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アチューカロ×大野和士指揮都響

 昨日、東京芸術劇場で、東京都交響楽団の定期演奏会を聴きました。指揮は大好きな大野和士さん。昨年1月に同会場での都響定期で聴いたメシアンのトゥーランガリラ交響曲も圧倒的な陶酔と高揚感の名演でした。今回のプログラムは、シベリウスのトゥオネラの白鳥、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、シベリウスの交響曲第2番。
 最大の目当ては、ラフマニノフのソリスト、スペインのホアキン・アチューカロ。ここ数年日本でも少しずつ知名度が上がってきているようですが、まだまだ知る人ぞ知る隠れた巨匠かもしれません。いくつか聴いた録音が素晴らしく、ずっと聴きたかったのですが、ようやく聴くことができました。
 果たして生演奏は…本当に本当に素晴らしかったです。。今連載中のエッセイの来月掲載分に書くことにしたので(もともとアチューカロのことを書けたらいいなとは思いながら客席に着いたのですが、想像以上でした)、あまり詳しくは書けないのですが、何といっても彼の音に打たれました。真珠の輝きと丸みを感じさせ、しかしその珠のなかには非常に熱いものがある。決して激しい演奏ではないのですが、音とフレーズに大変な情熱が秘められているのです。人間の血を感じるというか。大野さんの指揮も、推進力とおおらかな余裕を兼ね備えたもので、本当に名演でした。大野さんが振るコンチェルトは何度か聴いていますが、聴く度に、コンチェルトはソリストだけでは成り立たない、オーケストラは決して「伴奏」などではないと感じます。ソリストアンコールはスクリャービンの左手のためのノクターン。自由自在な叙情が聴かれました。
 アチューカロの演奏を聴いて改めて思ったのですが、素晴らしいに留まらない、「ほんもの」の音楽は、絶対に生で聴くべきだと言うことです。ほんものの演奏家は、間違いなくその人に固有の音を持っていますが、その音の固有性は、生だからこそ感じられるものです。アチューカロの音のあの独特の輝きと丸みも、録音で聴いていたときにははっきりとはわからなかったものです。
 音だけではなく、音楽全体から伝わる温度感や、演奏の背後にある静けさなど、録音では伝わらない(伝わりきらない)ものは本当に多い。録音ではやや気になりやすい疵(ミスタッチに限らない)も、実演では全く気にならないということもあります。データのダウンロードで音楽を聴くことが主流になりつつある今こそ、演奏会の日まで楽しみな想いを募らせて、会場で音楽を聴き、体感するという原点に返るべきだと思いますね。
 ですから、ある演奏家の演奏が録音ではピンとこなかったとしても、生で聴いたら大変な感銘を受けるということもあるかもしれません。まあ、演奏会もタダじゃないんで、リスクは伴いますが…(笑)
 話を演奏会に戻しますが、後半のシベリウスの交響曲第2番も名演で、正直、この曲はいい曲だとは思いつつ、ずっと掴めないものが残る感覚(特に最初の2つの楽章)を抱いていたのですが、今回大野さんの指揮で聴いて、初めて感動しました(本当はあまり感動という言葉に逃げたくないのですが、この曲でここまで心が動いたのは初めてだったので、敢えて使いました笑)。シベリウスの心の森にこだます、悲壮な叫びや嘆き、そして人間を超えたものへの畏怖を感じました。フィナーレの終盤、音階のオスティナートと副次主題が延々と繰り返され高揚してゆく部分では、何か巨大なものが屹立してくるような迫力がありました。

 ちなみに、前の日の一昨日土曜日は私がピアノを始めた音楽教室の発表会にゲスト出演。卒室後も毎年発表会にお招きいただいていて、加えて今は月に3回の特別レッスン+不定期の臨時レッスンに伺っています。そこで指導している・指導した生徒も出演しました。
 会場は習い始めてから1回を除いて毎年同じ場所で、つまり私が初めて立った舞台ということになります。毎年ここに帰ってくると独特の緊張感を覚えます。

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