『ANIMA』に学ぶSAOの哲学(?)

お久しぶりですshinoです。

最近自分の書き溜めていたテキストを漁っていたら、結構懐かしいものが見つかったので、それを呼び起こしてみようと思います。

原文をわざわざ書き換える気力はないので、大昔雑に書いたものをそのままコピペして、所々ツッコミを入れていくスタイルで思い出せればと思います。

自分でも何書いたかあんまり覚えてないのでね。他人に見せるというよりかは自分の思考の整理目的です。


原文

 前提としてオペラやミュージカルのように歌で物語を表現=物語を解き明かせば歌を知ることにもつながる→歌と物語を同時に考えていく

ReoNaさん曰く「“魂とは? 命とは?”といったものを OPテーマとして物語の幕開けに投げ掛ける、とても強い歌詞」→この曲の"目的"は"魂の在り方"

毛蟹さん曰く「魂の下側には命という器があって、上側にある心とで包まれている」→歌詞にある「まだ貫いて 失って それでも挫けない 心はどこに 器はどこに」と対応させるなら貫くべき芯=魂。命というハードで魂というプログラムを動かして、心がそれらを繋ぎ止めている

"魂の色"について「それこそ、感情の色も、なんとなくイメージはあるけど正解って無いじゃないですか。(中略)感情に色は付いていないから、本当に自分が正解だと思ったものがきっと正解なんじゃないかって思うんです」→魂の色は十人十色。人それぞれのそれがある。

フラクトライトについて考える。フラクトライト(=量子場)こそ魂というラースの技術者の見解→対応としては脳細胞が命、その中のフラクトライトが魂、そして脳細胞のネットワークをまとめて「心」と考える

「自分」とは何なのか→自ら規定した自己像の損傷により、心神喪失に陥った→そこからの復活は自己像の修復と同義、作中で自己像の修復に使われたのはアスナ、シノン、リーファら3人の中の「桐ヶ谷和人」のイメージ。本当の自分は「自分の思う自分(=主体)」だけではなく「周りの人の中の自分(=客体)」を統合したもの=(神代博士曰く)二元論と唯物論の統合

結論からいうと……この曲のテーマ(=魂とは)の答えは「自分の中の自分と周りの人の中の自分、その統合」であると考えられる。
自分を見失ったときは1人で抱え込んで考えるのではなく、親しい他人を頼ってみるのもいいかもしれない、という道徳的な結論

研究にあたって利用した資料など
・アニメイトタイムズのインタビュー
https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1594980946&p=2
・spiceのインタビュー
https://spice.eplus.jp/articles/272229
・超心理学?の資料(よくわかってない)
https://www.isc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/8-3.htm

実況・解説

 前提としてオペラやミュージカルのように歌で物語を表現=物語を解き明かせば歌を知ることにもつながる→歌と物語を同時に考えていく

これはアレですね。「楽曲を紹介しよう」みたいな場でANIMAの、ついでにSAOの話をしたかったので、歌の話をしてますよ~って体にしてるやつですね。

ReoNaさん曰く「“魂とは? 命とは?”といったものを OPテーマとして物語の幕開けに投げ掛ける、とても強い歌詞」→この曲の"目的"は"魂の在り方"

これは読んでそのままですね。まずは「曲がやりたいこと」を明らかにすべきという考えだったと思います。ちなみに根拠というか出典というかは上に載せた原文の下の方にありますね。インタビューです。

毛蟹さん曰く「魂の下側には命という器があって、上側にある心とで包まれている」→歌詞にある「まだ貫いて 失って それでも挫けない 心はどこに 器はどこに」と対応させるなら貫くべき芯=魂。命というハードで魂というプログラムを動かして、心がそれらを繋ぎ止めている

なんで後半こんなわかりにくい喩えなんだって思うかもしれないんですが、これは原作の方で魂周辺の構造のことをコンピューター系で例えていたからですね。
毛蟹さんの言葉をわかりやすく表すなら(形状としては)ハンバーガー?少なくとも当時の私はそういう構造で解釈してたらしいです。

"魂の色"について「それこそ、感情の色も、なんとなくイメージはあるけど正解って無いじゃないですか。(中略)感情に色は付いていないから、本当に自分が正解だと思ったものがきっと正解なんじゃないかって思うんです」→魂の色は十人十色。人それぞれのそれがある。

曲の初っ端で「魂の色は何色ですか」と問うてるんだから、まぁそこにも触れなきゃよな、ということだと思います。まぁこれも本当に書いてある通りですね。

フラクトライトについて考える。フラクトライト(=量子場)こそ魂というラースの技術者の見解→対応としては脳細胞が命、その中のフラクトライトが魂、そして脳細胞のネットワークをまとめて「心」と考える

さっきの"命-魂-心"というモデルを継続させていますね。急に「脳細胞」が出てきてなんのこっちゃって感じになるかもしれないので、一応原作見ながら補足入れておきますね。
簡単に言うと、細胞にも、それ自体を支える骨格がありまして、それは実は中空の管になっていると。そしてその管の中で揺らいでいる"光"こそがフラクトライトですよと、少なくともSAOの作中ではそうなっていますね。
書き方から察するにどうやら"魂"と"心"は別物らしいですが、今の私は当時の私ほど思考のキレがないのであんまりよくわかってないです。

「自分」とは何なのか→自ら規定した自己像の損傷により、心神喪失に陥った→そこからの復活は自己像の修復と同義、作中で自己像の修復に使われたのはアスナ、シノン、リーファら3人の中の「桐ヶ谷和人」のイメージ。本当の自分は「自分の思う自分(=主体)」だけではなく「周りの人の中の自分(=客体)」を統合したもの=(神代博士曰く)二元論と唯物論の統合

これは要するに鏡写し的なことですね。周囲の人の中にも"自分"のイメージはあるし、それをめちゃくちゃ集めて全部合わせたら究極な所、オリジナルと区別付かない可能性あるよね……という話だったと思います。
ただ、後半に書いてある「主客の統合」=「二元論と唯物論の統合」というのは現在の私自身の解釈と若干ズレますね。というのも、今の私は後者を「魂と肉体が別々に存在すると認めつつ、それらを物理的に解明した」という比嘉の功績のことだと解釈しているので。ここを書いたとき当時自分が何を考えていたのか思い出せたら追記するかもしれないかも。

結論からいうと……この曲のテーマ(=魂とは)の答えは「自分の中の自分と周りの人の中の自分、その統合」であると考えられる。

自分を見失ったときは1人で抱え込んで考えるのではなく、親しい他人を頼ってみるのもいいかもしれない、という道徳的な結論

私こういう思索が安易な道徳に着地するのがあまり好きではないのですが、当時の私はいかにも道徳的なところに落ち着いたらしいですね。
まぁ現実に例えていうならば、自分のことを知りたいとき、何も使わず自分のことを一生懸命思い出そうとするだけよりも、鏡とか見た方がわかりやすいよね的な。なんともチープな結論ですが。

研究にあたって利用した資料など

・アニメイトタイムズのインタビュー

https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1594980946&p=2

・spiceのインタビュー

https://spice.eplus.jp/articles/272229

・超心理学?の資料(よくわかってない)

https://www.isc.meiji.ac.jp/~metapsi/psi/8-3.htm

アニソンのインタビューが2つ並んだあとに学部の教授が書いた講座が来るの頭いかれてるんじゃないかと思いますね。

以上

まぁこんなとこですね。この乱文を読んで理解できた人はいないと思いますが、今回ばかりは私も理解させるつもりで書いてないのでまぁいいです。

サクサクっと浅瀬をさらっただけですが、久しぶりにSAOで哲学モドキできて楽しかったですね。

それでは。

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