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当時からアニメやゲームが大好き!?恩師の側近が語る!いち早く見抜いた才能、大事なところでやらかす、上手くいかなくても大切に、そして暖かく見守った高校時代の石川柊太投手(福岡ソフトバンクホークス)を指導した有馬信夫監督の教えや指導方法

2006年4月に新設校として産声を上げた世田谷区成城にある「都立総合工科高等学校」都立小石川工業と都立世田谷工業が合併されてできた学校です。

著者である新町真之介も2期生として翌年2007年に入学し、このコラムの主人公である福岡ソフトバンクホークスの石川柊太投手は野球部の同級生でした。1999年に都立城東を夏の甲子園初出場へ導き、都立保谷を経て人事異動で2007年に都立総合工科へ赴任されたのが恩師になる有馬信夫監督です。

同校は野球専用グラウンドもあり、環境が素晴らしいです。野球部強化、甲子園を目指して優秀な部員も集まってきたし、有馬先生も異動されてきたのだと思います。

自身も入学した理由としては中学時代に所属していた世田谷西シニアの同期複数が同校に進学する、新設校であったこと、有馬先生が異動してくることを聞いたので進学を決意しました。

なので石川柊太投手とは同じ高校で出会った同期ではありますが、入学するまで知らなければクラスも違うし、電車で帰る方向も違うしそこまで深く関わったことあったかなあ~って思うこともありますが大切な野球部の同期であることに変わりはありません。コロナ渦前は毎年年末に恩師へ挨拶行って、忘年会もしていました。

今では福岡ソフトバンクホークスの中心投手として活躍していますが、高校時代からすごかったの?と聞かれることが彼の活躍により多くありますが決してそうではありません。むしろ紆余曲折が多かったのではないかと思います。

三塁ベースコーチ、伝令役、シートノック時の有馬監督専属ボール渡しとして背番号20でメンバー入りしていました私が恩師である有馬信夫監督の言葉を現役時代、卒業後も含めて丁寧に思い出しながら高校時代にどんな指導をしていたのか当時のエピソードも踏まえて振り返りたいと思います。

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ボール渡し
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伝令
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三塁ベースコーチ

■「石川柊太」ってどんな高校生だった!?

野球部の同期からは「オタク」って呼ばれてました。
今も変わらず当時からアニメやアイドル、ゲームが大好き。石川柊太の印象ってほんとにそんな感じです。同級生はみんなそうやって言うと思います。

自身はゲームも等々含め全く興味がなかったので一切その輪に入らなかったのですがPSPでやる「モンスターハンター」が野球部で大流行。PSP持っていた部員はみんなやっていたんじゃないでしょうか!?

普段、柊太は物静かで言動で引っ張るような人間ではないですがモンスターハンターはPSP持ってる人間が近くにいるとオンラインで対戦できたりするそうでゲームになると周りにあれこれ指示を出し『強烈』なリーダーシップがありました。笑

私は周りがやっているのを見ているだけでしたが昼休み、授業の空き時間はずっとやっていたんじゃないでしょうか。。。
(当然、授業中は授業に集中していたよね...?)

野球部の練習になると、大きな声を出して鼓舞するような選手ではないですが2年生からエースナンバーを付けていたので言動で引っ張るよりも行動で引っ張るような選手でした。

■2度目の甲子園を夢見た「石川柊太」という才能

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先発する石川柊太
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選手に檄を飛ばす有馬監督

石川柊太投手の恩師である、有馬信夫監督はとにかく野球に対して熱い先生です。負けるのが大嫌いだし、都立だとか私立だとか関係なく一野球選手として求めてるレベルもすごく高いところを想定されてるので厳しい言葉も数多くありました。僕ら2期生は有馬先生を慕って入学してきたメンバーが多かったので、3年間毎日緊張感ある練習だったように思えます。

石川柊太は後に聞くと、有馬先生が異動してくることは知らなかったそうで環境だったり、新設校だったことに魅力を感じたそうです。

当然ですけど石川柊太は有馬先生のこと知らなかったし、有馬先生も前年までは都立保谷で監督だったからどんな選手が入学してくるかなんてわからないですよね。この出会いは本当に偶然です。

2007年3月25日から我々新入生も練習開始をして、有馬先生も合流されました。赴任当初は総監督、責任教師という立場で指導されており、全体の練習を見ていました。

身体は細いけど石川柊太のムチのような腕の振り、ダイナミックな投球フォーム、威力ある高めのストレートを見た有馬先生が言ったこと。

「あいつで甲子園行けるぞ!」

よくこのレベルの投手が都立に...彼の才能を見て思わずそう言ってしまったそうです。この子がエースになるだろうなと確信したと。高校入学の時点で有馬先生は一発で才能を見抜いていました。

「とんでもない投手が入ってきた...彼は将来がある子。大事に育てないといけない」

当時同じく野球部を指導していた千葉智久先生とこのような会話をしたそうです。

その後、石川柊太は順調に伸びていき高校1年生秋の大会から控え投手としてメンバー入り。高校2年生で春の大会から背番号1を付けました。3学年揃うと部員100人超える野球部で誰もが納得するエースになりました。

■秋季大会での悲劇

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采配する有馬監督

2006年に開校した母校で1期生として学校の立ち上げから歴史や伝統を作った3年生最後の夏は4回戦ベスト32で都立小山台に敗退。石川柊太も2年生春から背番号1を付けて、既に上級生の代から中心選手として登板していました。

新チームとなり夏休みの練習試合を重ねて、秋季東京都ブロック大会1次予選を迎えました。本戦に進出するには3勝しないといけません。初戦の日大桜丘高校戦に完封勝利し、次戦の國學院高校戦で事件がありました。この試合も先発として石川柊太でいくことが知らされ、対戦校とメンバー表交換を済ませたところで。。。

石川柊太:「大介ごめん、肩作って」

芦田大介:「えっ?」

芦田大介とは筆者が中学時代に所属していた世田谷西シニアの同級生で高校では背番号10を付けて絶対的リリーフだった芦田大介のこと。(現在は駒沢女子高等学校硬式野球部で監督をしています)
なんと石川柊太が試合前練習の遠投で肩を痛めてしまったという。それを聞いたベンチは顔面蒼白。謝罪のため審判と対戦校に説明すると、この試合で使わないことを条件に試合開始直前でのメンバー変更が了承されたそうです。

このときのことを有馬先生は「くそーーと思ったけど、これも指導者の仕事。今ではいい思い出だけど、ここで投げさせてたらあいつの将来を終わらせてしまっていたかもしれない」と振り返りました。その日は千葉先生とヤケ酒をしたそうです。

結局この試合は勝利を果たし、事なきを得たという形になりました。翌週のブロック予選決勝の実践学園戦から復帰し先発をするも5回で降板。その後のリリーフ投手がサヨナラ打を浴びて総合工科高校は本戦進出とはなりませんでした。

秋季大会後の石川柊太は完全ノースロー調整。有馬先生も「あいつはいい意味で放っておく。この冬は2番手投手以降の整備だな」

春大会、夏大会を戦うに向けて石川柊太に頼りきりだった投手陣が大きく伸びていきました。

■春季大会での落球事件、覚悟を決めた最後の夏

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冬の練習を終えて迎えた春季東京都大会。石川柊太も復帰し、チームは1回戦から勝利を重ねて準々決勝進出を果たします。チームとしては創部4年目で初のベスト8進出です。相手は秋季東京都大会優勝校で春の選抜高校野球大会に出場した国士館高校でした。この試合の先発は右サイドハンドの芦田大介が先発、試合は6回まで0-0で接戦。両チーム決定打が出ない状況で事件は7回に起きました....石川柊太はこの試合に登板することなく途中からライトで試合出場していました。打撃もいいからだと思います。

7回裏、国士館の攻撃。バッターが打った平凡な打球が石川柊太が守るライトへ。

「見えない!!!!」

当時、センターを守ってカバーに走った森拓也にこの声が聞こえ見ると石川柊太が落球。。。太陽が目に入ってしまい打球を見失ってしまいました。この間に国士館高校に2点献上。その後のリリーフも反撃を止めることができず8回裏に5点を奪われコールドゲームが成立。総合工科高校は7-0で国士館高校に敗戦でした。秋季東京覇者と互角に試合できていたので、残念な負け方ではありました。春の大会から復帰した石川柊太ですが、本来のボールではなかったように思えます。後に聞いてみるとまだ肩は痛かったそうです。

迎えた最後の夏。
第91回全国高等学校野球選手権東東京大会で同校は第三シードで迎えることになり、同大会も石川柊太が背番号1を付けることになりました。有馬先生も納得するボールではなかったと言っていましたが、彼は秋に負傷しても指導者の目がない室内練習でも手を抜かず腐ることなくちゃんとやっていました。

「この代の背番号1はやっぱり柊太。彼には将来もある。大学野球部からスカウトの話もいただいていた」

危なげない試合もありながら同校は準々決勝へ進出。この試合も石川柊太は先発するも4回3失点で降板。リリーフが踏ん張るも二松学舎大付属高校にサヨナラ負けで敗退。この試合含め3回戦から準々決勝までの4試合先発。4回戦の高輪高校戦では完封勝利し、復調したかと思います。エースとしての役割をしっかり果たしてくれました。

高校時代からすごかったのかと聞かれると、いいときもあれば良くないときもあったかなと。彼自身もきっと納得するような高校時代ではなかったかと思います。

■みんなから愛され、卒業後も変わらない「石川柊太」

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石川柊太が大好きなももクロポーズ


恩師もこの代は「とても仲良し」と言い年末には来れるメンバーだけではありますが、有馬先生や当時赴任していた先生、野球部ではない一般生徒も交えて野球部忘年会も開催していました。恩師は現在、都立足立新田高校野球部で監督をされているので母校には勤務していませんが石川柊太は毎年挨拶へお邪魔しています。本当に律儀な男です。

柊太も当時のことは笑いながら話してくれています。特に落球のことは「本当に申し訳なかった」と。同期の中でも石川柊太の肩の負傷と落球事件は今でも集まると語り継がれる酒のつまみになっています。有馬先生も「あの試合で柊太をライトで使ったのは誰だ!?」とおどけてくれています。当時はベンチでめちゃくちゃ怒ってたけど。笑

有馬先生も同期もよくこんなこと言いますが、1億円プレイヤーになっても変わらない、本当に人柄がいい奴です。同期も当時のまま接しますし、彼には誰とでも仲良くなれる力があります。今でもアニメやアイドルやゲームが好きだそうなので、石川柊太の個性は遺憾なく発揮してくれてると思います。当時から何も変わらない性格なのでファンからも愛されて応援されているのかなと思います。

石川柊太活躍する度に高校時代の恩師である有馬先生のところへ取材が来るそうです。

「俺のできることは何もいじらず上へ送り出すことだけだった。彼がこれほど伸びたのは間違えなく創価大学と福岡ソフトバンクホークスのおかげ。本当に感謝しています」

様々なメディアでこう伝えています。有馬先生は投手指導が上手な指導者に教えを仰いだり、誰よりも石川柊太の将来を考えてくれていました。2021年に開幕投手になった際には有馬先生と私で福岡県の放送局から「当時のことを語る」という企画でTV出演をさせていただきました。聞き手の方に石川柊太のことについて聞かれる有馬先生はただただ優しい表情や眼差しで石川柊太について語っていました。本当に嬉しいんだろうなあと。そんな姿を見て私も感動しました。

今でも集まると「打たれたときに堂々していること」「逆境から逃げない」と「恩師」と「教え子」の関係にふとなりつつ、「怪我だけには気をつけて、俺に少しでも長く自慢させてほしい」というメッセージがありました。

石川柊太の高校時代はどんなだったのか?恩師である有馬信夫先生はどのように接していたのか?そのような内容が伝われば幸いです。

「調子いいときは良くて、苦しいときに何もできない奴はどこ行っても使えねえんだよ」

これが有馬先生の教えです。石川柊太はマウンドでもいちいち顔に出さない、堂々としていますよね。先発として十分役割は果たしています。

2022年シーズンは苦しんでるように見えますがここから耐えて粘ってシーズン終了するまで頑張ってほしいです。

※文春野球フレッシュオールスター2022応募作品です。


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