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監督にこだわる理由は全くなし

2007年3月25日から新入生として練習開始。
ライト奥にある学校のサッカー場で始まった。有馬監督の前任校である都立保谷の野球部員が指導してくれた「メイクン」と呼ばれるアップがチームに導入されることになり、総工のアップとなった。有馬先生が強豪・新潟明訓高校への視察へ行った際にこれだ!と思い導入したらしい。それでメイクンと呼ばれている。
いわゆるリズムで動くのではなく、トレーニングをアップに入れており全身くまなく動かすから、特に股関節、太もも、ふくらはぎはとても張る。アップシューズはすぐボロボロになる。

そうして初日は始まったが、有馬先生は部長であることがわかった。

千葉智久先生日体大時代の1年後輩。先輩である有馬先生が監督をやると思っていた。本人は監督には全くこだわっていない様子で。

有馬先生はBチームを見ることになった。
私はBチームからのスタート。当然ながら有馬先生には「気持ちが弱い」「やる前から負けている」「私立に勝てるか!」かなり怒られたし、創部2年目のチームはボロボロに負けていた。

有馬先生はこのBチームでも選手のレベルアップをして、Aチームで使える選手を育てること。数多くの練習試合が組まれ、実践経験を積んだ。
都立高校に入ってくる生徒は中学時代、野球に取り組む意欲は高いが公式戦の経験がないかなんとなく野球をしていた生徒ばかり。心が育たないと私立に勝つということは不可能というわけだ。当然、都立城東でもそのような生徒ばかりを自ら鍛え上げ甲子園に連れていったのだ。

夏休みに関しては毎日試合。
1日しか休みはなかった。けど自分は中学時代にはほとんど試合には出ていない。身体はきつかったけど、心は育っていたように思えた。充実感に満ち溢れていたという表現が正しい。

だから先生が一生懸命指導してくれているのに、俺たちが頑張らないのはおかしいよな。
こう感じるようになってくる。高校に入って多少考え方については成長したのかなと感じる。

Bチームであってもやる以上は真剣勝負。チームの勝利にこだわり、個々の結果にこだわり、最後まで戦った。

赴任してから1年半は後輩でもある監督の千葉先生を支えた。
そして、自分達が2年生の秋季大会ブロック決勝戦では実践学園にサヨナラ負けで都大会出場を逃す結果に。

翌週の練習から来年に向けて、頑張ろうというときだった。
ある日の練習終了後に一塁側監督室の前で千葉先生から「監督を交代する」と発表された。

ついに有馬先生が監督に就任。
高野連の仕事が忙しくなったということが理由だったはずだが、原因は千葉先生を勝たせてあげることができなかったこと。ここに尽きると思う。
なぜなら2期生は能力が高いメンバーが多く、上級生の代でもメンバーに入っていた。ちなみにそのときのエースは現在も福岡ソフトバンクホークスで活躍している石川柊太投手。2年生から背番号1を付けている。

この2期生は有馬先生と総合工科へ一緒に来た学年だ。
私も含めて、慕って入学した選手も多かった。有馬先生も2期生も覚悟を決めて、この冬取り組むしかない。

選手の能力は東京でも上位に入る。
取り組みが甘かったのではと感じていたのは事実。まずは春に向けて、練習頑張ることだけ。確実に目の色は変わっていた。

有馬先生は勝負師、監督の顔に代わっていた。
気の抜けた練習してると負ける。2期生の表情からも伝わってくるものがあったことはよく覚えている。

アップ、ノック、個人練習と続くメニュー。
殺人事件でもあったのかと思えるぐらいグラウンドには殺気があったし、緊張感がすごかった。

自身はこの頃、2年生夏に腰をケガし選手としては秋季大会終了後、引退していた。有馬先生の右腕になることを決めており、明るく声を出して盛り上げることに専念していた。有馬先生から指示が出る前にメンバーへ指示を出す。こういったこともできるようになっていた頃には気づきも上達したかなと思う。ちなみにうちは野球部に入ったなら、野球をやればいいという考え。マネージャーには最後までならなかった。一流の控えと自分では自覚している。


最後の夏、選手名鑑に掲載するチーム紹介の文章を有馬先生は僕に任せてくれたこともあった。他の学校は主将やマネージャーがしているのに。
どの学校を見渡しても背番号20がチーム紹介をしている学校はなかったと思う。

都立調布南高校で監督をされていた田河清司先生現都立紅葉川高校)が僕の様子を見て「あの子いいね」と言ってくれたことは一生の自慢だった。聞こえていました田河先生!


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