20歳最後の日、あの人に会いにいってみた
3月6日、20歳最後の日、あの人に会いにいってみた。
中学校の入学式以来、約11年以来顔すら合わせていなかった、あの人に。
あの人、母親の言葉を借りるなら
”酒、女、賭博に溺れた”
あの人。僕が小学校の時、離婚して家を出ていったあの父親にである。
というのも。
きっかけは、最近仲良くなった子の一言。
普段からぷらぷらしてて、ふざけてばかりの僕は、基本的に相談を人にしない。
自分の事を誰より知っているのは自分と思っているのかもしれないし、
自分以上に自分のことで悩んでくれる人なんていないと思っているのかもしれないし、
そんな僕は側から見ると
”人生超ハッピー野郎”
”the・スクールカースト最上位”
みたいな風に映ってるであろう。でも本当は毎日孤独や不安に苛まれ、生きるのもしんどい時もしょっちゅうある。(大体信じてくれない)
そこらへんは駄文ですがこれでも読んでみてくれると嬉しいです。
そもそも僕は人にマイナスというか、負の領域の話を人にするのが苦手だ。普段とのギャップも相まり僕の過去の話は結構重いし、驚くし、かわいそうな子と思われるのは嫌だ。
それに、今現在自分は幸せだし、過去や自分の抱える負や怒りに同情されるぐらいなら死んだ方がマシだ。
それに、誰かと仲良くなる上で自分の負の話をする事、それを”自己開示”と呼ぶとして、自分の大事な部分を仲良くなる道具として使う気もする、それは本質じゃない気がする。
でも、その子には不思議と話したくなる、そんな不思議な雰囲気があった。
この人なら受け入れてくれそう、そう感じた。
知ってほしい、話を聞いてほしい、そう思ったのだ。
その子は、ぽつぽつと語るワイの話を”うん、うん”と時折あいづちを混ぜながら話を聞いてくれた。
じっと僕を見る目には、同情や共感の様な色はなかった。ましてや、「わかるよ」の様な背伸びした言葉も何一つ言わなかった。(これが本当に嬉しかった。)
ただ、その子は受け入れてくれた。
ひと段落して、ふと思い立ち、あの人の話をしてみた。
酒、女、賭博に溺れた事。家族関係が最悪だった事。食卓を一緒に囲んだ事がない事。大好きなお母さんを大事にしなかった事。
何故この話をしたのか今でも全く分からない。
そもそも、僕の中では過去の話と自分に言い聞かせていたトピックなので、あえて話す必要すらなかった。
きっと、どんな言葉をくれるのか気になったのかも知れない。
そうすると、その子の口から突拍子も無い一言が出てきた。
「会いにいかないの?」
そうして
「はい?」と思った。そんな観点は僕の中に一切なく、本当に驚いたのを今でも覚えている。
「絶対に会いたがってるよ。きっとそう。
貴方がお父さんの立場なら、会いたいでしょ。」
確かにそうだなと思ったし、人の負の領域に土足で入る様なこの会話でさえも一切の不快感もなく、むしろ有難いとさえ思っていた。
20歳は子供が成年する年、人生の節目の年。会うなら、きっと今しかない。
そう思い、もやもやしながら、あの人にLINEを送ってみた。
「3月6日の夜、空いてない?」と。
返事は、「あけるよ」の一言。
こうして、20歳最後の夜を僕はあの人、11年間顔を合わせた事のなかった父親と過ごす事にした。
高鳴る鼓動、襲う腹痛
(↑めっちゃ良い表現じゃね?語呂よくね?俺やっぱ天才や)
前日の夜から、本当に緊張していた。お腹が痛かった。キャラじゃねぇ。
胸の動悸、腹痛に襲われ、朝起きてからずっと辛かった。
大阪まで出向きながら、到着した瞬間に”もう帰ろうか”とも思った。
絞り出した結論は、こうだ。
対父親というより、1人の人間として、1人の男として、
つまり「他人」として会うんだ、と。
「そうだ、11年ぶりだぜ。」
「そもそも昔から単身赴任だったし、あの時から他人の様なもの。」
「クソが。なんなら一発殴ってやろう。」
そう思い込み、何なら怒りの様な感情さえ抱いていた。
そうじゃないと、やってけなかった。
きっと、心のどこかでは楽しみだったのかもしれない。でもあのドロドロと渦巻く感情をそうポジティブに捉えれる程、僕にとってこのイベントは軽いものじゃなかった。
怒りや恨み、その様な黒い感情で息子としての気持ちを押し殺し、待ち合わせの場所に向かった。
会社のスタッフさんが迎えてにきてくれ、
「伸也くんですか?」と。
「すごく会いたがってましたよ」と。そうだろうな、と。
もう感情が爆発しそうで、吐き気を堪えながら、スタッフさんに適当に相槌を打ちながらお店に向かい、着き、ドアを開けてくれた。
緊張は最高潮に達し、ひとつだけ深呼吸を挟んでのれんをくぐった。
そこに、”あの人”はいた。ああ、今も鮮明に思い出す。
あの人は、あの人なんかじゃなかった。
父だった。父だったのですよ。他でもない、僕の父。
涙が溢れた。我慢なんかできなかった。
父は、何も言わず、ただ名前を呼び、抱きしめてくれた。
11年ぶりの父親
それから、美味しいお寿司を食べながら、沢山おしゃべりした。
11年間の空白、心の距離を埋める様に、沢山お話した。
いっぱい笑った。色々お仕事もやっているみたいで、名刺も貰った。
父は、新しく立ち上げた会社に僕の名前を付けていた。
いわく、
「一度会社を潰し、俺の人生は潰れた。最愛の嫁も、子供達も失った。
だから、0からやり直そうと思った。でも、やっぱり怖かったんだよ。
だから、会社にお前の名を付けた。頑張れる気がしたんだよ。
絶対に守り切ろうと思ったんだよ。死んでも守ろうと思ったんだよ。」
また、泣いた。ずるいですよね。
会社は大きくなり、借金も全て返済し、今は無借金経営で、上場間近らしい。
そして、部屋に僕たちの小さい頃の写真を貼り、今でも毎日みてるらしい。
「会いたくなかったの?」と聞くと、
「アホか、死ぬ程会いたかったわ。でも会わせる顔がないやないか。
だから、お前が会いにくるのを待ってたんや。11年待ったんや。」と。
我慢してたんだなぁ、ずっと愛されてたんだなぁ、と。
そんなこんなで
話が長くなりすぎるので、これからはエピソードをちょくちょく箇条書きで。
・父は、大阪の王になっていた。笑
店を出ると、いろんな人が父に声をかけてきた。北新地らへんは大体父の店っぽくて、どこでも名前を出したらタダで入れるからいつでも来いと。
痺れた。かっけぇ。「大阪にいる限りお前は何しても大丈夫」と。怖いわ。
・包丁もらった
スマスマとかメディアに超出てた日本食の神様、料理の鉄人のおっちゃんに超高級な包丁を貰った。藤尾飯が捗りそう。コネクションにビビった。
・何故かホステスに連れてかれた
パチンコもクラブも、夜の街をは無縁な僕はホステスに2件連れてかれた。
「夜の街を俺の仕事を教えてやる。」と。
人生初ホステスは、タバコの火は付けてくれるし、お酒は用意してくれるし、灰皿はタバコ一本で毎回替えてて、なんかまじでホスピタリティやばかった。自己肯定感超上がった。
でっかいケーキも用意してくれ、色んな人から誕生日プレゼントも沢山貰った。ホステスも父もすげぇなと思った。
・父は超人気者だった
もうね、本当に感動。写真も見せてたみたいで、座ってると代わる代わる人が父に挨拶にきて、「〇〇さん!お疲れ様です!」「これがあのお子さん!!えー!!」みたいな。父は偉そうにする事もなく、手をひらひらさせながら「元気か、いつでも頼って来いよ。」と。
父がトイレに行くと、皆が我こそは、とばかり父の伝説を聞かせてくれた。
父は11年間、色んな場所で色んな人に僕の話をしてたみたい。
・父はバケモンだった
流石と言うべきか、仕事は超できるみたいで、皆が知っている様なお店も結構な割合で父が作っていた。名前出したらすぐ通るらしい。
仕事仲間も超有名企業の社長とかで、芸能人ともめっちゃ仲良いらしい。
こないだは山田孝之さんとケーキ食ってたらしい。
・父はクソだった
若い時は、遊べ。女に溺れろ。やりまくれ、と。やって、やって、やりまくれ、と。タバコと酒も浴びろ、と。
クズだなぁ、と思った。「文春砲食らったらいいのに」と言ったら、「一回食らった。金で解決した。」と言っていた。引いた。
・確実に僕は親の血を引いていた
クリエイティブが得意な事、やんちゃばっかしていた事、大人に歯向かう事。昔のやんちゃエピソードの一つ一つが本当に似てて、例えば
「お前学校のガラス割った事あるか?」と聞かれて「2枚」と答えると「俺は72枚」とドヤ顔された。死んだらいいのに、と思った。
11年も会ってなかったのに、本当に僕は父の生き写しみたいだそうだ。若い頃を見てるみたい、と。父の友達は皆泣きながら、笑いながら僕の話をずっと聞いてくれた。
そして、何より人と縁に恵まれている事。人が集まる事。
僕の唯一の才能だと思う。
沢山の事に気づいた
親はやっぱり偉大だと言う事。
(もしかするとこれを読んでいる人に、虐待や放置を受けた人がいるかも知れない。親を愛せないかも知れない。身の危険を感じるならすぐ逃げた方がいいとも思う。ただ、自分は運がよかっただけだと思う。)
今思うと、母は僕に父の悪口を言った事など一切なかった。
僕の記憶の中の母はいつも笑っている。息子を不安にさせたくなかったんだろう。
母は僕が幼少期の頃、近しい家族を2人なくしている。母の姉が若くしてガンになり他界、そして父がその後すぐ出ていったから。
母は気丈に振舞ってくれていた。母親としての強さなのだろう。母とは狂った生き物なのかもしれない。最愛の人を同時期に2人もなくし、それでも息子を想い、一緒にいる事のできる歓びを説いてくれた母。
母にはまじで勝てない。偉大過ぎる。(ちなみに俺の世界一尊敬する人はお母さん)
そして子は、いつまで経っても子なのだろう。
無意識に資本主義に毒され、ふと自己紹介をする時は学校名から言い、就活の圧力に潰され、”やりたい事がないなら死ね”みたいな風潮に苦しみ、自分なりに世界に少しでも貢献しようとインターンやら事業やら携わって来たが、もうそんなのどうでもいい。
だっめ、僕はあの人達の息子なのだから。
あの人達にとって、俺が心も身体も健康でいる事、それ以外に大事な事なんてきっとない。
そう思うと、肩の荷がすっとおりる気がする。
就活中の人が読んでくれているなら、是非一度考えてみてほしい。
無意識のうちに僕達は資本主義、社会に毒されてないだろうか。
身も心も削ってまで誰かに否定されるクソみたいなシステムに負けないでほしい。
どうか、自分を必要以上に責めないで。誰かが決めた仕組みに乗れなかっただけで、自分を責めないで。貴方の素敵なところはきっと何一つ変わらない。
目の前を人を大事にする事、笑顔でいる事、健康でいる事、それより大事なものなんてないはずだから。
夢ができた
前から宣言していたが、僕はいい父親で在りたい。
これ以外にないな、と思った。
やっぱり仕事とか世界とか割とどうでもよくて、どうでもいいというか、目の前の最愛の人を大事にする事より大事なものなんてないんだって。
なんかね、父ね、もうマジでかっこよかったんよ。
仕事に誇りを持ち、楽しみながら会社を大きくし、人を大事にし、人に恵まれ、慕われ、少し道を踏み外しさえしたが、人の道は逸れなかった。
1人の仕事人として、男として、経営者として、そして何より父として。
父は圧倒的にかっこよかった。
父を超えようと思った。
はるかな高みだし、あいつ多分不死身やからきっとさらに上に行く。
仕事人として、ひとりの人間として、そして親として。超えたいと思った。
でも、それより、そんな事より俺は子供と一緒にいてあげたい。
どれだけ今、父が好きでも、寂しくて、裏切られた様な周りの家族が羨ましかった11年間という時間は覆らない。
1回でいいから、皆で食卓を囲んで食事をしたかった。「今日こんな事があったよ」と学校帰りに話を聞いて欲しかった。卒業式だって、来て欲しかったし、部活の賞状やトロフィーも自慢したかった。褒められたかった。
ただ、一緒にいて欲しかった。(泣けてきた)
それでも、前に進まなければならない、と今は思う。
過去は赦し、清算しようと。
今、一緒に酒を飲み、タバコを嗜み、バカ話ができるんだから。隣にいてくれるんだから。こんなに好きなんだから。
あえて言おう、僕は父を、家族を、ずっと愛してる。
拝啓父よ、自慢の息子は21歳になりました。僕は、元気です。
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