静岡中心市街地『人宿町』でのエリア開発
修士研究の学会投稿も終えて、先日修正要求に対する回答もつつがなく提出し終わった.研究には直接結びつかなかったが、事業者とか行政へのインタビュー調査の話の中で、教えてもらった面白い事例の一つとしてまとめておこうと思う.
今年の3月ぐらいから書き起こしておこうとしていたが、下書きのままだったことに気づいた。文章というものは終わりを作るのが肝でありそれが素人には難しい…
先生からは「こういう事例もあるから、直接論文の中で比較するかは置いておいて、横目に見ながら進めたらどうか」というアドバイスをよく頂くのだが、行政の方や民間さんから聞く事例はまだまだ発展途上の事例で、これまた中々に刺激的だ.(もちろん、先生からの情報提供も刺激的なのだ笑。そういえばそうだったと思って調べてみると視野が広がるし、自分の研究の立ち位置を見直すきっかけになる)
今日は、最近聞いたエリア開発(エリアリノベーション)の取り組みについて、ふわっと紹介しようと思う.自分の勉強も兼ねて.
今回のまとめ、ソースは以下の通り
静岡市葵区人宿町での取組
JR静岡駅北口から徒歩15分。呉服町通り商店街から西に折れた七間町、その先にあるのが人宿町では、近年、新しいお店が次々とできつつあるエリアとなっています。その取組は、一建築設計事務所による物件改修やテナント誘致を中心として行われており、行政からの補助金などの公共投資なしに独立採算でこれまで取り組まれています。
そんな建築設計事務所による取組を起点としたエリア再生を簡単に紹介したいと思います。
チェーン店ではなく、個性的な個人店舗が多く立地していることもあり、近年有名になりつつあり、着目した記事も散見されていましたので、記事やHPから整理したいと思います。
都市計画・都市デザインを勉強、研究していると、町おこしや賑わいづくりという行政や地域組織、その後はまちづくり会社や官民連携といった主体によるものが多い印象ですが、近年では、民間事業者による儲けを出したり自分たちのセルフブランディングの一環として地域に関わり始め、その後地域への想いや街おこし的なものへの面白さを感じ、継続的に活動している事例も増えているのではないかと思っています。人的なリソースの問題(人口減少とか高齢化)やコスト不足(財政難やら補助金頼り)といった課題に直面しやすいエリア再生に、こうした事業性のノウハウは今後に必要になるだろうと個人的に感じています。
個人的には地域ごとに何を活かすか、何を目指すかは異なると思いますが、どこか共通点があれば、それは何なのか。そんなことを考えている所です。
映画の街からの変化
まず、人宿町は旧東海道の宿場町だったそうです。周辺の地名は、徳川家康がおこなった町割りによって整備された「駿府九十六ヶ町」の一つに数えられている歴史ある町で、この辺りは宿場町として人の往来が絶えない賑やかなエリアだったようで、かなり歴史の古い繁華街だったようです。
戦後の昭和20~50年代の七間町・人宿町は「静岡東宝会館」「静岡東映」「オリオン座」「有楽座」など十数館が立ち並ぶ、全国でも珍しい映画街として賑わいをみせていたようです。
静岡の映画館のルーツは明治初期に誕生した芝居小屋にあるようで、将軍の座を奪われた徳川慶喜が静岡で謹慎生活に入った際、江戸町火消の頭・新門辰五郎も慶喜の警護のために来静。静岡で約3年暮らしているが、明治維新で混乱する駿府の街を元気づけたいと、明治3年芝居小屋「玉川座」を建設した。3階建ての歌舞伎小屋で、こけら落としには東京から当代の人気役者が次々やって来て、連日大入り満員。近隣にはお茶屋や料理屋もでき、界隈は大変賑わったとのこと。
そして戦後昭和21年からは、次第に映画館が増えていき、昭和30年代には旧静岡市内に30館近く映画館があったという(現静岡市では46館)。
その後平成に入ると、映画館の数は減り、新静岡セノバにシネマコンプレックスができるとともに多くの映画館が撤退、移転していきました。街中の映画館として唯一残る「静岡東宝会館」は現在5スクリーンを有し、街中のシネコンでは上映しないような映画など、工夫を凝らして営業されています。
映画館の多くが撤退・移転する中で、建築設計事務所である「デザインオフィス創造舎」が人宿町にオフィスを移転してきます。それが2011年。その年が大きなターニングポイントとなっており、地区内で一番大きな映画館『オリオン座』の閉館、七間町に多くの映画館を構えていた事業者の新静岡セノバへの移転を発表した時期と重なりました。
そこから七間町商店街の店主を中心とした映画館跡地の利活用を考える会議が始まり、創造舎も縁あって、その活動に加わっていきます。商店街の方々から建築設計事務所を巻き込んで、創造舎も上手く自分たちの職能を活かすことを考え、取組が始まったようです。
そして、跡地利用として、コンテナを使ったイベントスペースとなるプロジェクト『アトサキセブン』が作られました。
アトサキセブンからOMACHI創造計画
アトサキセブンを通じて、商店街などの人々と仕事をする中で、そうした仕事から町が変わる事が見えてきたをきっかけに「建築設計の仕事を活かして、創造舎でOMACHI創造計画をやろう」と思い至ったとのこと。
代表の方曰く、「創造舎としてはアトサキセブンの活動も含めて七間町・人宿町を両方とも盛り上げたいと思いつつ、人宿町への恩返しとブランドづくりを手伝いたいという気持ちも強い」とおっしゃっており、これらの取組を通して企業の成長や様々な経験をしていく中で「町づくりも考えた建築会社になりたい」と考えるようになったともありました。
始めは面白そうとか、商店街の方々に巻き込んでもらいながら町に関わり始め、次第に町の中で仕事をする中で、少しずつ街づくり・都市計画といった知識や思考が醸成されていったのではないかと思われます。
ある新聞記事で代表の方は、『誰か頭でコントロールする人がいないと街は雑然とします。たとえば、ここではオーナー店舗の店しか基本的に誘致していません。そこにチェーン店が来たら(目指す街は)崩れます。昔は大手の不動産が入りたがっていた時期もありましたが、『ここは創造舎に任せよう』という雰囲気になってきており、僕がコントロールできています。デザインの連続性を持たせて写真を撮りたくなるような街にしていこうと考えています』と述べており、自らを七間町・人宿町のエリア再生を行うデザイナー・デザイン事務所として、ちゃんと責任を持ってコントロール・マネジメントしようとしていることが伺えました。
今回はそこまで色々と調べられていないので、この辺りでお開き。
色々な事例を見ていると、少しずつ自分なりにどのようなエリア開発が効果的になりそうか、何がエリア開発に重要な視点になりそうかという仮説的なものが浮き彫りになってくる。もう少し早く感じたかった感覚だ。
・・・
最後に現地に行った時の写真を(夜の写真で恐縮だが。。)
建築のデザイン一つ一つは置いておいて、新しい賑わいを作っていた。
今後の成長が気になるエリアである。
出典
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