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甲子園監督が異動してくる!?

 北海道日本ハムファイターズで活躍中の斎藤佑樹投手が高校3年生だった2006年夏の甲子園。「ハンカチ王子」として世間の心を掴み、甲子園優勝に導いた。佑ちゃんフィーバーがすごかったことを覚えている、甲子園もすごい盛り上がりだった。
2006年、中学3年生だった私は、日本リトルシニア連盟・世田谷西シニアに所属し練習に励んでいた。チームは夏の全国大会を懸けた関東予選でまさかの初戦敗退。切り替えて高校進学へ向けて練習していたが、何処に進学しようか悩んでいた。ちなみに世田谷西シニアは全3年生部員の進路先の面倒を見てくれる素晴らしいチームだ。

当時は東京都中央区に住んでいたため、比較的近い千葉県の学校に興味を持っていた。
市立船橋、市立習志野、東京学館浦安など…
シニアの監督だった恩師・蓬莱明彦監督からは思いもよらぬことを聞かされた。

「世田谷区成城にある今年開校した都立総合工科に都立城東で甲子園に出た監督が来年異動してくるみたいだ」

衝撃的だった。元は都立世田谷工業という学校。
当時は監督だった都立総合工科の千葉智久先生が開校準備室の先生として赴任し初代監督であった。
中学3年生の5月頃から駒沢球場での夜間練習に顔を出していたのは知っていたし、中学2年生のときは統合前の世田谷工業で練習したこともあった。そしてそこでも千葉先生には会っていた。

蓬莱監督の息子さん、俊彦さんは都立総合工科の1期生として入学しており、また他2人シニアの先輩が進学していた。
そういったことも重なって都立総合工科の進学を考えるようになった。周りは野球強豪校に推薦で決まっていたし、自分はそういう選手ではないことは自分が一番よくわかっている。

僕自身、世田谷西シニアの指導者だったからこそ苦しいこともあったが続けることができた。
実績ある監督のところで指導受けたいと思うのは当然だった。父にもこの話をしたら本当か??と驚きを隠せずにいた。有馬先生のファンであることをこのときに知る。

どのようなことがあってもプロ野球選手は無理だし、大学でも続けられるとは思えない。だったら、歴史もない学校だし甲子園監督の下で野球やろうと思い「都立総合工科」への進学を決意した。

家族やシニアの指導者に伝えた。「都立総合工科への進学で準備したいと思います」

都立高校に野球で決まるみたいな制度はないので、翌年1月の推薦入試に向けて、勉強と野球の両方で準備することになった。
高校野球からが本番。世田谷西シニアでは卒団の3月まで全力で練習をするチームだ。

その頃、同級生ではまだ進学先が決まらない選手も当然いる。
「甲子園監督が異動してくる」「開校2年目だから上下関係はなさそうだよ」「野球の専用グラウンドある」「俺達で歴史残したら面白いよな」
余談ではあるが、自分は周りが引くぐらいの高校野球知識を持っていた。
同級生からも進路相談を受けることもしばしば…

このような口実で同じく都立総合工科への進学を決めたのが最終的に背番号10を付け、リリーフとして欠かせない成長をした芦田大介。レギュラーとして背番号5を付け、春と夏の公式戦で本塁打を放つ活躍をした高橋海大。

そして最後は、2期生の主将を務め、4番打者だった河西大樹(国士館大学―ゴールドジム)大学でも野球を続け、今では就職先のゴールドジム野球部では主将を務めている。
自宅は世田谷区祖師谷に住んでいるから、成城にある学校には近い。
またシニアでも中心選手としてレギュラーで活躍。当然、河西が来たら強くなるし、1年生から試合出場できるのでは??

受験を決めた3人で考えた。
「河西を誘おう」

その頃、河西は様々な高校から誘いを受けていたが進路が決まっていなかった。ギリギリまで決まっていなかったことを覚えている。

必要に誘おうとはしないようにしていたが、3人で高校の話はするようにしていた。河西の進学を促すために(笑)

ついに11月頃だったと思う。
河西が総合工科への進学を決意した。千葉先生も河西が進学することには驚いたらしい。


4人全員が無事に合格。
個性に溢れた4人が同じ高校へ進むことになった。

「この4人全員が活躍して仲間と甲子園行くぞ!」

そう誓い合った4人が高校へと進み野球人生がスタートした。


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