連帯責任

私の中学では、一部の生徒が些細な問題(学校に菓子を持ち込むなど)を起こすと、それはしばしば、「学年全体がたるんでいるから」と見なされ、学年全員が集会などで叱責された。また、問題が起きる前にも、修学旅行に行く前などは、「もし持ってきてはいけないもの(携帯電話など)を持ち込んだ人がいたら、行程をすべて中止する」となどと理不尽な宣言をされたりもした。
 私は、学校で一般的なものとなっているこの「連帯責任」が嫌いである。当時は子供だったので、規則を破った生徒に対して腹を立てていた気がするが、次第に、連帯責任という方法自体が、不合理なものなのではないかと思うようになった。
 連帯責任の典型的な例は、部活動の大会出場校が、一人(あるいは一部)の部員の喫煙や飲酒によって出場を辞退する、停止処分を受ける、というようなものである。ここでもやはり、先の「学年全体のたるみ」同様の、部全体の士気が上がっていればそんな違法行為に及ぶはずがないという論理が働いていることは明らかだろう。
 しかし、なぜ全体が引き締まっていれば、そこから逸脱してしまう者が現れないと言い切れるのだろうか。確かに、人間の行動は、本人の意思に加えて、周囲の人や環境など、様々な影響を受けながらなされている。しかしだからこそまた、「全体が引き締まっていれば誰もが規則を守る」というような短絡によって保証されるものでもない。それは、そう信じたいだけの精神論に過ぎない。
 あるいは、全体の気のゆるみどうこうよりも、連帯責任の目的は、「お前が悪いことをするとみんなが迷惑する」という状況を作り出すことで、本人の罪悪感を促し、規則の遵守を叩きこむことにあるのかもしれない。だが、部活動の例で言えば、その違反をしてしまった生徒には、皆の夢を台無しにしたという罪悪感を一生背負わせ、また他の部員の夢を、一人あるいは数人の過ちのために握りつぶすということが、教育なのだろうか? 場合によっては、私が規則を破った人に腹を立てたように、部員の中に違反者への憎しみが生まれてしまうことだってあるだろう。罰を受けるのは本人に留めておくべきで、それならば本人も必要以上の罪悪感に苛まれずに反省することができ、一点のシミこそ残るかもしれないが、他の部員の希望自体を潰すことにもならない。要するに、罰を他の生徒にまで与える必然性が感じられないのである。
 連帯責任には賛成できないが、先にも述べたように、人間の行動には周囲の影響や方向づけといった、様々な要因があるのだから、全くの自己責任と言い切ることもできない。だから、その生徒を罰するだけでなく、なぜ違反してしまったのかに向き合うのも、教育の役割であると思う。
 勿論、いじめなどで、被害者側が加害者側の事情を思いやるというのは、無理があるだろう。どんな理由があれ、いじめが下劣な行為であることに変わりはない。しかし、教師や自治体など、教育をする側の立場にいる者には、加害者側がなぜ加害行為に及んでしまったのか、どうすれば更生の道を歩むことができるかという問題にも向き合う責任がある。程度の差に関わらず悪いことをした者を徹底的に糾弾する極端な厳罰主義では、根本的な解決には繋がらない。

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