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島と原付

20代の頃、仕事の都合で半年間、週に半分だけ島で暮らしたことがある。 
 
「週に半分だけ」というところから推測できるように、そんなに遠くの島ではなかった。広島からフェリーでだいたい一時間、高速艇だと30分の距離にある島だった。高校の同級生の中には、その島から通学してくる子たちもたくさんいた。 
 
その島は生活に必要なものは何でもあって、田舎の市のサイズ感だった。ショッピングセンターはないけど、小さめのイオンならある規模感。生活に困ることは何もない。ただ、海に囲まれているから、ちょっと物価が高い。そんな感じの場所だった。 
 
仕事先は中学校だった。 
 
知人に紹介され「なんとなく面白そう」と思って飛びついた仕事だったのだけど、ちょっと事務員たまに先生といった、中途半端な役職だった。HPの更新や、書肆の編纂を言い訳に、いつも理科準備室にこもっていたので、掃除の指導をするときくらいが学校らしさを感じる時間だった。 
 
職員室では腫れ物に触るようなお客さん扱いで、私もその状態に甘えて、誰ともあまり関わらずにいた。中学生は怖かったし、先生たちはもっと怖かった。ちゃんとしていない自分と比べると、誰もがちゃんとしすぎているように感じて、学校の中ではいつも縮こまっていた。 

半年でいなくなる私のそんな態度を注意する人もいない、本当に宙ぶらりんな状態だった。この仕事が終わった半年後には、何をするのか?そんなことは怖くて考えられなかった。「なんとかなるだろう」の先に何があるかは、誰も教えてくれない。 
 
島の生活用に2階建ての職員用アパートを借りた。入ったら食卓をおけるサイズの台所、その奥にガラスの障子で仕切られた6畳の畳間。あとは風呂とトイレ。 
 
週の半分しか使わないので、最低限の家具しかなく、炊飯器もなかった。それなのに、引越しの時に母からデロンギのパネルヒーターを買ってもらった。外国の屋根裏部屋みたいな、パネルヒーターのある生活への憧れを実現したのだ。 
 
密閉性の低いそのアパートでデロンギは全く活躍できず、その後、こたつを買うことになるんだけど。初めて実家から出る私は、パネルヒーターが、私の理想とするオシャレな生活に近づけてくれると思っていた。 
 
その職員アパートには20代から30代の男女が数人いて、わいわいやってもよさそうなものだが、そんなことも特になかった。隣室の女性とだけは仲良くなり、たまにピザを食べに連れて行ってもらったりしたが、他の人とはずっと疎遠のままだった。 

 仕事の思い出も、人付き合いの思い出も、ほとんどないのに、原付で走った島の道は鮮やかに覚えている。  原付のエンジンをかけゆっくりとフェリーを降り、海沿いの道を家に向かって加速する。それが好きだった。

  島に行くのはいつも夜なので、道はだいたい暗かった。  片側の冬の海は真っ黒で、誰もいない緩やかな坂道の続く県道。その時間には閉店しているうどん屋の看板、ポツンとある自動販売機の光。そんなところを大声で歌いながら原付に乗って帰るのが好きだった。誰もいない家に着く寂しさも新鮮だった。

  今、振り返ると。あの場所で原付に乗っていた私はどうしようもなく自由だった。過去も責任もなかったし、こうなりたいという希望も、選択肢もなかった。不安だけは、たくさん持っていた。そして、私は自分が自由だと知っていた。  あの時より、過去も責任も増えたけど、あの夜に感じた自由のきらめきみたいなものは、今でもずっと自分の中にあると思う。

おわり

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