
「そんな、制作の内側みたいなメタ的なやつを写すために作ったんじゃない。思ってた意図と違う目的だ、普通に優秀に撮るべきモノを撮ってくれ」ということなのか

・インコ
あとで考える


■アオサギのなにが「愚か」なのか
宮﨑駿のポリシーのひとつに「アニメーション映画は子どものために作るべきで、大人物を作ってはいけない」というものがある。(※風立ちぬ プレス資料より)

今までの作品群をメタ的に多数登場させ、当作品の世界の構造を順に明らかにすることによってようやく物語の屋台骨がわかるような当作品は、「子どものために作られた作品」と素直に言い難い。
そして、そのわかりにくい世界構造の生産場所(大叔父のいる世界)に主人公(カメラ)をいざなうことは、
宮﨑本人のポリシーのひとつに反することであり、愚かな行為だと言える。

つまり、アオサギそのものを愚かだと言っているのではなく、
アオサギに託した役割を愚かだと言って自分を皮肉っている。 

■「君たちはどう生きるか」
作中では、大きくなった息子に向けて、母から渡された本である。
宮﨑という人物(当然母から生まれた人間)が晩年(大きくなった)に至るまで生み出してきた作品群は人生そのものであり、
その全ての総括を「君たちはどう生きるか」という母からもらった本のタイトルになぞらえるのは至極自然な比喩に思える

■アオサギの「普通は忘れちまうもんなんだけどなあ」的なセリフの意味
ある物語を観た人間も、その物語を観たからと言って大きく人生が変わることはない。
ただし、観た人間にとって大きな意味をもつピースを持ち帰ったのであれば、
その物語が強く記憶に残り人生を左右することになる。

このピースとはまさに白い石(=物語を構築する大事な要素であり、製作者個人の趣向や人間性に依る要素)
のことであり、
この大事なピースを持ち帰った者は当然物語の大事なテーマを理解しており、
強く記憶に残ることになる。

一方、千と千尋の神隠しで銭婆からもらった髪留めは、
コハクヌシの言うように「振り返らぬよう」にするためのお守りであり、
物語世界に囚われぬための製作者の意図や、
「一旦忘れて大丈夫だよ(いつかわかる時がくるかもしれない)」的なメッセージがある。
(風立ちぬ制作スタッフからの言葉「子どもがわからなくても、わからないものに出会うことは必要で、そのうちにわかるようになる」という言葉と似た意味)

千と千尋の神隠しのオマージュシーンではあるが、
ここが決定的に違っている。

本作品では、宮﨑のもつピースを持ち帰った主人公が、
現実世界でそのピースの影響力をもって、出来事を記憶に強く残し続けている。

■アオサギの特殊性(↓まだうまく整理できてない)
他の鳥(インコ・ペリカン)と違い、
現実世界に入ってもただの鳥へと変化することなく存在し、
最後には姿を消す。

インコやペリカンが通常の作品世界の登場人物のような位置付けであるため他の世界では意味を為さないのと違い、
アオサギには特殊な役割があることが暗示されている。

アオサギには宮﨑の言う「愚かな行為」を仲介する役割が付されており、
かなりメタ的な存在である。
(観客である我々が、宮﨑の構築してきた世界の構造を観測するための装置である。)

今までの作品群のどのキャラクターにも固有の役割があるが、
「宮﨑の作品世界の構造を見せます」
という特殊なナビゲーター役は宮﨑作品では今まで(そして以降も)おそらく存在しておらず、
唯一無二の存在である。

また別の視点から見ると、
現実世界に存在するインコやペリカン(その他のあらゆる生物やモノ)などは、
とある物語においては特有の役割が付された登場人物やキーとなりうるが、
アオサギのナビゲーター役は、当作品以外では存在しえない極めて抽象的な役割そのものであり、当作品のために生み出された概念でしかない。

はじめから役割・概念といった抽象的な存在であるがゆえ、
当作品終幕時には現実世界の生物やモノに変換されるすべはなく、
消える以外の選択肢はない。

一旦メモ終了、
後日精査しつつ思いついたところは書き足し、
その後2度目を観に行く

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