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【質問箱】学校の勉強だけ出来ても意味なくない?

2つ目の質問です!
「学校のお勉強だけ出来ても何の意味もないと思うのですが、どう思いますか?」
です。

多分これは意訳すると「結局社会で求められるのはコミュ力では?」「学校で勉強して成績を取っても社会に出て役に立たなくない?」みたいな意味合いが含まれてるんじゃないかなぁ、と思います。
後、「お勉強だけ」という表現の裏には、”成績以外に目立ったスキルは見当たらない”というオプションもあるのでしょう。

結論、回答でいうと「学校で勉強が出来ることには意味がある」「社会に出てもその姿勢と力は大きな意味がある」という回答になります。
そして、「学校で勉強が出来るというのは、限られた条件下で発揮されるスキルである」です。

一点注意ですが、この質問は”社会に出る”という文脈での質問でしょうから、学問としての勉強ではなく成績を取る勉強という意味で書きます。(心苦しいですけれども。)

それでは、いってみましょう!

学校で勉強ができるという能力

これって、そもそも頭がいいとか、塾課金とかってのはケースバイケースなので一旦置いとくんですけど、要は学校で勉強ができるというのは「与えられた課題をきちんとこなす力」だと思うんです。
学校という世界では成績史上主義であり、つまり”勉強ができる”ということが正義なんですね。
特に中高では成績に応じて進学先の選択肢がバッと広がります。
つまり勉強ができるということがその人の未来の幅に直接つながるのです。(内部進学、推薦とかは除く)

就職に置き換えてみてもそうです。
学歴というのはその人の能力値の証明書の様なものですから、いい高校、いい大学を出ているというのはニアリーイコールで
「◯◯大学に受かる地頭がある」
「与えられた課題をきちんとこなす力がある」
「社会にとって何が大事かを汲み取り、努力する姿勢と力がある」

という証明になります。

就職活動ではほとんどの場合まず履歴書を見ますから、学歴があるというだけで一定以上の能力値は評価されるし、実際に面接でも多少アホに見えても「でもこの子はこの学歴だからな」の様に解釈される場合もあります。

つまり、勉強ができる人というのはそのまま未来の選択肢の幅を持つということであり、その人が優秀であることの一定の証明にもなるのです。

ここまdねお流れは一旦まとめてみましょう。
質問者さんの質問は「それだけじゃ意味ないんじゃないの?」ということです。
これに対しての回答としては、以上の理由から学校で成績がいい、勉強をしている/できるということには大きな意味と力があります。

そして、その先ですよね、
”それだけじゃ意味ないんじゃないの?”という質問に対しては冒頭の回答ですね、「学校で勉強が出来ることには意味がある」「社会に出てもその姿勢と力は大きな意味がある」につながるところ、学校で勉強が出来るというのは、限られた条件下で発揮されるスキルである」に話が進んでいきます。

勉強”だけ”ができるということ

質問者さんは”だけ”という表現を使っていました。
つまり、運動や芸術など特に秀でた点が見当たらないということでしょう。まあ早い話、勉強だけしてても意味ないんじゃないの?ということですよね。

確かに、「学校で勉強”だけ”できる」というのは、とある条件のもとで輝くスキルです。

その条件というのは
①「ルールや評価基準が明確である」
②「コミュニケーションが比較的少ない」

ということ。(だと考えています)

冒頭で勉強ができるというのは「与えられた課題をこなす力」だと述べましたが、学校という環境においてはこの”課題”というのに上記の条件が自然と付随してくるんですよね。

①「ルールや評価基準が明確である」

これについてですが、成績というのは明確に数値で表れます。
テストという性質上、そこに他人の評価は介在し辛く、また機会も均等に与えられています。全員が同じテストを受け、全員が同じ様に評価されます。
確かに、美術や音楽、体育等第三者の評価が絡むことはありますが、勉強だけできる子は十中八九問題児ではないのでマイナスに働くことはそうないでしょう。

これがもし一般的な営業職等に就いた場合、基本的に評価というのは成果にもよりますが上司からの評価が強かったりします。また、どうやって成果を出すか、というhowの部分が割と属人的だったりもします。

例えば、、、
会社で”毎月5件の成約を獲ってこい”の様な課題が与えられた場合、その為にはいわゆるコミュニケーション能力やモチベーションの自己管理能力、リサーチ力、忍耐力等(適当やな)数々の複合的なスキルが求められ、優秀な働き手は自分の強みである部分を使って課題に応えていきます。

ただ勉強だけができるという場合、ルールや評価基準が明確である、そしてコミュニケーションが比較的少ない状況下でのみ発揮される力ですから、他の色々なスキルを持っている人に比べて苦労するでしょう。

なので、勉強だけ出来る人は進む環境を選ばないと多少大変なんじゃないかな、とは思います。
それが、こちらの話にも繋がってくるんじゃないでしょうか。

②「コミュニケーションが比較的少ない」

基本的に会社、ほとんどの組織は人間同志のやり取りで成り立っています。
”コミュニケーション”の定義では、ここでは「自分の伝えたいことが相手に伝わる様に適切な形で表現し、期待通りの動きをしてもらうこと」とします。まあ様はちゃんと相手に分かる様に伝えて、相手を動かす力ですね。
逆も然り。相手の言いたいことを汲み取る力も重要です。

言葉というのは「何を言うか」と「どう言うか」の2つのステップに分かれています。どれだけ頭が良くてロジカルな思考をしていて、言いたいことが優れていても(what)、それが相手に伝わらなければ意味がありません。
さらに言うなら、相手が自分の期待通りに動かないと。

そういったどう言うか(how)はとても難しいものです。
その人の人柄や過去の言動、その場の環境や雰囲気、業界等の独自の文化等の変数が多く、そしてその微妙なニュアンスは過去の人付き合いの中から学んでいくものです。

本当に勉強しかしてこなかった場合、確かに苦労するでしょう。
そしてそれは直接的に成果や評価にも繋がるでしょう。

(もしこれで困っている方がいたら、コピーライターの本とかおすすめですよ。梅田さんという一流のCWが書いた『言葉にできるは武器になる。』とかおすすめです。めちゃくちゃ。)

さて、それでは、じゃあ勉強ができないということはどういうことなんでしょう。多分、こっちの方が大変なんじゃないかと思いますよ。

ちなみに僕の高校時代の加重平均は10段階中3.5。

勉強ができないということ

まず、そもそも勉強だけできるケースってそうないと思うんですよね笑

勉強が出来るというのは多分自分に合った勉強法を確立しているからだと思うんです。
つまり自分にとってどういう学習法が必要かを把握していて、そして自分のモチベーションを高くする方法、それを維持する方法も知っている、という事だと思うんです。

つまり学校で勉強ができない人は、自分のそれらを知らないということです。
(スポーツや芸術で高い結果を安定的に出している場合等は除きます)

まず、与えられた課題をこなせない。それがどういう風に自分に働くかを想像できない。(もしくは想像しても動けない)

つまり、勉強ができない人は、それ以外のスキルで戦わないといけないんですね。
多分、それが分かりやすい例でいくところの”コミュニケーション能力”なんでしょう。

「勉強だけ出来ても意味ねぇじゃんwww」みたいな人に訊かせて頂きたいんですけど、あなたのそのコミュニケーション能力は一体どれほどのものなのでしょう。
数値で測れない、そして相手やコンディション等の変数が多い(ってかとくに相手)、定義も曖昧なコミュニケーション能力ですよ、それだけであなたは自分の価値を発揮しきれますか?
自分は有用な存在であると証明できますか?

クラスで人気者だったり、友人が多く先輩にも可愛がられ後輩に慕われ、先生付き合いも良かったり、心から没頭できる趣味があったり、そういう人並外れた何かはありますでしょうか。
(ここで少しでも「ん〜」ってなるなら、多分それはほとんどの人に適用するレベルのものだと思って良いと思います。)

結局会社に入ると特に最初は求められるのは、与えられた課題をこなす力ですから、勉強ができない状態が続いていたというのは中々にリスキーなことだと思います。(今僕もめっちゃ苦労してるよ)

就職活動に置き換えると、特段にコミュニケーション能力が高い、体育会で成果をあげている、バイトやサークル、課外活動で並外れた実績を出した、そういう場合はそれがあなたの強みの証明になりますが、勉強ができない、そして上記の何かもない場合、あなたの優秀さを証明するものが何もないという事になるんですね。

その上で戦わないといけないんですから、そりゃ苦労するでしょう。

おわりに

そして、ほとんどの人はそういった人並外れた何かを持っていない。
なので、勉強をするのでしょうね。

勉強を通して、自分の選択肢を増やし、可能性をカタチにするのです。
勉強を通して、自分の能力や特性を理解するのです。
勉強を通して、自分の興味関心が向く先を知り、将来の選択のミスマッチを減らすのです。
そして、自分はデキるんだ、価値があるんだ、と証明するのです。

勉強というのは、持たざるものに与えられた起死回生の一手なのです。

何でもかんでも就職に繋げたり、意味や意義を問うのはダサくてナンセンスでしょうもねぇなとは自分でも思いますが、とはいえ稼いで食って、その上で納得して幸せに生きていく上ではやはりほとんどのケースにおいて、学校での何かは働くことに繋がるんですよね。

本心では、もう飯食ってウンコして寝て生きていて、それだけで人間としては十分だと思う。その上で誰かに優しくあれたら、もう立派だと思う。
のんびり生きて、恋をして生きるだけで良いとも思う。

僕の好きな一節に、「命など 陽と地と詩で満たされるほどのものなのに」(菊池正央『人といふもの』)というものがあります。
その通りじゃないですか。ただこの社会ではこの境地にたどり着くまでに、精神的にも物質的にもある程度満たされないと辿り着けないことの方が多いんですね。その為に、稼ぐ。働く。そして、富を捨てる。歪ですね。

でもまあ、こういった質問を頂き、その上で僕自身が進む道を加味して答えると、ある程度厳しい言い方になってしまいました。

お気を悪くされた方がいましたら、すみません。

でも、やはりそれが今の資本主義であり労働形態であり、僕のこのnoteに触れている人はきっとそのゲームの渦中にいるでしょうから。
(どこか遠い国にいったり、第一次産業等に働くことと食うことの距離が近い仕事をする等、抜け道はいくらでもありますしね。)

まあ、出来たら、勉強しましょう。
なんか、やっぱり生き辛いな〜、やっぱり利口な人が過ごしやすい社会だな〜とか思って萎えてきましたわ。

おわり

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